幕間
雲間にて
雲間にて
関連キャラクター:チック・シュテル
- 花信風のしらせ、幕間
- ●報告後、帰路
「それじゃあチック、今日はお疲れ様」
刑部省に少女の身柄を引き渡した僕がゆっくり休んでねと告げれば、チックも「雨泽も」と言ってくれた。
「……雨泽? どう、したの……?」
くすぐったい気持ちが溢れたのだろう。小さく笑ってしまった僕に、君は不思議そうに首を傾げた。
「いや、だってね。君ってば」
路地でのやり取りを思い出すと、僕の胸には愉快な気持ちがもっと溢れてくる。
僕をかばうように前に出た、君の姿。
正直、あれには少し驚いた。
報告書でチックの働きは知っていたけれど、君のことは大人しい子だと僕は思っていたから。
「王子様みたいで格好良かったよね」
僕はお姫様だなんて柄じゃないから口笛を吹きそうになったけれど、空気を読んで飲み込んだんだよね。
「おれに、付き合ってもらってる……のに。雨泽に危ない目、合わせられない……合わせたくない、から」
「うん、うん。そっかぁ。それじゃぁ、危ない時はよろしくね」
なんて笑えば、君は生真面目そうな顔でしっかりと頷いていた。
でもね、チック。
――それは、俺もなんだよ。 - 執筆:壱花
- いとし花むすび、幕間
- ●藤の日のお土産
兎がちょんと座った形の『兎鈴』は、根付に出来るよう紐がついている。
その紐を摘んで腕を伸ばして揺らせば、視界に広がる藤棚の上を小さな兎がちょこちょこと歩いているようで可愛らしい。
「……あ」
「どうしたの、チック」
「ん……もうひとつ。買おう、かな……」
「もうひとつ?」
どうするの、と問う視線を向ける雨泽に、チックは淡雪のように柔らかに微笑んだ。
愛らしい兎の形の鈴は、きっと年端もゆかぬ少女が喜ぶことだろう。
姉を亡くしたことを刑部省で知ったであろう少女の、少しでも心の支えとなることを願って――。
「ふぅん。それじゃあ僕はお守りでも買おうかな」
「お守りも……可愛い、ね」
「お守りってね、念や思いを吸収するんだよ」
そう言って社務所に再度向かうチックについてきた雨泽は『藤守り』を買い求めて。
手にしたばかりのお守りには、神様の加護がある。藤花刺繍が揺れる愛らしいお守りをを両手で包んでから、雨泽はチックへと差し出した。
「はい、あげる。君、結構無茶をするみたいだから」
これで加護も二倍だよ、と。 - 執筆:壱花
- 蜜月は夜明けまで、幕間
- ●つきあかりの
シレンツィオ・リゾートを訪れた数日後、ギルド・ローレットに寄った時に偶然雨泽と出会った。
チックの翼が視界に入ったのだろう。人々の間をするりと猫のようにすり抜けた雨泽はやあといつも通りに笑って、チックへと封筒を差し出した。
「これ、は……?」
「こないだの写真だよ」
早速確認してみれば、白百合のブーケを手にしたチックがパンツスタイルのドレス姿でステンドグラスの前に立っている。チックの立つ場所にはちょうど月光が差し込み、まるでスポットライトのようだ。写真は二枚。ひとつは全身、もうひとつはバストアップで瞳を伏せているところ――丁度撮った時に瞬きをしていたのだろう。けれどそれは、祈るようでもあった。
「あまり上手に撮れなくてごめんね?」
カメラマンが夜には居なくなるのは、彼自身の生活もあるが、撮影をするには光源が足りないからだ。それでも夜に撮るのならば沢山の蝋燭に火を灯すけれど、その日の光源は月明かりのみ。薄暗さのなかにぼやけてしまっている。
「大丈夫、……ありがとう」
大切にするねと胸に両手で封筒を押し当てて微笑めば、雨泽が安堵したように吐息を零すのが解った。
「おかえりなさい!」
「おにいちゃん、なにかいいことあったの?」
家に帰れば、小さなこどもたちが足元にわらわらと集まってくる。
「ただいま、みんな……ちょっと、ね」
こどもたちはみんないい子で、帰ってきたばかりのチックをあれやこれやと手伝ってくれる。荷物はこっち、おにいちゃんはそっち。気付けばソファに座らされていて、いいことのお話聞かせてとチックの周りにレムレースたちが集まった。
「撮ってもらう、したんだ」
封筒から写真を取り出せば、わあ! と歓声を上げてこどもたちが覗き込む。
「おにいちゃん、きれい」
「あのひみたい」
「……あの日?」
リュケの言葉に瞳を瞬かせて首を傾げれば、「うん」と元気に答えるのは別の子だ。
こどもたちは顔を見合わせ、せーのとタイミングを合わせてチックへ告げた。
「「「おにいちゃんと、ぼく(わたし)たちがはじめてあったひ!」」」
月明かりのステージで歌うチックが綺麗で、それがどれだけ嬉しかったか。
だから、ね。
今日もお歌が聞きたいな! - 執筆:壱花
- あやかし道中、幕間
- ●嚼
鬼灯提灯揺らして、漫ろ歩き。
「……がおー、噛みつく……するよ?」
指を軽く折り曲げてがおーのポーズをしたチックに、傍らで狐の手を作っていた雨泽が「えっなにそれ」と吹き出した。
「チックの中の鬼ってそういうイメージ?」
「おかしい、した? ……雨泽は、噛む……しない、の?」
「え。僕? うーん……噛んでもいいのなら噛む、かも?」
「噛む……するんだ」
「好きなものしか噛みたくないけど」
真っ直ぐに向けられる無垢な瞳に、狐の半面の下で雨泽がえーとかうーんとか暫く唸って葛藤している。
「いや、やっぱり噛まない」
転じる答えに、チックが首を傾げた。
結局、どちらなのだろう。
「本気で噛んでも許されるのは猫だけなんだよ、チック」
鬼灯提灯を揺らして、作り直した狐の手の口部分をパクパクさせながら零した言葉。
それは静かで、それでいて真に迫るような声だった。 - 執筆:壱花
- 幽けき涅槃吹、幕間
- ●演目前
「雨泽、よろしく、ね」
何かあったら――危険があったら、逃げて欲しい。
そうして、刑部省に伝えて欲しい。
そう告げたチックに、雨泽はいつものようにすぐにうん――とは言わなかった。
「あのね、チック。それは君もだよ」
前にも似たことを言ったかもしれないけれどと、ばつが悪そうに指先が耳飾りを弄る。
助けを呼ぶのは大事だし、救いたいって気持ちはわかるし、希望を捨てたくない気持ちも解る。――例え殆ど答えが出ているとしても。
けれど、それでも。
「俺は君の事を友と思っているから――」
「雨泽?」
言葉の続きはない。
情報屋として依頼をしている以上、危険なことをするなとは言えない。
「ううん、気にしないで。今日の公演、楽しみにしているね。チックの歌、僕好きなんだよね。特等席で聞きたいくらい」
どこかいつもより早口でそれじゃあまた後でと会話を切り上げ、背を向ける。
(……雨泽?)
チックは首を傾げて彼の背中を見送っていたけれど、やることをやなくてはと関係者入り口に姿を消した。
チックの気配がなくなってから、雨泽は慌てて路地に入ってしゃがみこむ。
(何かすごく格好悪いこと言っちゃったよね、今!)
演目を終えて再度芝居小屋の前で合流した時には雨泽の態度はいつも通りで、チックは緩く首を傾げていた。
気のせい、だったのかな? - 執筆:壱花
- さいわいの魔法
- ●
「付き合ってもらっちゃってごめんにゃ、チック」
「ううん。いい、よ」
とててと軽い足取りで地を歩く白猫とは視線が合わない。
いつもは――多少のヒールの違いはあれど――同じ高さだからか、何だか少し不思議な間隔を覚えながら、チックは手に抱えた荷物を抱え直した。
『お願いがあるのだけれど、付き合ってくれにゃい?』
そう首を傾げた白猫――雨泽は、収穫祭に賑わう町の中を抜け、ケーキ屋さんへと向かった。受け取る予定の手が使えにゃくにゃっちゃってさ、なんてにゃむにゃむ言う雨泽の代わりにチックは荷運びをしてあげているのだ。
揺らすと中身が崩れてしまうと聞いているから、揺らさないように慎重に菓子の入った箱を運ぶ。今日は収穫祭だから、南瓜のお菓子だろうか。それともお芋? どちらも美味しそう。
「あとは……」
雨泽が時計台を見上げる。時間を気にしているようだ。
市場の色とりどりの菓子たちの間を泳ぐように歩む。
「これ……あの子たち、好きそう……」
レムレースたちが好きそうな菓子を見付けたから買って、お土産にする。
そうして買い物を楽しむと、再度雨泽が時間を気に掛けた。
「そろそろいいかにゃー」
帰ろう、チック。
白猫が鈴を鳴らして笑う。
可愛い彼らが君の帰りを待っているよ。
「おかえりなさい!」
明るいレムレースたちの声と、笑顔。
ただいまとチックがレムレースたちに返す前に、とたたと走った雨泽がレムレース側へと廻った。
誰かが「せーの」と口にした。
「おめでとう、おにいちゃん!」
「誕生日おめでとう、チック」
弾けるように、祝いの声が降り注ぐ。
「え……」
「びっくりした?」
「ふふっ、おめめまんまるっ」
「成功にゃね」
屈んだレムレースと白猫がハイタッチ。
「こっちにきて」
レムレースが空いている手を掴んで急かし、リビングへ。
「わ……」
リビングは、チックへのお祝いの飾り付けになっていた。
雨泽が迎えに来た時は、数日前からレムレースたちがチックと飾り付けていた収穫祭仕様だったはずなのに、いつの間に。
「……あり、がとう」
いつも以上に、言葉に詰まってしまう。
箱も開けてと急かす声に倣えば、そこには―― - 執筆:壱花
- 南瓜が笑えば猫も歌う
- ●
にゃ、にゃ、にゃ♪
短く白猫が歌っている。
否、合わせているのだ。チックの奏でる歌声に。
今日の雨泽はいつもよりも――心の底から本当に、楽しいのだろう。
白い尾はピンと立っているし、『ヒゲ時計』は10時10分を指している。
その姿が感情に素直なことに、きっと雨泽は気付いていない。
「チックのその姿って、歌を奏でるひとだよにゃ」
小さな猫の身体にはあまり量は入らないからとチックに分けてもらう形であんぱんももなかも口にした雨泽は、腹がくちくなった頃にそう口にした。
「雨泽、ふぁんとむ……知ってる、の?」
おれは詳しくは知らない。
目を僅かに丸くしたチックに、雨泽がうんと頷いた。
雨泽はその物語を知っていた。
ファントムは、仮面で『醜さ』を隠している。
だからチックは――。
水色の瞳が細まって――蕩けるように綻び、思考を隠す。
「彼の有名な言葉は知っているにゃ?」
「……何、だろう?」
「『歌え、私のために』」
物語内で歌姫と歌の掛け合いがあるのだ。
「一緒に、じゃ……ダメ?」
「ダメ。……ねえ、言ってよ、チック」
僕に命じて。悪戯だと思ってさ。
今宵はファントムナイト。君の欲も願いも叶う夜。
いつもは歌ってと言って目を伏して耳を傾けるだけなのに。
雨泽は今日のこの日――このファントムナイトの夜だけは、チックの声に合わせて楽しげににゃあと歌っていた。 - 執筆:壱花
- 暗雲払う野分、幕間
- ●お守りの行方
「あのね、チック」
「うん」
話しかけてきたのに、雨泽がその先を話さない。
否、話そうとはしているようだ。唇を薄く開き、そして閉じるを繰り返している。
チックはそうした時、相手を急かすことはない。幾らでも待つ気で、ただ静かに彼の側に居た。
「……ごめんね」
時間を掛け、ようやく零されたのはそんな言葉。
どうしたのと視線を向けて首を傾けると、言葉に詰まったような微妙な視線とかち合った。視線はすぐに外されて、一度落ちてからまた上げられる。
「せっかくお守りくれたのに、壊れちゃった」
見える場所につけておいたのに、と左手が右手首を撫でた。
小さくぽつりと零されるのは、気付いたら弾けて無くなってしまっていたこと、欠片を探そうにも戻れなかったこと。
――なんだ、そんなこと。
彼の元気がない理由が解って、チックはホッと息を吐いた。
「雨泽が無事で、よかった」
「うん。チックも無事で……じゃなくて。だからね、代わりを贈ってもいい?」
「本当に、気にしていない……よ?」
あげたものだから弁償するようなものでもない。
かぶりを振るチックに焦れたのだろう。ああもう、と笠で隠されていない前髪をくしゃりとして。
「俺が気にするの!」
だから今度、一日付き合って。
勢い任せにそう言った。
いつも通り「君が気にしないならいい」とは言えなくて。 - 執筆:壱花
- 甘い満月と兎
- ●重さ
「待たせてごめんね」
ちょっと待っていてと言いおいて、暫く。人混みに辟易しながらも雨泽が駆け戻ってきた。
手には離れる時にはなかった紙袋を抱えている。
「ゆーおにいちゃん、あまいにおい」
「おいしそうなにおい!」
「……お菓子?」
「そ。鼻がいいね」
レムレースたちの背に合わせるようにしゃがんで小さな紙袋を開くと、ふんわりと甘い香りが更に広がって。
わあと声を上げるレムレースたちに彼等の掌サイズの今川焼きめいた菓子を配れば、湯気立つそれを早速ぱくり!
「ありがとう、おにいちゃん」
「わ、なかにあまいのはいってるよ!」
とろりと蜜色の飴が溢れて、見て! とチックの袖を引いてくる。
「本当、だね……美味しい?」
「うん、おいしい!」
「チックの分もあるけど、まずはこっち」
手を出してとジェスチャーで示し、チックが掌を上向けると「これが僕からの贈り物」と小さな何かを置いた。
「……うさぎ?」
「そう。置物の」
掌の上では親指と人差し指で摘める大きさの兎が、体の半分くらいの満月にちょこんと手を置いてチックを見上げている。
「重くなさそうな物って中々探すのが大変で、遅くなっちゃった」
「……重い?」
兎は、確かに軽い。
「うん。……はい、チックも」
兎の居ない手に菓子を載せ、自分の分を齧る寸前「気持ちが」とだけ呟いた。 - 執筆:壱花
- おもかげ香、幕間
- ●割れた林檎
まるで空を飛んだような浮遊感とともに、意識が覚醒した。
目尻に溜まっていた涙が瞬きで零れ落ち、指先で触れてから手の甲で拭う。
香を焚いた皿の上には灰だけが残っており、それを確認してからチックはベッドを抜け出た。
寝間着から着替え、朝食の支度をしようと髪を縛る。鏡に映る己の顔は、幸せな夢を見たというのに何処か物憂げだ。
(……まだ、いつもより早い……)
時を刻む針は随分と早いところに留まっていたから、チックは少し悩み――そうして決めた。
アップルパイを、焼こう。
朝からアップルパイだなんて、一緒に暮らしている子たちは驚いてしまうかな?
でもきっと、その驚きは喜びへと傾いた驚きだ。みんなは「美味しそう!」ってキラキラと瞳を輝かせてくれることだろう。
チックはキッチンへと向かい、林檎を切る。夢の中で『あの子』がそうしていたように。
夢の中のチックはひとりでは出来ないことが多くて、助けてもらってばかりだった。
(……でも、今は)
チックはひとりでも出来ることが増えた。今ではもう、アップルパイを作ることだって出来てしまう。
出来ることは日々を重ねるごとにひとつひとつ増えていく。それはとても嬉しいことのはずなのに、かたわれの夢を見たせいか、チックの胸はズキリと痛んだ。
もし、叶うのなら。
君とまた、アップルパイを焼けますように。
「おにいちゃん、おはよう」
「わあ、いいにおい」
レムレースと、それから一緒に暮らしている子たちも起きてくる。
朝日よりもキラキラな瞳と穏やかな空気。
幸せだ、と思う。
焼きたてのアップルパイを囲んで、切り分けて。美味しいねと笑い合う。
本当に、幸せだ。明日も明後日も、こうしていたい。
けれどもそこに、君だけが居ない。
チックの『新しい家族』が笑っている。
(……いつか、君に……会えたら)
あの子にも家族を紹介して、一緒に暮らしたい。
それからまた、一緒にアップルパイを食べたい。
ゴロリとした林檎は甘くて、とても美味しくて――少しだけ、胸が苦しくなった。 - 執筆:壱花
- 熱
- ●わがまま
魘され意識が浮上し掛かると、ごほんと咳が溢れた。一度溢れればそれは止まることを知らないのか、空気が喉に流れ込む刺激で新たな咳を生じさせる。
視界が滲んでいる。熱で瞳が潤んでいるのか、生理的な涙なのか。それとも心が弱っているのか――解らない。思考を働かせる余力はあまりなかった。
天籟とチックには文(ふみ)は出した。後は天籟が何とかしてくれるだろうし、チックが案じることもないはずだ。優しい性根の子が心を痛めるのは、どんな時でも少し悲しかった。
(会いたいな)
儚げで、けれども穏やかに笑む顔を思い浮かべれば、自然とそう思った。
(違う)
即座に否定する。違わないことなど解っているのに。
ミィの姿よりも先にチックの姿を思い浮かべたことに、自嘲した。
(会ってどうする)
看病のされ方も、仕方も解らない。幼少期は健康すぎて、された記憶がないから。
(一般的にはどうするのだろう)
とりとめなく詮無きことばかりを考え続けてしまい、心が弱っていることを実感する。
(会いたくないな……誰にも)
会ったら、きっと――。
天籟と医者が去ってから、渡された紙片を開いた。
『早く元気になってね。ゆっくり休む、するの。大事だよ』
拙い文字が綴る手紙。
彼の文字はいつだって一生懸命な感じがして愛らしいと思う。字は心の鏡とも言われるくらいだ。常に一生懸命なのだろう。己とは大違いだと口角を上げれば、また咳き込んだ。
チックまで押しかけて来なくて良かったと心底思った。
(きっと我儘を言って、困らせる)
匙を握る手は普段より全然力が入らなくて。
(食べさせてと願ってしまいそう)
頑張って玉子粥を完食し、薬を飲んだ。
枕に頭を預ければ、手に触れる紙の感触。
掴む、握る。『代わり』に。
(チックが居なくて、本当に良かった)
――眠るまで手を握っていて。
そんな言葉を吐かずに済んだ。
眠気でふわふわとした意識が閉ざされる寸前、強く決意する。
――会う時は、完璧な俺で。
この思考は全部、熱のせいなのだから。 - 執筆:壱花
- 曇り空
- ●Side:雨泽
仕事柄、様々な情報が入ってくる。
気付けば知人が増えていて、其の報告書に目を通すことも増えた。しなくていいことをしている。そう気が付いて、途中でやめることも多い。
けれど、一枚一枚報告書の頁を捲る。
(俺は相当の物好きだな)
現場に送り出してお終いな筈の仕事の先を、案内していない仕事の先を、無事に終えたかどうかの確認をしてしまう。情が移っている証拠だ。よくない。
依頼は『無事』に終えていた、が。
――烙印。
その文字が目に止まる。事例としては既に知っていた。其れがイレギュラーズにも生じたとの報告があり、数名の名が記されていた。
――チック・シュテル。
指で触れて塗り潰せるのなら、きっと指先でなぞっていただろう。
伸ばした手を、チックが避けた。
――彼から離れてくれるのなら、それが一等いい。
ずっとそう思っていたはずなのに、小さく傷付いた――ことに驚いた。
距離が近くなっている事に気付いた時から離れようとした。出来るだけ誘うのをよそうと思った時もあった。けれど気付けば誘っている。思考と行動が乖離していて、よくないと何度も思ってきた。それなのに。
(よくない)
本当によくない。引いた線が消えてしまっている。
(いつも通りにしようって決めただろ)
きっと其れが彼にとって一等良いと思える行動だから、極力気にしない素振りで離れ、説明を続けた。
けれどもふと頭を過ってしまう。
――どんな花を咲かせたのだろう。きっと彼に似合いの可憐な花だ。
暴きたくなる気持ちを抑えて、『いつも通り』を心掛けて笑った。
そう、全部いつも通り。――最低なところまで。
*
*
*
丘でチックが弟と再会をし、ふたりの会話から少しだけ関係性が見えた。
弟に去られて震えるチックの背中を見て、俺は「良かった」と思った。チックが追いかけていたら、『あの言葉』を口にしていたのは俺だっただろうから。
言わずに済んで、良かった。君が居なくならなくて良かった。
ああ、本当に最低だ。
大切なのに、君の幸せを願ってあげられない。 - 執筆:壱花