●
　彼の日、少女が夢見る甘ったるい寓話の様に並べた綺麗事と共にばっさりと咽喉を斬られ、啞に為ったボクが思ったのは『存外に不便だ』と云う事だ。先天的に聲を出せなかった訳では無いから、其の二通りの人間には違った苦しみが或るのだとは思う。
　然して、生活は困難を極めて居た。何せ『痛い』と――其れ以外の感情でさえ言葉で誰かに伝える事も出来なくて途方に暮れる始末。
　
　――筆談。
　――或いは身振り手振りで。
　蝶に想いを託す事だって出来る――……。思い付く手立ては幾らか有った、だから。
　最初こそ戸惑いはしたが『其処迄、深刻な問題でも無いだろう』と高を括って居たのも事実。だが、其の何れもが何たって『こんなにも難しい』！

　言葉を交わすのだって、字を書く速度はそうそう早くとは行かない。今迄当たり前の様に在ったものの有り難みを此処数日で痛い程識る事となった。
　甘んじて受け入れた心算だ。此の疵痕を、愛おしいとすら感じているもの。名誉の負傷と云う訳では無い、只、数人の子供達の命と自分の聲を天秤に載せて釣り合わない事だって判っている。そうとなれば尚の事、今だに熱く焼き付く痛みと嘘の漏れ出ない脣を否定する事は、何者であれど赦しはしない。

　寒さが大分と本格的に為って来た頃。大樹の根元の住まいでひとり、眼を覚ます。朝の冷え込みなどはもうすっかり冬の足取りが感じられた。寝台は、ひとりで寝るには些か広くて温もりが足りない。
　領地の視察以外では、こうして引き篭もって何日目の事だろうか。待って居るのだ、帰って来てくれる事を。
　不意にくう、とお腹が鳴って今日も生きて居る事を実感する。吐息が、熱い。
　此の様な状態では食事を摂る事も儘ならず、出来たとしても到底そんな気分にもなれず――そして今ある現状全てを嚥下出来る程に彼女は達観して居る訳でも無い。
　――寂しいな、と思った。
　――声がなくたって、生きていけるのに、と口を尖らせた。
　――有りの儘の自分を受け入れてくれる、そう思って居たから。
　小さな鍋で湯を沸かし、茶葉の缶を開ければスプーン一匙分が掻き集めてやっと。眉尻を下げて乍らも其れを放り込んで、さあミルクをと瓶を見れば矢張り此れももう少ししか無かった。吹き溢れない様に鍋をじっと見つめ、時折掻き混ぜながらも何処か意識は上の空。そろそろ備蓄だけで済ませる暮らしにも無理があるかと、茶漉を経由してマグカップに注いだミルクティーはヤケに濃くて少しだけ咲ってしまって、其れから『何たってこんなにも虚しい』と、少し痩せて骨が目立つ肩を落とした。

　ちびちびとカップの中身を啜り切るのに小一時間。『お買い物に行来ましょうか』と重い腰を上げるのに掛かった時間は更に半刻程。こう、ひとりで腐って居ても仕方が無いし――其れにもし、帰って来てくれた時は彼が何時も好きだと言ってくれるシチューを沢山作りたい。
　嗚呼、ホールコーンの缶詰が幾つか欲しい。シチューもたまには違った味付けにしても良いし、優しい甘さに屹度貌も綻びそうだ。其れにコーンスープ位だったら問題なく今の自分でも飲み干せる。
　寝巻きから何時もより随分と気を遣わず適当に手に取った服に着替え、チャコールグレーのニットコーディガンを着込む。寒さでちくちく痛む疵はタートルネックのブラウスで隠した上でマフラーをぐるぐると巻いた所で、鏡で見れば少し毛羽立っているのが気になった。毛糸を買って来て新調するのも良いかも識れない。何方かと云えば軀を動かす方が好きなものだから、編み物なんてした経験が皆無で――柄でも無い事を、と云われてしまいそうだが。矢鱈と長く感じる時間の手慰みには為るだろうし、あの子達の分も在れば少しは喜んで貰えるか――判らないけれど。過度な施しは毒だが其れ位は許されるか――。
　思い立ったが吉日。メモに『毛糸』と書き加え、ブーティを履き扉を潜れば、色付いた落ち葉が随分と溜まって居て。湿気た其れ等を踏みながら歩き出す。
　――世界はこんなに色で満ち溢れて居るのに、如何してだか。眼に映る景色は彩を欠いている様に思えた。

●
　『ひとりにしては随分と買い込むのだなあ』と云うのが、最初の印象。連れの姿は特に見当たらず、荷物の量は少女の身の丈にも抱き抱える腕の長さにもそぐわないと思えるのに、今度は肉を買おうと云うのか、最早片手の手指位しか可動域が無い中で懸命に指を差して――一言、二言、精肉店の店主が口を開いたかと思ったら怪訝そうに彼女を見て居て――話し掛けた最たる理由は好奇心だ。
　『ひょっとして此の娘は喋れないのではないか』と見当を付けたのもある。そして、其の貌と頭に留まった蝶々の髪飾りには何となく見覚えがあった。恐らくは同業者＜イレギュラーズ＞。そんなものだから助け舟を出したのであって、ぼくはお人好しとは謂えど隣人程に度を越しては居ない。
「もし、其処のあなたさま、――何ポンドをお買い求めで？」
　右の掌を差し出して、左手人差し指で字を書く様に示せば、おずおずと彼女が『７』の形を指でなぞる。店主に其れを伝え、一先ずは自分のコインケースから代金を支払うと手を引いて歩き出す。
　『７ポンドですか、……人の仔の頭と同じ位の重さですね』と、そんな事を宣い乍ら後ろを見れば、手を振り解く事無く着いて来る娘――如何せん口が利けないのだ、此の状態で名を尋ねても双方困ってしまう――【少女Ａ】とでも仮定しよう、少女Ａの頬にはぽろぽろ、しとしとと泪が伝っていたのを認めて、思わず『ええ？』と聲を挙げてしまった。
　やめてくれ！　目立つ、そんな事をされては余りに目立つ！
　適当な喫茶店か何処かでひと息吐いたら家を訊いて送り届ける心算だったと云うのに、泣かれたのでは人目に付く場所は憚られるではないか――

　弾き出した最適解は――詰まりはこうだ。
　アパルトマン・モールドレ。
　其の三階に在る己の部屋に一先ずの所、連れ込まざるを得なかった。
　
　――此れが、少女Ａとぼくの出逢いにして、以下が思い出せる範囲での会話の記録である。

アイラ・ディアグレイスさま――→【https://rev1.reversion.jp/character/detail/p3p006523】

（部屋の中央には、テーブルには少し嗄れて頭を垂れるクリスマスローズを一輪挿した花瓶。
　其れ以外は特筆すべきものも無く『簡素な所』と云う印象を受けるだろう。
　陽こそ窓から差し込むものの、冬の冷たさで満ちていた）

――嗚呼、荷物は此方へ。どうぞ、適当にお掛け下さいまし。
此処は、ぼくが間借りして居るアパルトマンで御座います――ので……
まあ、思う存分泣けますかと。

事情は、識りませんが――其の、
歓喜なり、悲嘆なり。何かしらなければ、泪は流れますまい？
其れで少女Ａ――……失礼、あなたさまは、ぼくが見るに後者の様に思えたのですよ。

（涙。情けない、見ず知らずの少女の前で流してしまうとは。
　両手いっぱいの荷物を抱え直して、一礼し、部屋へとおずおずと踏み出した。
　感じることのない冷気を覚えたのは、いつからだろうか。
　冬の部屋の寒さを思い出したのか、瞬き、小さく唇に自虐の笑みを浮かべた）

……っ、ぅ。

（ありがとう。とは、言えなかった。否、『言う手段がなかった』の方が適切か。
　音にすらならない、醜い音だ。そう、傷ついた声帯が嘗てのように音を鳴らすことはないのである。
　目を伏せて、その代わりに長く長く、時間をかけて深く礼をした。

　悲嘆――「『悲』しみ、『嘆』くことだよ」と。
　優しく教えてくれた彼の声が耳朶をなぞる）
（勇気のいろ。彼女が差し出してくれた右の掌。
　識っている。理解している。
　だからこそ、己が『贈り物』を使うのは……そう躊躇う理由は、なかったのだ）

『……ええ』
『その、通りです』
『先程は、助けてくれてありがとう。名も知らぬお嬢さん』
『ボクは。悲しい』

（ふわり。少女Aと呼ばれた己の瞳と、同じ色をした蝶が飛んだ。
　気紛れに飛ぶ……訳でもなく。相手が居るからこその蝶は、目の前の白の娘めがけて、余裕たっぷりに飛んで行った。
　――もちろん、蝶の主たる少女Aに、そんな余裕はないのだが）

（ふわり舞った蝶々に触れれば、頭の中に流れ込んで来る言葉があった。
　嗚呼、屹度彼女が喋れるなら、こんな聲をしているのだろうか。
　女は然して驚いた様子も見せないし、にこりと微笑いもしない。
　――無愛想、そう感じる者は一定層は居るに違いない）

そうですか。何、礼には及びません。名前を名乗っておりませんでしたね。
……――散々、未散。ちるちる、みちる、と申します。
チルとかミケとかポチとか、将又他の何かでも、お気軽にお呼び下さいな。
（大凡犬や猫につける名前を引き合いに出す様子からして、本当に本心から名前に執着が無い様であった）
　
悲しいのなら、泪が引っ込むまで好きなだけ、此処で泣いて行くと良い。
温かいタオルを作りましょう。……あれ、そう云う時は冷やした方が、良いんですっけ。
（泪は『あめ』が代弁してくれるから、泣いた事が無い。
　――泣けない、若しくは泣き方を識らないが故に、どうしたものかと首を傾げた）

兎も角、一先ずお湯を沸かしましょうか。紅茶と珈琲、何方の気分です？

（人形のようだと思った。驚きを示す瞬き二つ。
　唯、違うのは其処に軽蔑やら嫌悪やら、そういった面倒な感情があるのではなく、そう云う人なのだろうな、という肯定のみであった。
　名に対する拘りや、執着を見せないところが、よりそういった色を強く滲ませているのだと。
　娘にしてはやや達観、或いは諦観した言動が、アイラをそう思わせた）

『あは』『ポチとか、ミケ、とか』
『動物のなまえじゃあ、ないですか』
『でも、そうだな』『こだわり、ないんだったら』
『るーちゃん』『って、よぼうかな』

（勝手に頷き、満足した様子を見せる。
　ネーミングセンスはないし、至って平凡ではある、のだが）

『……ありがとう』『それなら、そうしようかな』
『ふふ』『ボクも、冷やすとか、わかんないの』

『あ』『……こーひー、かな』
『のんだこと、ないんだけれど。いいかな？』

（なんとなく、今日は『普段通り』ではいけないようなきがしたのだ、と。問われれば答えるだろう。
　甘党、初めての珈琲。多分後で泣く。
　其れでも、痛みに比べれば、苦味などいたくもかゆくもないのだから）

るーちゃん。
……そう呼ばれるのは初めてで御座いますね。ふふ、本当に、何だって良いのです、ぼくは。
（ひらり、ひらり、近くを飛ぶ蝶にそうっと手を差し伸べて、
　指に留まった此の子は彼女の笑い声。
　ウケ狙い、と云う訳ではないものの、泣いているより其の方がずっと良い、とだけは思った）

どうしたものか、……取り敢えず、手で擦っていては周りが腫れてしまいますでしょう？
（とてとて、部屋を横切って、真新しいタオルを持って来て手渡した）
……一先ずは此方で、どうぞ。

ふむ。少女Ａは珈琲を飲んだ事が無い、――なら、
うんと、苦いのを淹れますか。
（なあんて、キッチンのシュガーポットと粉末のミルクの残りを確認する。
　多分、此れなら初めての珈琲でも大丈夫であろう）

処で、此の蝶は、伝え過ぎると疲れてしまう……等はありませんか。
でしたら、ノートとペンを、お貸ししますが。
（湯を沸かしている間に、自分も椅子に座ってミルでふたり分、豆を引き始める。
　香ばしい、良い匂いが辺りを漂い始めた）

『……』
（何か変だっただろうか。小さく笑う声に瞬き二つ。
　我ながらいい感じだと思ったのだが、と、のちに少女は語るだろう）

『わ』『ごめんなさい』
『ありがとう、ございます』
（綺麗なタオルを汚すのは心苦しいものの、ハンカチすら持ち合わせていない己にとってはこれ以外に拭ける布はない。
　なるべく汚さぬように、ゆっくりと顔を沈めた）

『に、にがいの……』
『いえ！』『のりこえてみせましょうとも』
（それに、相手から出されたものならば、飲み干して見せる自信もある。
　幼いころの不遇は幸運か不運か、少女の味覚を少々麻痺させているのだ）

『いえ、とくには』『疲れることは、ありませんね』
（ひらひらと、自分の周りを舞う蝶。
　それは魔力の塊であったり、ギフトであったり。
　案外この世界には愛されているのかもしれない、と肩を竦めて）