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美しき別れ
登場人物一覧
●別れの記憶
ヴェルグリーズ(p3p008566)の最初の記憶、それは美しい別れだった。
「これをわたくしだと思っていつまでも貴方の側に置いてください」
金糸の髪と銀光の眼を持つ姫君は、一振の剣を向かい合う男に差し出した。
色づく口唇は悲しみに震え、今にも零れ落ちそうな涙を湛えている。
姫君はこの小国の命運を背負って隣国に嫁ぐことになっていた。
それが王女の務めであり、王女付きの騎士は嫁ぐ日まで大切にその身を護るのが務め。
だが目の前の騎士に対してだけは心を許し、離れがたき感情を抱いていた。
「我が心はいつまでも貴女様の側に。姫の身に危機が迫った時には如何なる場所にでも助けに参ります」
若き清廉な騎士はその剣を受け取ると、鞘から抜いて誓いを立てる。
王女の護衛騎士に任じられた時、この愛らしい姫君を命に代えても守り抜くと心に誓った。
やがて姫が美しく成長するにつれ忠誠は恋情に変わったが、いずれこの関係は終わるものと言い聞かせてきた。
「必ずよ、必ず肌身離さずにいてね。そして私が危ないときにはその剣を持って助けに来て」
「我が忠誠、我が剣は生涯姫様のものにございますれば、何に代えても必ず」
騎士は己の為に作らせたのだという剣に口付けてみせる。
この腕に抱くことも叶わぬ愛しい女の代わりに。
●王の別れ
次にヴェルグリーズが覚えているのは、姫君の父である王との最後の別れだった。
「何故で御座いますか? 隣国は我が国の同盟国……陛下のお子様が嫁いだ先では御座いませんか」
北の強国に攻められた隣国は落城まで風前の灯だった。
兵の数ばかりではない。北の強国は新しい兵器を投入し、戦力の差は歴然。
王は既に強国との間に援軍は送らず静観するとの密命が交わされていると答えた。
王とて愛娘の行く末が気にならぬ訳はない。
だが王は一人の父であるよりも多くの民を守る君主として、隣国と連坐して滅ぶより、強国に従属して永らえることを選ばざるをえなかった。
仮に逃げて来た姫を受け入れようものなら、引き渡しを要求され、拒めばそれを理由に滅ぼされるだろう。
「ならば陛下、今日この時より陛下の騎士である栄誉を返上し、お側を去ることをお許しください」
それはただの男となり、一人姫君を助けに行くという宣言。
「これまでよく仕えてくれた。何処へなりと行くが良い。但し最早我が国の騎士ではないゆえ、騎士団のマントは置いて行け。その方がかえって動きやすかろう」
王の言葉は国に迷惑をかけるなという釘刺しであると同時に、国家に縛られることのないようにという配慮。
騎士が剣を掲げて臣としての最後の礼をすると、王は長年の功を讃え、娘を案ずる父親の顔で一言「頼む」と呟いた。
●姫の別れ
再びヴェルグリーズが姫君とまみえたとき、白髪の老婦人には別れた日の面影があった。
「助けに来てくれたのですね」
「騎士は主を守るのが務め。貴女様との約束を違えはいたしません」
妃となった姫君は隣国の王の子を産み、子が王位を継いでからは国母として慕われた。
騎士は国一番の剣士として近隣諸国にまで名声を馳せたが、妻を娶ろうとはしなかった。
騎士の胸にはいつでも若き日の恋の記憶と約束とがあったから。
「ここは私にお任せを。姫がお孫様を連れて逃げるくらいの時は稼げましょう。これを着て下水に潜ったなら道が尽きるまで真っ直ぐに進み、西の森を目指してください」
粗末な衣服を差し出すと、姫君は涙を浮かべて微笑みながらそれを受け取った。
「わたくしを変わらず姫と呼んで下さるのね」
「貴女は私のただ一人の姫。生涯ただ一人のお方」
「でもわたくしは夫も子も、孫まで出来たし、髪ももうこんなに白くなったわ」
「私も老骨となりましたゆえ、お相子で御座います」
姫の美しかった金髪は白く変わり、眦には皺が刻まれている。
騎士もまた剣士としての最盛期をとうに過ぎ、声も嗄れていた。
変わらぬのは騎士の手にある一振の剣だけ。
「その剣、まだ持っていて下さったのね。離れても貴方にとって近くて大切なものであるよう願って贈ったのよ。貴方はわたくしのものだと言いたくて」
「私の側には常にこの剣がありました。誰も娶らず、剣だけを生き甲斐にして、寝るときも傍らに置いて離しませんでした。この剣だけが私に許された愛の形だったのです」
若き日の許されざる恋は執着に変わり、約束という鎖が離ればなれになった二人を結びつけている。
だがそれは果たされると同時、再び別れは訪れる。
「さあ姫、私にあの時の約束を果たさせて下さい。貴女が生き延びて初めてこの約束は永遠の愛の証として成就されるのです」
「愛しているわ、ヴェルグリーズ。わたくしの騎士、わたくしが心から愛したただ一人のひと」
下水道を辿った先では馬車が待っている。裕福な深緑の森の商人の妻という新しい身分と暮らしが。
姫の姿が見えなくなると、騎士は別れたあの日のように愛剣に口付けた。
●騎士の別れ
「国一番の剣士と謳われても寄る年波には勝てんか……この程度の軍勢、若い頃なら……」
城壁は崩壊し、王宮には敵兵が押し寄せている。
これから略奪と陵辱が始まり、王家に連なる者は悉く殺されるだろう。恭順する者には隷属を強い、従わぬ者は見せしめに虐殺する。それが北の強国のやり口だ。
騎士は己の台詞が敗者である老人の強がり、弱者の負け惜しみだと知っている。
だが姫が脱出する時を十分に稼げたことだけは上出来だと思えた。後は運を信じ、神に祈るより他はない。
「お前はとても良い剣だ」
騎士は共に戦場を駆け、幾多の苦難を共にした愛剣に語りかける。
慈しみ、惜しむように。
「折れさえしなければ拾った誰かが自分のものにするなり、売り飛ばすなりして先の世に残り続けるはず……。だから私はお前を折らせはしない。これでお別れだ」
騎士は言う。
新たな持ち主には人品優れた者ばかりではなく、残虐な悪党も、狡猾な王もいるだろうと。
だが残虐な悪党からは悪とは何かを、狡猾な王からは欺く術を学び、正も邪も人の全てを受け入れて強き剣となり生き永らえよと。
「お前は相棒というより息子だったのかもしれないな。私と、姫の……」
騎士は愛おしそうに剣を撫でると、これまでずっと共にあった剣を床に置く。
そして死んだ敵兵の剣を拾うと迫る軍勢に向けて走り出した。
●別れの精霊
剣を抜けば別れの記憶が甦る。
鏡に映る自分の面立ちは、王女付きの護衛であった頃の若き騎士そのまま。
ただ髪だけは年古りて白を被り、愛しい騎士を映す姫君の銀瞳を受け継いでいた。
ヴェルグリーズにはそれが何時の時代、何処の国の事だったのかは分からない。
王宮を脱出した姫君と彼女に抱かれた孫がその後どうなったのかも。
これまで幾人もがヴェルグリーズの主となり、彼らから数多の事を学んで人の姿を得たが、別れはいつでも胸を締め付ける。
『愛しているわ、ヴェルグリーズ』
剣を抜けば母の言葉は繰り返され、生き永らえよと父の願いが木霊する。
これからも出会いと別れを繰り返し、愛を、人を、知るのだろう。
だから自分は別れの精霊なのだと、ヴェルグリーズは亡国の英雄の剣に口付けた。