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春の瞳は幸福を映す
登場人物一覧
イゼル伯爵邸は以前にきたときと変わらない場所にあった。
ただ、手入れされていなかった前庭の草木はきちんと整えられ、美しい噴水からは絶えず水が流れている。
磨き抜かれた背の高い門の隙間からその様子を確認し、ニアは頬を緩めた。
ローレットを通して訪問の旨は事前に伝えてある。その際にシアル・イゼル伯爵の現在の暮らしについては軽く耳にしていたが、実際に確認すると安堵の度合いが違った。
「ニア様?」
呼び鈴を押そうとしていたニアは、右手から現れた少女と門扉越しに向きあい、瞬いた。
ぱぁ、と金髪碧眼の貴族然とした少女が顔を輝かせる。ニアも笑みを深めた。
「シアル、久しぶり」
「お久しぶりです! お待ちしていました、すぐに開けますね!」
フーゼリニ・ディーオ伯爵に脅され、ローレットに助けを求めた、弱り切った少女の面影はもうない。
明るく浮かれた調子で門の鍵を解除するシアルの胸元で、大粒の緑の宝石が揺れた。
豪奢すぎず、しかし高価と分かる調度品が並ぶ応接室にニアは通された。
壺や皿などが絶妙に飾られ、壁には大小さまざまな絵画がかかっている。シアルの亡き父は美術商だった。
「買い戻せたのです」
ティーカップをソーサーに戻し、シアルは淡い笑みを口元に浮かべる。
「使用人さんたちも戻ってきたんだね」
「はい。皆様のおかげです。本当に、なんとお礼を申し上げたらいいか……」
「シアルが今、平和に暮らせてるならいいんだよ。……あの後の話、ちょっと聞いていい?」
眉尻を下げてニアはシアルの身を案じる。
今日は若き伯爵の身にまた不幸が襲いかかっていないか、心配になって様子を見にきたのだ。
「はい。伯母様――マーゼル子爵と話しあわせていただき、爵位譲渡のお話も白紙に戻させていただきました。執事に頼んで使用人たちを呼び戻してもらって、父が集めていた美術品も買い直すことができました」
「春の瞳も無事だね」
「はい」
当然、屋敷の差し押さえも無効となった。
ローレットで得た情報とほぼ一致している。
綺麗に補修されている屋敷の壁や天井、給仕のために部屋の隅で背筋を正して立っているメイド、ここまで案内してくれた執事。その他の要素を入念に照らしあわせても、どこにも嘘はない。
爵位を正しく継承し、忙しい日々を送っているだろうに、シアルは疲れを見せていなかった。ニアは目元を緩め、ケーキをひと口食べてから、少し厳しい表情で問う。
「事故の原因は、分かった?」
「……いえ」
イゼル伯爵家の家宝、春の瞳をめぐる騒動の発端は、シアルの両親の事故死だった。
当初はディーオ伯爵が仕組んだと予想されていたのだが、本人は否定。依頼を受けていたイレギュラーズは能力を以て、それが虚偽でないと判断していた。
犯人捜しは情報屋が行っているという話をニアも小耳に挟んでいたが、進展の度あいについては聞いていない。
「もやもやするね」
眉根にきゅっとしわを寄せ、ニアはソファを細長い尾で軽く打つ。シアルは浅く頷き、目を伏せた。
(ディーオは春の瞳が欲しくて、シアルの両親の事故死に便乗した。自分が得をするために)
ケーキに彩を添えていた葡萄をフォークで刺して口に入れ、ニアは考える。
(シアルの両親が死んで、得をするのは)
本当に偶然の出来事でないなら。意図的なものだったとしたら。
(今より高い爵位が欲しかったとしたら)
いや、とニアは小さく首を左右に振る。幸せそうなシアルに、その推測を伝える気にはなれなかった。
「他に困りごとはないかい? 小さなことならあたしがすぐにでも手を貸すし、大きなことなら依頼してくれたら飛んでくよ」
「ニア様……」
「ニアでいいよ、様なんて堅苦しいし」
瞳を潤ませるシアルにニアはややぶっきらぼうに言う。シアルがはにかんだ。
「ありがとうございます、ニア……さん。大丈夫です」
「そう? ま、だめだなって思ったら早めに言うんだよ」
紅茶をひと口飲み、ほっと息をつこうとして、若き伯爵の顔が強張っていることに気づいた。
「シアル?」
「……ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
やっぱりなにかあるのか、とニアは背筋を正す。シアルが大きく息を吸い、吐いた。
「また、お茶をしにきてはくださいませんか?」
「……え?」
「ニアさんのお暇なときで構いませんので……。ローレットでのお話なども、聞かせていただけると嬉しいです……」
頬を赤くしたシアルの顔が徐々に下がっていく。自然と肩の力が抜けて、ニアは吹き出した。
「あの……」
「ごめんごめん、笑いごとじゃないんだろうけど!」
狼狽えるシアルに軽く手を振り、ニアは笑いの衝動を収める。
「いいに決まってるよ。また遊びにくる。シアル、今日まだ時間ある?」
「はい」
「じゃあ、もう少し話そうか」
シアルが表情を輝かせた。メイドがしずしずと、二人のカップに二杯目の紅茶を注ぐ。
お茶会は始まったばかりだ。