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やがて来る未来の為に
登場人物一覧
――かつて。
ラサにはオラクル・ベルベーグルスという商人がいた。
彼はラサの中でも古参の商人であり……そして。
「ザントマン事件の首魁でした」
アリシアは紡ぐ。己が眼下に在る『ザントマン事件』の報告書を一瞥しながら。
――深緑とラサを跨いだ奴隷売買の事件。伴って二か国の友好関係にヒビを入れようとしていたのが、かの事件の真相だ。オラクルはその尖兵であり、深緑で御伽噺として伝わっていた『ザントマン』の名を騙り不安を煽っていたという訳である。
その目論見はイレギュラーズの活躍により潰えた訳だ、が。
疑問が残っている。
それはオラクルという一個人に関する事。彼は魔種だったが――『いつ』からそうだった?
「……生まれた時から? まさか、そんな筈はありませんね。
反転という経緯を挟む以上、必ず後発的。どこかで何かがあった筈です」
アリシアが呟くのは思考の整理故だ。
脳内だけで反芻させるよりも口に出す事によって、聴覚も利用し情報を整理する……練達の方ではラバーダッキングなどと言われる事もあるのだったか? まぁそれはなんでもいい、がとにかく。
オラクル・ベルベーグルス。幻想種にして幻想種を攫っていた罪人。
彼の足跡を追ってみれば実に興味深い。彼は――幻想種の長命基準でだが、まだ若い時にラサに移り住んだ人物の様だ。具体的にはラサと深緑に友好が結ばれた後……
当時のエッフェンベルグ。クラウス・アイン・エッフェンベルグが死んだ直後に。
クラウスは傭兵王の異名を持つ伝説的な人物だ――が、幻想種ではない故に当然(幻想種の基準において)短命で死ぬ。その直後に狙いすましたかのように移住し、商売を始めるようになったのはなぜだ? 偶然か?
「或いは、クラウス氏の目に付きたくなかった?」
傭兵国家としての基礎を築いたクラウスには天賦の才があったに違いない。少なくとも凡人には成し得ない事だ。
……そんな人物にマークされる可能性を『もしも』恐れたのなら?
この当時から彼は魔種であり――友好を築いて『しまった』ラサと深緑の分断計画を練っていたのでは? クラウスが死んだと同時、多少はあるであろうラサの政治空白期間の混乱を狙って、ラサへ侵入する足掛かりを得ようとした。この正に丁度たる動きはそういう事では――
「いやしかし――時間が遠すぎますね」
と、ここで溜息一つ。
何か思惑をもって蠢動した時期と考えるには足るが……されど、オラクルが事を実行に移したのはごく最近の話だ。現代にまで潜伏する意味があるのか――? 長い時間を経て緩やかに友好関係は強化されているというのに。
やるなら商人として力を付けた後、なるべくすぐに行動した方が良かった筈だ。
現代にまで引っ張ったのはタイミングを逃しすぎるし、あまりにも怠惰が過ぎる。
「……それが『怠惰』の魔種の性質と考えたら、まぁおかしくもないのかもしれませんが――ああ全く駄目ですね。そこまでの可能性を考えると、とても考えが纏まりそうにありません」
指先で紙の感触を一枚一枚確かめていたアリシアだが、呼吸と共に額を抑える様に。
そもそも何故オラクルを調べているのかと言えば、『怠惰』の冠位魔種の動向を探れないかと思って故の事だ。オラクルは奴の尖兵であったと、事実上彼の口から分かっている。ならば、冠位の思考を理解していた彼の経歴を追えば。
「冠位怠惰の情報も引っぱり出せるのではないかと踏んだのですが」
その為に彼女は此処――ラサの首都ネフェルストに訪れた。
此処はいつでも陽射しが厳しく、猛暑を感じさせる。ラサ国家内で起こった様々な情報を抑えている、この中央情報処理室の中は冷房の魔術でも聞いているのか比較的過ごしやすい、が。一歩外に出れば気温差にやられそうになる所である。
本来余人の入れる所ではないが、イレギュラーズでもある彼女ならばと快く案内してもらえたのが此処だ。ザントマン事件――並びに関連する情報ならばと様々な書類を閲覧する事が出来ている。
「ラサの方でもあの後、オラクルの身辺調査は行われたようですが。他に目立った点はありませんね……勿論、まだ把握できていない情報がどこかに眠っている可能性もありますが……」
後は商人として特に目立った様なエピソードは無い。
順当に人脈を広げ、順当に商売を広げたという事だけだ。特に商売を始めた当時は深緑の知識や物品が貴重であったようであり、それらを上手く用いて大きな利益を挙げたようだが……取り立てておかしい事ではなく。
「……いずれ、また『怠惰』は動きます」
オラクルは倒した。しかし、まだだ。
冠位は今もどこかにおり、その命は――未だ健在。
『その時』はいつか来る。
「その前にリュミエ様達に何か手がかりを掴んでお渡しする事が出来れば良いのですが」
冠位魔種は何を企んでいるのか。
ラサを、いや深緑をどうするつもりなのか。
『怠惰』という属性を持つ者が、なんの目的をもって勤勉に働く事があるのか――
備えの足しになればと思うのだ。無為なる犠牲が、出てしまう前に。
……まぁこれらの調査はあくまでもアリシア個人の興味による所はある。
必ず、絶対に見つけなければならないという焦燥に満ちた義務感がある訳では無い。
「んっ」
腕を伸ばし、全身を緩やかに。座りっぱなしであった身に流れを伴わせる。
再度視線を落とせば机の上には幾つもの書類。
全てザントマン事件かオラクル個人のモノ。
「一つ、思うのは……オラクルがラサに出てくる前。かつての閉鎖状況下における深緑で魔種の様な異物が跋扈する隙間があったのでしょうか……?」
ふっ、と。思うのは一番初めに調べた事――クラウスが死んだ頃にオラクルが移住した事。
『もし』だが。あの時から既に魔種であったとして。
既に冠位の思考を理解していたとして――或いはそうでなくても冠位の為に動こうと『いざ』の為にラサに潜入を始めたとして――その時。深緑には怠惰の魔種が。原罪の呼び声の保持者がいたのか?
今よりもずっとずっと閉鎖間が厳しかった、深緑に?
「――」
外から入るのは難しいのでは?
もしかすれば、今も中にいるのでは?
深緑には多くの神秘的な地があり、余人入れぬ場所が多いと聞くが――
「まさか、そこに?」
いるのか?
冠位でなかったとしても、怠惰の属性を持つ者達の拠点が。
……これはあくまでも予測でしかない事だ。一切の確証はなく『もしかしたら』程度の考えでしかない。それでも多くの情報を眺めて、その末に思考が導き出した――一つの取っ掛かりとも言える。
「……リュミエ様。或いはルドラ様などにコンタクトを取れれば、深緑の中でも禁則たる場所の調査が可能でしょうか」
中々簡単にはいかないだろう。例えば予測が合っていたとしても。
証拠無き事に中々首を縦に振る事は出来まい。
……それでもいつか、機会がある折に話す事が出来るのならば。
「お話させて頂いても、それは罪ではないでしょう」
オラクル・ベルベーグルスは許されぬ罪を犯した。同胞を売り捌くという大罪を。
――あのような悲劇は、あのような被害を出す事件は絶対に食い止めねばならない。
いつかまた、親玉たる冠位が直に動こうと。
歩んだ道のりで得た全てで――彼らの陰謀を阻止してみせよう。