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雲雀と止まり木
登場人物一覧
空を覆っていた冬雲はすっかり通り過ぎた。
いまでは太陽の下で雲雀が歌い、雪の重みで軋んでいた若木の枝は雫の下に新緑を芽吹かせている。
傷つくことを、傷つけることを恐れた旅人たちが『それでもたたかう』ことを選び、勝ち得た夜明け。
これはそんなふたりの、ちょっとした『ごほうび』の物語。
●青空へのごほうび
「それでね。サティにはこういった淡い色のワンピースも似合うと思うんだけど」
「きれいなクリーム色だね。僕に合うかな」
少年のような無邪気さで、少女は両肘をつけて雑誌をのぞきこんだ。
職人の指がつやつやとした紙をめくる。しゅるり、とページが擦れる音が続いた。
――似合うわ。けれどそうね、合わせるストールはこのグラデーションの方がいいかも。
大人びた声が一つの品を指し示す。
「わあ、とっても軽やかな雰囲気になるね!」
「ならこっちの麦わら帽子と組み合わせて……」
「ふんふん」
風にのって弾んだ会話が流れてくる。
遠足にいく子供のような、穏やかな陽射しの中で微睡むような、そんな満ち足りた声。
芝生の絨毯に柔らかい灰色の木陰。それに真っ白なガーデンパラソルときたら、当然のように砂浜色のテーブルがひとつ付いてきた。
新しい木の匂いがする椅子がみっつ。長身と小柄、そして小さな一人がお行儀よく座っている。
並んでつつくタルトは仲良く半分こ。
何故ならどちらも宝石みたいに美味しそうだったので。
滑らかなナパージュを纏ったオレンジタルトはお日さまみたいにきらきらと輝き、銀星のアラザンが散りばめられたメロンタルトはしっとりとしたビロードの瑞々しさに照らされている。
三日月にスライスされた果実の薔薇がカスタードクリームの上で一輪咲き、甘いバターの香りが漂うクッキー状のタルト生地はさくりほろりと口の中で解けて舌を楽しませた。
「ふふふ! イヴはすごいね、僕のわがままをすぐに叶えちゃうんだもん!」
柔らかな草原色の瞳をゆるめ、サンティール・リアン (p3p000050)は粉砂糖のように笑みをこぼした。
両手に包まれたティーカップは今日の空と同じ色。
たっぷりのミルクで煮出した紅茶が、優しい春霞の香りを漂わせた。
とぷんと沈めた銀匙でベージュ色の水面をかき混ぜていたイーハトーヴ・アーケイディアン (p3p006934)は顔をあげた。
色濃い隈に縁取られた柑橘色の瞳が驚きに見開かれる。熟れた果実を思わせる双眸は喜びの色に満ちていた。
「嬉しいな。また、そう呼んでくれて」
「……えへへ、気づいてた?」
サンティールは肩をすくめ、パタパタと足を動かした。頬に小さく咲いた気恥ずかしさの桜色を隠すように、掌の位置をちょっとだけ変えてみる。
「うん。お互いを愛称で呼び合うのって、素敵だなぁって。ずっと憧れてたんだ」
だから、嬉しいな。
お願いごとがまた一つ、叶ったのだもの。
「だからね。呼んでくれてありがとう、サティ」
そう言ってイーハトーヴは微笑んだ。
お気に入りだというガーデンカフェは可愛い物好きの彼に似て、どこまでも素直で優しい。
「どういたしまして」
胸に手を当て、仰々しく頭を下げるサンティールの姿はまるで吟遊詩人のようで。くすりと吹き出したのは果たしてどちらが先だったのか。
「……あのとき、きみを無我夢中で呼んでたんだ」
サンティールは視線を外すと、夢見るように遠くをみやった。
あのとき。
二人の頭に浮かぶのは同じ日、同じ時間、同じ戦場。
そして複雑だった空の色。
違う刻を想像するほど、互いの傷はまだ癒えていない。
死に物狂いでこじ開けた戦端で過ごした、永遠に思えた刹那の日。
「あれは、僕の覚悟だったんだよ」
鬨の声は遥か遠く霞み、耳に届く雑音は己の鼓動と吐息だけ。眼前を埋め尽くしていた終わりの見えない魔物の海。研ぎ澄まされた集中力は世界の進み方を遅くして、開いた瞳孔の中では絶えず戦禍の炎が踊っていた。
こわい。
慣れない剣の重さ。鈍い感触。頬や服に飛び散った泥や血のぬめり。
こわい。
鼻の奥に残る強い鉄錆の匂いは握りしめた刃のものか。それとも染みついた血のものか。
だから――見ててよ、イヴ!
喉から迸った誓いは希望の祈りにも、迷い子の縋りにも似て。だからこそ背中から聞こえた彼の答えはサンティールの心に不倒の根を張った。
戦い続けた。
あの後、サンティールは自分がどうやって宿に帰ったか思い出せない。
虚ろに浸された意識の中で、意思を無くした手足の重みが鉛のようだという事は薄らと覚えていた。
酷く疲れた。
体裁も思考も何もかもを投げ捨て泥のように眠り、足を投げ出したうつ伏せのまま朝を迎えた。
季節外れの冬は去ったというのに凍えて仕方なかった。そうでないと、いつまでも震える両手の説明がつかなかったから。
心だけが、冬に取り残されたままでいる。
ああ、――いまさらこんなに震えるなんて。なさけないったら!
「今日はありがとう」
気がついたら、ペンを手に取っていた。
迷いを証明するかのようにじわりとインクが滲んだ宛先。
「どういたしまして」
優しい止まり木は手紙を受け取ってすぐにサンティールの願いを叶えてくれた。
「きみのなまえはとってもすてきだなって前から思っていたんだけど」
「うん」
秘密の宝箱を覗くように、サンティールはカップのなかに視線を落とした。
戦うことは、恐ろしい。
そう思っていたのは独りではなかった。
同じ痛みを知る者が背を守る事の何と心強いことか。
だから彼を証明者とした。
自分が、自分から逃げないように。
守るために命を奪うことから、目を背けないように。
「しってる? イヴってね、『生きる』って意味があるんだよ」
「そうなんだ」
イーハトーヴの目が瞬きを繰り返す。太陽の光が反射して瞳の中に夕焼けの色がよぎった。
「生きて、呼吸をして。そらのあおさを知るきみに。とっても似合うと思うの」
いきる。
歌うように告げる。
空の色。あおいろ。
旅するサンティールの世界の色。
イヴ。『理想郷』だなんて。
「……ちょっとかっこうつけすぎたかな?」
「ううん、ちっとも!」
イーハトーヴは笑った。
「ありがとう、サティ。ええとね、俺、そう言ってもらえてとっても嬉しいや!」
本当はそんな言葉だけでは全く足りないのだけれど。
この溢れそうな感謝と喜びをサンティールに伝えきるだけの言葉を、今のイーハトーヴは持っていない。
イヴ。愛称。この世界から貰った大切な物の一つ。
笑顔でいなければ感情が雫となって目から零れてしまいそうだった。
「あのね、サティ」
イーハトーヴは心臓の前で拳を握った。
一つの決意が、明確な輪郭を露わにする。
●夕焼けの願い
あのとき。
イーハトーヴの耳にサンティールの声は焼き付いた。
舞い散る砂と霜の中で、懸命に鮮やかに地を蹴り続けた小さな背。
傷つけたくなくて、失いたくなくて、願いを叶えたくて。雲雀が心のままに飛べる道を探した。
今のイーハトーヴは癒す者だ。
隣で戦うことは出来なくとも、誰かの選ぶ道を支えることは出来る。
必死に戦った。そして。
打ちのめされた。
歓声に沸く世界のなかで孤立した。
報告に、ただ呆然とするしかなかった。
敵だった。望まずに、そうなった人だった。
もう手遅れで、戻すことは出来ないと分かっていた。
それでも一縷の希望があるのではないかと、心のどこかで思っていたのだ。
心から憎いと思えればどんなにか良かっただろう。
どうしたら救えたのだろう。
IFは無い。奇跡は起こるが絶対ではない。
時計の針が進むにつれ内面の痛みは酷くなり、ふとした瞬間に顔を覗かせた。
そんな時だった。
イーハトーヴの元に震える文字の手紙が届いたのは。
自由な旅鳥には羽を休めるための止まり木が必要だ。そして止まり木が大きければ大きいほど旅鳥は安全に休める。
理解した時にイーハトーヴは安堵した。
ああ良かった。この傷は目に見えないものだから君に心配をかけることはない。
「今日の事は夢じゃないよ」
そう、イーハトーヴが本当に告げたい相手は誰であろうか。
サンティールもイーハトーヴも、いまだ夢の世界から抜け出せないでいる。
この幸せが現実のものかどうかを疑いながら過ごし、じわじわと二人は元の生活に戻っていくのだろう。
「だからね、今日はめいっぱい、わがままを言ってね」
「いいの?」
サンティールの瞳が控えめに、けれども挑戦的にきらめいた。
今のイーハトーヴは癒す者だ。もう『可愛らしさ』は人を傷つけない。
サンティールの微笑みが心からの物であれば良いとイーハトーヴは願う。天真爛漫な雲雀に曇り空は似合わない。
あの戦い、俺は君の存在に救われたんだよ。サティ。
でもね、まだ止まり木は未熟で、折れやすくって。それを誰かに知られるのが怖くって。
でも君の支えになりたいと願う気持ちに嘘はないから。
『イヴ、こんどは。
きれいなものとか、かわいいものとか。いっしょに見に行こう。
それでね、宝石みたいなタルトをつついて、たっぷりのミルクで煮出した紅茶を飲むの。
あたらしいおようふくの相談もしたいな。だめ?
きみが傲慢というなら、僕はそれよりもっとうんとわがままだよ!
……でも、きみが『止まり木を頼って』って言ってくれるから。
こうして、きみにおねだりをしてみました』
「もちろん。がんばったサティに、いっぱいごほうびをあげなくちゃね!」
甘え下手の君が必死に考えたおねだりを、今日はぜんぶ叶えてあげたいんだ。
新しい木の匂いがする椅子がみっつ。
サティに、イヴに、オフィーリア。
タルトは仲良く半分こ。宝石みたいな新緑と太陽。
空の色は鮮やかで、雲雀と止まり木を見守るのはおしゃまな白兎。
優しい時間はまだ続く。
だって今日は頑張り屋さん達のごほうびの日なのだから。