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ひとりぼっちのお魚屋さん
登場人物一覧
町に光が灯り始めた――宵。
塩気を含んだ凱風が、背をそっと押してくる。
石畳を叩く高い踵の音色と比して、足取りそのものは決して軽くない。
大通りから一度だけ曲がると、バー『エル・ニーニャ』の看板が見えてくる。
背の低い扉――キャラベル船に備え付けてあったものだと云う――に、手を掛ければ重い。
「アーリア・スピリッツさん?」
「ええ、そうよ」
「わっ、綺麗な人。会えてよかったー、あたしはヴィオラ」
アーリアは促されるまま、カウンター席へと腰掛ける。
「お飲み物は如何いたしましょう」
酒場で飲まぬのも失礼ではあろうが、なにぶんアーリアとしたことが飲む気になれない。
相手はどうする気なのかと、横目でちらりと伺ったが。
「あたしはモスコミュールで! 今日は飲みましょ!」
「スプモーニをいただくわ」
だって、あまりにあっけらかんとした笑顔で云うものだから。
モスコミュールを一息で呷った女の名をヴィオラと云う。
海洋王国軍ビスクワイア艦隊所属の砲手ジェイムズ・ブラウンの妻
歳は若く、子供は居ない。
「えー、結構飲む人って噂なのに、遠慮してたり? あ、モスコくださーい、あとカプレーゼ!」
愛嬌のある表情をころころと変えながらメニューに視線を走らせるヴィオラは、まるで目的なんて忘れているようで。
アーリアは切り出すタイミングを掴みかねていた。
とは言え頬を赤く染め始めたヴィオラの様子を見れば、早いに越したことはなかろう。
だからアーリアはスプモーニで唇を湿らせると、小さな木箱をバーカウンターへ乗せた。
「酔う前に渡しておきたいのよ」
中身はジェイムズのドッグタグである。
第二十二回海洋王国大号令――海洋王国の悲願が成就する、ほんの少し前のことだ。
イレギュラーズと海洋王国が、大海原に立ち塞がった滅海竜リヴァイアサンと交戦した際に、ジェイムズは戦死したのである。
何の因果か遺留品を拾ったアーリアは、戦後すぐに遺族へと手紙を綴った。
そうしたところ、ここに呼び出されたという訳である。
「あ、これ美味しい。あとトリッパにミートパイも下さい! ほら食べて食べて!」
つまみが次々に並んでいるが、アーリアはと云えば、未だ一口も飲んでいなかった。
勧められた上等なモッツァレラは、砂を噛んでいるように感じられる。
木箱に視線を落としたまま、ふいにヴィオラが口を開いた。
「ねえ、アーリアさん。あの人――ジェイムズはどうだった?」
どう答えたものか。アーリアが目にしたのはその散り際だけなのだ。
ジェイムズは竜に砲撃を続け、竜の放つ光線に飲まれて消えてしまった。
ありのままに答えて、殊更にショックを与えたくはない。
「ちゃんと戦えていた? 皆の足を引っ張ったりしなかった?」
「――」
「優しくて、ちょっとびびりで、海軍に入るなんて聞いた時にはびっくりしちゃって」
ヴィオラは語り出す。
「でも海洋王国大号令だもん。あたし泣いちゃって、でも彼、イレギュラーズが居るからって」
透明な雫が、ぽつりぽつりとアサメラ材のカウンターを濡らす。
しゃくりあげるヴィオラの背に、アーリアはそっと手のひらをあてた。
冷たい細い背中が震えている。
「ごえ、ごめ、ごめん、なさい。あたし急に……」
こんな時に、なんと云えば良いのか。
例えば『泣いていいのよぉ』と、優しく撫でればいいのか。
例えば『大丈夫よぉ』と、抱きしめてやればいいのか。
この少女をやめたばかりの女に。
愛する人を喪った、未だ気持ちの整理がついていない、この明るく健気な未亡人に。
そうであろうと懸命に振る舞おうとしている、若すぎる大人に。
「――」
目元にハンカチをあてたまま、ヴィオラは嗚咽している。
アーリアは何を聞かれても答えるつもりでいた。
責められるなら受け止めるつもりでいた。
相手の望むままに、何をされても構わないとさえ思っていた。
けれどアーリアは理解した。
ヴィオラは
何もかも、心にわだかまる全てを吐き出してしまいたいのだ。
だからアーリアは、沈黙を選んだ。
時計の秒針が幾度か回った頃、ヴィオラはハンカチを離してジントニックを呷った。
「はぁー……もういっぱい! ちょっとー、アーリアさん飲んでないじゃないのもー」
「あらぁ、ばれちゃったかしら」
そんな風に頬を膨らませるものだから、合わせて笑ってやる。
仕方がない、そろそろ覚悟を決めよう。
氷の溶けきったスプモーニは、ひどく薄くて、微かな苦みだけが残っていた。
「ラムを頂けるかしらぁ?」
「銘柄は如何いたしましょう?」
「そうねぇ、ドレイクの渇望をミストでいただきましょ」
「かしこまりました」
テキパキとした仕草で、バーテンダーが琥珀色のラム酒をミストに仕立てる。
仄かに甘い香りがようやく感じられた。
「あれ!? その瓶。あたしも同じの!」
当たりだ。
あの船に乗っていた酒なら
「え、ちょっとまって。それあの人が良く飲んでた気がする!」
「船にもあったわよぉ」
「えー、知らなかったー! お酒の瓶なんて、みんなおんなじに見えるもん」
目を腫らしたヴィオラが、グラスに口を付ける。
「からっ、あれ、あまっ、あの人こんなの飲んでたんだ」
かなり甘い酒だが、強い酒に飲み慣れていないのだろう。
それにしてはずいぶんと吸い込むペースが早い気がする。
「あの人ってね……」
小さな漁村に生まれたジェイムズは、この町で食材の商いを営むヴィオラと恋に落ちた。
きっかけはなんということもない。仕入れの付き合いだ。
市場で話すようになった二人はすぐに友人となり、恋人となり、プロポーズを受けた。
当初二人の問題は、どこで暮らすかという所にあったらしい。
漁村で暮らすには、ヴィオラは垢抜けすぎている。
二人で商いを営むには、ジェイムズは素朴過ぎる。
一念発起したジェイムズは、海軍に入隊したのだ。折しも海洋王国は大号令に沸いていた。
あれよあれよと話は進み、新婚のジェイムズは遠い海の向こうへ旅立っていった。
熱烈に愛し合ったヴィオラは一時期体調を崩したが、期待の新しい家族は増えなかった。
彼女はまたひとりぼっちのお魚屋さんに戻ったのである。
「はー、やんなっちゃう。引き摺るなって言われるんだもん、さすがに無神経すぎるって思わない?」
「そうよねぇ」
店を出たヴィオラは、ドッグタグを星空にかざした。
「ね、ね! 次の店行こうよ! もうちょっと賑やかな所がいい!」
足元がふらついているヴィオラは飲み過ぎだ。家まで送り届けようとも思ったが。
「じゃあー、とっておきの店があるのよぉ」
「えー、どこどこ!?」
「毎日週末亭って言うんだけどぉ」
ちっとも染まっていない髪のまま、口ぶりだけはおどけてやる。
「あー、知ってる! けど入ったことないの! 一人じゃ入りにくくって!」
ふらつくヴィオラに寄り添い、手を取って歩き出す。
「あ、食べ物はどんなのがあるの? てゆうかさっきの店、少なくない?」
今日はヴィオラが潰れるまで、とことん付き合ってやることに決めたのだから。