SS詳細
千尋の海
登場人物一覧
●波音に揺蕩う
打ち寄せる波音。鳴きながら漁船の周りを飛ぶ海鳥。
釣りあげた魚を船から下ろしていく漁師たち。
海辺にはよくある、今では見慣れた景色だ。
――慣れてしまえば、何とも他愛のないもので。
しかしあの時は本当に、恐らくはこの世界に来て最大の――多分、『感動』だったのだと思う。
知識としては知っていた。元の世界にも『それ』はあった。
絵や写真で『それ』を見れば、正しく『それ』だと認識できた。
乾いた砂漠で育った自分には、それ以上でも、以下でもないものではあったが。
もしかしたら、そんな自分にもあったのかもしれない。
――実際には見た事も、聞いた事も無い、千尋の海への憧れが。
●毒風の街
それは、故あって単独で潜入行動をしていた時のこと。
――ここへ来てから、明らかに風が強い。
白い石が目立つ乾いた街だと思っていたが、何かがおかしい。
風を生み出す術式でも施されているのだろうか。そう思うほどの強い風は、前髪やローブをいとも簡単に乱していく。
暗殺者として鍛錬を受けた自分にとって、風向きとその強さはひとつ読み違えれば命取りになる要素だ。
警戒は最大限に。如何なる物音も聞き逃さぬよう。如何なる物音も立てぬよう。
聞こえてきたのは、風音と。聴いた事の無い音だ。
砂漠の砂を巻き上げる音とは違う、それでいて大きな質量のある音。
草原の草が強風に揺れる音に近いが、もっと『存在感のある』音だ。
足元は石畳から馴染みのある熱砂へと変わり始めていたため音を立てずに歩くことは造作もないが、風はあるのに砂嵐が起きないのはどういうことだろう。
これほど強く日が照り付けていて、空気もからりと乾いていて。
なのに何故。
――この妙な風のせいか。
故郷の乾いた風とは明らかに違う、湿った風なのだ。
触れると何かが肌や髪に纏わりついて、それを殊更に太陽がじりじりと焼く。
ここは石の街ではないのか。この風は何だ。
住人達はこんな、毒風の街に平気で住んでいるとでもいうのか。
まさか自分達の教団のように、街ごと特殊な神殿なのだろうか?
ならばこの毒風は、侵入者である余所者の自分に対する仕掛けなのでは。自分の体質ゆえにこの程度で済んでいるだけで、本当はもっと殺傷力のある風なのでは。
それならば、尚更。影響の少ない自分が確認せねばなるまい。
この街はどんな場所で、この先に何があるのか。
●白亜より望む千尋の海
街を進めば風音が大きくなる。
草原を吹き渡るような風音も更にはっきりと聞こえて、その正体が少しだけ想像できるようになった。
自分でも信じ難いが、これは草原ではなくて。敢えて言うなら、水の野原のようなもの、かもしれない。
水瓶から水を流す音。それが数百、数千――数えきれないほど集まれば、このような音になるのかも知れない。
大量の水と水がぶつかって、流れていく音。実際に見るまで確証はないが、音の源は多分そのような場所だ。
――浴びた毒風を、大量の水で洗い流してるのか?
何とも贅沢な水の使い方を……と思わないではないが。これだけの強い風を一日中浴びているとしたら、大量の水が必要なのも理解できる。それにしても水が多い気がするが。
しかし、住人はそこまでしてなぜ、この街を離れないのだろうか。毒風を浴び続けてでも欲しいものがあるのだろうか。このような風では、長くは生きられないだろうに。
――鳥?
今度は空から聞き覚えの無い音。鳴き声だ。
鳥らしい外見をしていたそれは、一羽だけでなく何羽も飛び交っていて、風が吹いてくる方向を目指していた。
人だけでなく、野生の動物までもが住んでいる、ということは。やはりこの地には、音と風の源には何かがあるのだ。
金銭や宝物ではなく、野生動物にも必要な餌場……動物がいる狩場か水場だろうか?
もし狩場なら、餌となっているその動物も毒風に耐性があるのだろうか。砂漠の蠍のように。
――わからないな……巨大蠍か蠍の群れでもいて、そいつから毒風が吹いていて、その近くに毒風を洗い流す水場があって……? いや、そんな場所じゃ毒は流せないよな?
いよいよ訳がわからない。一体この先に何があるのか。
「お、帰ってきたねぇ。おーい!」
加えて、家から出てきた住人達の平和的で長閑な様子がますます謎だ。とても洗い流すような毒風を日々浴びているとは思えない。
彼らは毒風を洗い流しているのではなくて、完全に耐性があるのだろうか?
ならばあの水音は?
現に彼らは水音の方向へ声をかけていて、今もそちらへ歩み寄っている。
あちらに人がいるのだろうか?
「おーい! 今日は大漁だぞー!」
水音の方向から声が返ってくる。その様子を観察しようと、一目見た瞬間だった。
まるで、大波に攫われる砂のように。あらゆる思考も悩みも、一瞬で奪われてしまった。
見た事も無いほどの水。砂漠のオアシスなど比べ物にならない。
恐ろしいほどに果ての見えない水が、その表面を風で撫でられると、波が立って音がする。
草原の風に似たあの音は、この水の波音だったのだ。
大量の水瓶で毒風を洗い流している者などただの一人もおらず、先程返事をした住人は水に浮かぶ大きな乗り物に乗って岸を目指しているところだった。
この、景色を――知っている。
『海』だ。
『海』には魚がいる。
だから人は船に乗って漁をするし、海鳥もそれを狙うのだ。
だからこの街には、人も動物もいるのだ。
知識としては知っていたはずなのに、今この瞬間まで全くわからなかった。
――でも、結局このべたつく風は何なんだ?
髪はべたつくし、肌もただ日に焼けるよりもじりじりとする。
海上にいる船乗りも無事なら、毒風ではないのだろうか。
「おーい、そこの少年! 手が空いてるなら手伝ってくれー!」
船上から声を掛けられる。周囲を見回しても、手が空いてそうな少年らしき人物は自分一人だ。今回は潜入行動のつもりだったのに、すっかり存在を認識されてしまったらしい。急ぎ撤退するか、少しだけ迷ったのだが。
「……あの」
好奇心が、勝ってしまった。海に触れたいと、思ってしまった。
「俺、実際に海を見るのは初めてで。漁船を見るのも、初めてなんだが。何か手伝えるか?」
「何だよ海が初めてか? そんなもん、鼻歌でも歌いながら潮風に当たってりゃどうってことねぇよ」
「潮風?」
「海から吹いてくる風だよ。陸の風とはちょっと違うだろ?」
潮風。海水は塩が含まれる水だと聞く。
ならば毒風だと思っていたこれは、ただ塩水を含んだだけの風だったのか。
何が殺傷力のある風の罠や術式だ、これはただの自然現象だ。
あらゆる警戒が空回りに終わったことには安堵しつつも、力が一気に抜けた。
「……漁師殿、これはなんという魚で」
「マグロだよ。生でも焼いても、ミンチでも美味い! 餌には別の魚を使うんだ」
「魚を釣るのに、魚を」
大量の大魚を一尾ずつ箱に詰める作業を手伝いながら、いつの間にか足首まで海に浸かっていた。
情報でしか知らなかった海に今、自分が浸かっている。
海が当たり前にある人々と、言葉を交わしている。
それは、今は戻れない遠い故郷の日常と。その頃に憧れたものを思い出すようで。
――ちょっと、楽しい。
白亜の石の街で見つけた、夏の思い出は。
千尋の海に輝いていた、日の光のようにきらきらと。