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結び直した糸
登場人物一覧
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悩み事を振り払うにはどうするべきだろうか。
真っ当なロジカルで言えば、その悩みの解決に尽力し、問題そのものをそうではなくしてしまうことなのだろうが、結局の所選んだ行動は、大多数のそれに習って逃避であった。
ようは仕事を詰めて、思考に余裕をなくすことにしたのである。
悩みに向き合うことが嫌だったわけじゃない。生まれてこの方、直面したことのない問題に、どう対処すればいいのか皆目検討もつかなかっただけだ。
かといって、誰かに相談するのも違うのではという考えにとらわれている。それが本当に論理的な思考なのか、はたあた気恥ずかしさを覚えるからであるのかは、自分の心の内といえど不明であったが。
さて、働いて働いて、そちらの国で問題があれば出向き、こちらの国で問題があれば顔を出し、そうやって謀殺されることを選んだことで、確かに思考の坩堝に囚われることはなかったのだろう。
しかし今度は、「忙殺されねば」という今に思えば理解のし難い結論に嵌り、とにかく仕事に明け暮れてしまった。
その事に気づいたのは、仲間からはおろか、ギルドからさえも「仕事をさせるわけにはいかない」と、強制的に休暇を取らされてからだというのだから、自分の不器用さにも頭を抱えたくなるものだ。
だからぽっかりと空いた時間をどうするべきかわからず、ベッドの上で、寝起きの顔のままぼんやりとしている。
首を回して時計を確認すると、午前の11時だった。眠り過ぎである。時間があるからと惰眠を貪るような気質でもないため、つまるところ、これは疲労によるものだろう。
体が休息を欲していて、自分はそれに気が付かなかったのだ。「体調管理も仕事のうち」とはよく言ったもので、そうであれば、自分は仕事をしているようで十全のそれではなかったことになる。
咎められても仕方あるまい。ならば体力の回復を測ることもまた勤めと言える。ともあれ寝台から降りて、顔を洗い、身支度を整えよう。そうして朝食には遅く、昼食には早いこの時間だが、どこか外で取るとしようか。
どこかで偶然にでも、会えれば―――首を振った。
額をぐいぐいと掌で押さえつけてから、何度目かになるため息をつく。
本当に、誰に話せるというのだろう。
色恋沙汰などという、悩み事をだ。
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市場の方に行って、適当な屋台でホットドッグを注文した。
割増で支払って、ソーセージを二本。かぶりつけば、からっぽであった胃を腸詰めが満たしてくれる。
店に入らず、食べ歩きを選んだ理由は『なんとなく』以上にはない。
ただじっとしていても思考の何かにのめり込んでくばかりで、とにかく、動いていたくなったのだ。
平日であっても、市場には人が多い。
女性の方が圧倒的に多いのは、彼女らが台所を任されているからだろう。あるいは、胃袋を握っているのかもしれない。
ともあれ、そうした彼女らが集まれば、噂話にはことかかない。その中に混じろうという気にはならないが、そうしなくても声が大きく、自然と耳に入ってきた。
「〇〇さんのところの息子さん、家を出ちまったってね――」
「昨日、魚屋に入ったカツオがそりゃもう安くて――」
「うちの娘ったら、最近夜遅いのよ。どこで何を――」
大体は、いや、ほとんど全てが他愛のない話。しかしその会話に前後を想像することは、悩んでうじうじしている思考を紛らす代わりにはなっていた。
「うちの人だって、昨日は遅くてね。なんでも背中に剣の羽が生えた――」
ずきり。
どうしてだろう。頭が痛い。
「△△通りの裏ですって。いやーねえ――」
ずきり、ずぎり。
痛みはやまない。やんでくれない。やはり、どこか体調を崩してしまっているのだろうか。外になど出かけず、家で療養を測るべきだったろうか。
ホットドッグの最後のひと欠けを飲み込んで、とりあえず帰路につくことにしよう。帰り道すがら、水のひとつでも買っていけばそれでいい。
そうやって踵を返し、市場を出たところでだ。
それを見た。その背中を見た。
扇情的に開いた服装。剣を並べたような羽。
あれは、あれは誰だったか。
頭痛はより強くなり、顔をしかめるほどになっているが、脚は自宅ではなく、自然とその背を追っていた。
「待って。待って、くれ……」
声をかけてどうしようというのか。理解はできない。自分の心でさえ、不鮮明で仕方がない。
裏路地に入っていった彼女のことを追いかける。「思い出さないほうが、幸せかもしれないのに」と誰かが言った。誰かはわからなかった。それほどまでに、今は角を曲がって消えていくその背中しか見えていなかったから。
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誰かが追いかけてきていることには、気がついていた。
そうでなくては困る。誘い出したのは、自分の方なのだから。
距離を計算して、路地の奥の方へ、奥の方へと導いていく。
角を曲がれば、ちょっと次の角を曲がるところ。後ろ姿が視界に掠るように間を考えて、ちょっとずつ、ちょっとずつ距離を詰めていく。
向こうが必死になっているのが、息遣いでわかって、少しだけおかしくなった。
そんなに慌てなくても、逃げやしないのに。それでも、大いに慌ててほしかった。やっと掴んだものが、大切なものだと思うように。こんな、普段なら近づかないような路地裏を駆け回るほど、惹かれたのだと錯じるように。
息遣いが近づいてくる。次の角を曲がったたりで、追いつかれるだろう。それでいい。こんな隙間の隙間であるようなところには、誰も来やしないだろうから。
駆け出すような素振りを見せる。後ろについて来ている誰かが、一層慌てたのが背中越しにでも伝わってくる。
肩を掴まれた。やや乱暴に、振り向かされた。
息は荒く、泣き出しそうな顔。思っていたよりも、見た目の年齢は幼い。寧ろ、女性的でさえ―――おや。
「……サイズ?」
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頭が痛い。呼吸が乱れる。その背中を追いかけて、近づくごとにその辛さは増していくように感じられた。
頭の中か、心の内か、わからないが、そのようなもののところで誰かが言う。「やめときなよ、せっかく思い出せないんだからさ」痛みが増した。万力で締め付けられているような、ひどい痛みだ。「いや、封印するにも結構苦労したんだよ。少しは僕の努力も慮ってくれないかい?」ずぎりずぎりと痛む頭は、走っていることも掛け合わせて、嘔吐感となってせり上がってくる。「そりゃこじ開けようとしてるんだからそうもなるよ。せめて一度ちゃんとした手順を踏んでから――」それをこらえて、奥歯を噛み締めながら、ようやっとその肩に手をかけて――
「わかったよ。ほら、返すから。本当に、どうなることやら」
誰かがそう言って、すっと、頭の痛みが引いていく気がした。
荒い呼吸のまま、振り向いた彼女を見る。誰だっけ、誰だっけ誰だっけ。
「……サイズ?」
向こうは自分を知っている。名前を呼ばれる前から、それはわかっていた気がする。頭痛が引いていく。これが誰だったか。思い出せ。失ってはいない。記憶の奥底に、閉じ込めたのだ。閉じ込めたままにしてあっただけなのだ。
足に何かあたった感触。視線を下ろせば、ひとつの糸巻きだった。これがどうしてか、転がって自分の足にあたったらしい。
ああ、そうか。
「……チェルシー、さん?」
すっと、頭の中にかかっていた靄が晴れていくような気分だった。
あれだけ息苦しかったというのに、呼吸が落ち着いていく。頭が冷静になっていく。汗で張り付いて、衣服のべたつきが気持ち悪い。風が吹いた。すうっと通り抜けていくようで、心地よかった。
そういえば、自分は何をしているのだっけ。見知ったような背中をみつけて、どうしても追いかけねばと強迫観念のようなものに駆られて、そしてその肩を乱暴に―――
「うわっ、ごめん!」
思わず飛び退る。流石に、乱暴が過ぎる行為だ。相手に対し、礼儀を逸したそれである。しばらく頭を下げていたが、どうにも反応がないもので、そっと顔を上げてみれば、そこには自分のことをまじまじと、見つめるチェルシーがいた。
「ええっと……おかえり?」
何を言っているんだろうと、自分の行動に内心で頭を抱えた。まだ混乱しているんだろうか。深呼吸、深呼吸。
しかし素っ頓狂なことを言ったにも関わらず、チェルシーはどこか嬉しげに笑みを浮かべていた。
「ええ、ええ、ただいまよ」
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「ええっと……おかえり?」
泣きそうになったと思ったら、急に身を引いて。頭を下げたと思ったら、今度はその台詞。
頭を下げなくていいのに、と思う。乱暴に肩を掴んで顔を寄せるその様には、少しだけ胸が高鳴ったというのに。
だけど、らしい行動に戻ってきたという実感が湧いて、迎えてくれる姿が嬉しくて、思わず笑ってしまった。瞳の奥でこみ上げてきたものを、隠すような笑みだった。
「ええ、ええ、ただいまよ」
また風が吹いた。暑さを紛らわせてくれるような、優しい風だった。
見れば、サイズはまた泣きそうな顔をしている。何を考えているのだろう。目まぐるしく変わる表情を、もう少し見ていたくなったが、胸を締め付けられるような思いがして、口をついて出たのは、とってつけたような言い訳だった。
「えっと、そのー、メンテナンス。そう、メンテンスが必要だったのよ。それで、しばらく引きこもっていて、それでね」
我ながら、苦しい言い訳だと思う。だって、目の前の妖精は鍛冶屋、武具の整備ならプロフェッショナルである。剣でできた翼に調整が必要なら、相談するにはうってつけの相手なのだから。
それくらいの話を聞いてくれる程には、仲が良かったはずなのだから。
案の定、サイズは真剣な顔で自分に話を持ってきてほしかったと伝えてくる。当然だろう。だがそれ以上、適当な理由をつけるつもりにはなれなかった。
不覚にも、その必死さに、自分を疑おうともしない真摯さに、ときめいてしまったから。
戻ってきたと実感する。ああ、こういう人であったのだなと安心する。だからこれ以上言い訳を重ねず、笑って距離を詰めた。
サイズはたじろぐが、逃げたりはしない。大鎌についた鎖を手にとって。唇を当てた。冷たいはずの金属から、脈動が感じられたように思えた。
鎖を胸にあてる。このドキドキは伝わるだろうか。恥ずかしさを感じる反面、伝わってしまえとも思う。妖精の方の耳元に顔を寄せ、触れてしまいそうな距離で囁いた。
「これで私を繋いで逃げないようにしてくれてもいいのよ……?」
さっきまで真剣な顔をしていたのに、もう慌ててしまって。
それがなんだかおかしくて、小さく声を出して笑ってしまった。
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サイズの腕にしがみついて、街中を歩く。
視線を感じるのは、引っ付いているからだろうか、それとも自分の格好のせいだろうか。
そんな他愛ないことを思いつつも、適当な珈琲店を探して歩いている。路地裏であんなふうに体を寄せるのも悪くはなかったが、ひとまず腰を落ち着けようという事になったのである。
「ねえサイズ、あんなところにお店なんてあったかしら?」
「ああ、あれは先月できたんだ。羊乳のアイスが美味しかった」
少しだけ、驚いた。この人はこんなにも、流行りや新しいものに詳しかっただろうか。いや、きっと誰かの為に覚えたのだろう。そういう努力をしたいと思う相手に巡り会えたのだろう。
ぎゅっと、腕にしがみついたそれに力を込める。サイズは驚いたような顔をしたが、否定はしてこない。
さて、この感情はなんだろう。どういったものと、名付けられるだろう。
「私はサディストじゃないけど、好きな子を誘惑くらいしても良いわよね……?」
唇の端を舐める。ぺちゃりと、艶めかしい音がした。
「え、何か言った?」
「いいえ、なんでもないわ」
そう、なんでもないのだ。魅惑の魔剣に、とってすれば。