SS詳細
イナリさん家の今日のご飯 弐
登場人物一覧
かみさまは、居ないのだと。
救いなど、ないのだと。
気付いたその日が、最後だった。
『わたし』は『わたし』を捨てたのだ。
どうか、次の未来では、幸せな結末で追われますように。
●夏の暑さには空調で対抗するべし
(……ゆ、め……?)
茹だるような暑さ。夏。
日陰の中、神社の中とはいえども空調を動かさなければ外と同じ。
襖も網戸も開けて、扇風機を付けて昼寝をした筈なのに、いつの間にかコンセントは外れ、動きを停止している扇風機。
寝相のせいではあるのだが、それを認めないのがイナリである。
「夏だってぇのにこんなに簡単にコンセントが抜けちゃうなんて……困ったわね」
汗を拭い、窓を締め、空調のスイッチをつけたなら、広がる冷気。
ひんやりと、肌を伝った汗の跡すら心地よくさせる冷たさに思わず頬も綻んで。
「うーん、こんなに暑い日には冷房が効いた部屋の中で冷たいものを食べるに限るわね!」
誰しも贅沢の味を知ってしまえば二度目が欲しくなってしまう。そういうものだ。
それはイナリも例に漏れず、贅沢の味を知るものであった。
こたつに入りながら食べるアイスだとか、暑いお風呂に入りながら飲むコーラだとか、キンキンに冷えた部屋で食べる鍋焼きうどんだとか、クーラーをつけたまま布団で寝るだとか、そういった、贅沢。
さて、今回イナリが選んだ贅沢は――、
「うーん……そうね、冷やし中華にしましょうか」
最近知った冷やし中華。あれにしようと決めたが早い、イナリは財布を片手に社を飛び出した。
●おもひではなくしたまま
野菜に肉、それからたれと麺。
肉と麺とたれはあるだろうから、野菜を確保しよう。
市場に足を運んだイナリの目にはたくさんの夏野菜。ナスにトマト、それからきゅうり。
(瑞々しくていいわね……これも買っちゃいましょう)
つやつやと光るトマトの皮に惹かれ、思わずイナリは店主に声をかけた。
「おじちゃん、これくれるかしら?」
「はいよ! 嬢ちゃん可愛いからおまけしとくよ」
「わあ、ありがと!」
野菜を受け取って買い物袋に入れ、帰ろうとしたイナリ。
「やーーーだーーー!!! とまときらい!」
「そんなこと言ってちゃダメよ! 大きくなれないわよ!」
「かあさんはトマトすきだからだろ! おれはきらいなの!」
親子だろうか、手を繋いだまま言い合う姿が目に映った。
(嫌いな食べ物……私が記憶を失う前には、あったのかしら)
しかし、思い出せないものは思い出せない。
少し残念な気持ちになりながらも、仕方ないと割り切ってイナリは帰路へとついた。
家の冷蔵庫には鶏肉だっただろうか、ハムだっただろうか、どちらが残っているのやら。そんなことを考えながらイナリはちゃきちゃきと家に帰る。
買ってきた野菜を厨房に置き、冷蔵庫に駆け寄ってガバッと開く。
ある程度整頓された内部にあるのは――
「――ハム! なるほどねえ」
麺とハムとたまご、それから調味料を抱え厨房に並べれば、調理開始だ!
(えーとまずは?)
麺を湯掻くところからだ。冷蔵庫から中華麺を取りだし、さっと湯掻く。水分は放置している間に含むだろうから、なるべく固めのうちに取り出して。
次に、お酢と砂糖、しょうゆとごまを混ぜ合わせ、たれにする。分量を測るのも面倒なので、適当に放り込んだら、次だ。辛ければ後で砂糖でも足せばいい。そう思って。
次にたまごをお皿に割り、掻き混ぜる。ある程度空気を含んだところで戸棚の下からフライパンを取りだし、香り付けにごま油を薄く伸ばす。
(この時期のフライパンってあっついのよねえ……)
ぼっ。火をつけ、フライパンをあっためて。少し顰めっ面になりながらも、イナリはといた卵をフライパンに伸ばした。
うすーく伸ばして、ある程度火が通ればまな板の上に戻し、短冊切りにして置く。
それからきゅうりとトマト、ハムにも包丁を入れよう。きゅうりは端を、トマトはヘタを取り、ざくざくと切っていく。
たまごときゅうり、トマト、ハムを中華麺をのせた皿の上に乗せ、たれを豪快に掛けたら完成だ。
「うーん……いいわね」
記憶を失う前はよく食べていたのだろうか?
食べていなかったとしたら勿体なすぎる。そう思いながら、イナリはちゃぶ台へと皿を運んだ。
「いっただっきまーす!」
つるん。
麺はするっと喉を通り、瑞々しいトマトやしゃくしゃくのきゅうり、ハムとたまごの柔らかさが食感となって楽しませてくれる。
味に飽きたら味変だ。マヨネーズをかけることで、先程のごまの風味が強めの冷やし中華から、少しコクのある冷やし中華へと変貌する。
ふう、と一息。
(あー……いい夏になりそう)
外に広がる青い空を眺め。まだまだ続く夏に思いを馳せ――イナリはまた、麺をすすった。