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惡蜜を注ぐ
登場人物一覧
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此度の世界はとある神話、とある邪神が顕現する現代の地球。
しかしその存在は一切人々に観測される事なく、静かな闇としてふつふつとある暗黒。こうしている間にも世界はこの闇に蝕まれている。
この物語の主人公はそんな世界で生きる
とある少女──。
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少女は所謂『普通』だった。
裕福ではないけれど優しい両親がいて、仲のいい友達がいて……人の善性をよく知り育まれた、心優しき少女。
あの
この頃の少女は何の悪も知らない……まさに純潔と言って良かっただろう存在で、誰もがソレを疑う事のない存在だっただろう。
──そして惡蜜が、一滴……滴り落ちた。
「──、──……朝よ、学校に遅れるわよー」
「え……?」
誰かが自分の名を呼ぶ声で、少女は意識を取り戻すように目が覚めた。
目の前にあったのは自分の部屋の天井……いつの間に寝ていたのだろう? と、少女は身体をゆっくりと起こした。
次に目覚まし時計へと視線を送った瞬間、少女はギョッと目を疑う。
「う、ぅうそ、うそ!? もうこんな時間!!」
どうやら少女は寝坊してしまったようで、急いで着替え始めた。昨日そんなに夜更かししてたんだっけ? お母さん、起こすの遅いよ! そんな言葉ばかりが浮かんではそれどころじゃないと消して、小学生らしくランドセルを背負い込んで自分の部屋を勢いよく出た。
「わーーーー!! お母さん、起こすの遅いよ!!」
「やっと起きたのね、もう……お母さんは何回も起こしたのよ?」
「そんなっ!」
呆れたように深いため息をつく少女の母親を横目に急いで朝食のトーストにかぶりつきながらも、少女はふと無意識にテレビへ視線を向けた。
<続いてのニュースです。○○県、○○市の周辺で、小学生が何者かに襲われる事件が多発しており、警察は同一犯と見て犯人の行方を──>
「あら……ここから近いじゃない。──も気をつけるのよ?」
そう母親が心配する言葉は、この時少女の元に届いてはいなかった。
(可哀想に……襲われるなんて……きっと怖かったよね)
(ああ、どんな目に遭ったのだろう……とっても気になるなぁ……)
そこで漸く少女はハッとする。
(何、今の……き、気味悪いっ!)
酷い目に遭った人達を哀れみと
「──、ほら何してるの! 学校、早く行かなきゃ! 本当に遅刻しちゃうわよ?」
「! そうだった! 行ってきまーすっ!」
母親の言葉に我に返った少女は慌てて朝食を済ませ、そのままランドセルを背負い直し学校へ向かった。
あの感覚は一体なんだったのだろう。何にしても気味が悪い……まるで人の不幸に好奇心を抱いてしまったようではないか。
「私……悪い子になっちゃったの?」
少女は底知れない自分の心に妙に不安を抱くが……しかし、それも今は小学生の少女の事だ……その後は深く考えるのをやめてしまった。
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少女はあれから葛藤を覚えていた。
「うえぇん」
「なんだよ、少し叩いただけだろ!」
教室でクラスメイトの女の子の泣いている声と男の子の荒っぽい声が響く。助けなくてはと思う正義感と可哀想と思う哀れみ……それから。
(また、この感覚……)
少女は苦しげに胸を抑え、深く息を吸い込んだ。少女はあれからとある苦しみを受けている。少女は休み時間と共に教室から離れ近くの階段に辿り着いて……人気がない事を確認し蹲る。
「こんな感情を抱くなんて……」
泣いている女の子を見て湧き上がった感情は……哀れみや正義感だけではなかった。
(あの子の辛そうに、悲しそうに泣いてる顔が……いいなとか、思うなんて……)
緩む口元を両手で必死に抑え込む。それはまるで人の不幸を見て笑い愉悦する自分の姿。そんな自分の姿に息が荒々しくなる、胸がドキドキと高鳴ってしまう。こんな事……間違ってる、と。
(人の不幸を見て笑えるなんて……私、悪い子だったんだ……)
少女はそう
「ただいま……」
「おかえり、あらどうしたの?」
「お母さん……」
帰宅した少女はこのまま両親に相談しようかと思った。
「……ごめん、なんでもない」
「そう?」
けれど母親に『悪い子』だと認定されないか不安になり、少女はそのまま自室へ続く階段を上がった。
気軽に相談出来たならこの重りのような心も軽くなれたのだろうか。けれどそれと引き換えに落胆され軽蔑視されないだろうか? 子供ながらも少女は心配性で、不安がりで、どうしても勇気が出なかったのだ。
だって自分を心配してくれる優しいお母さんとお父さんだから……少女は自分も
「この気持ちは……隠そう」
心の奥底へ厳重にしまいこもう。誰にも悟られないように、誰にも探られないように。
少女は自室に入ると深く深く息を吸う。大丈夫、私は……私は変われる。
少女は机に座ると新品のノートを取り出して、『大丈夫』と書いた。
「何も不安に思うことはないよね?」
その問いに答えるように、少女はそのノートへ『大丈夫』と何度も書いた。一ページが埋まっても次のページにも『大丈夫』と書いた。
それ自体が狂気じみている事にも気づけずに、少女は胸に秘める狂気を拭い捨てたかったのだ。
「私は……私は
泣きそうな気持ちをノートに必死に綴る。鉛筆を握る手が前のページを擦った為に汚れてしまっていた事にも気づかないほどに、少女は夢中になっていた。
●
少女が小学校高学年に上がったある日の事、苦しみが継続する中それは突然引き起こった。
「わぁ! これ、菫の刺繍? 可愛いね!」
「ありがとう! ママがね、やってくれたの!」
少女は仲の良いクラスメイトが出来た。彼女は特に菫の花が好きで、よく菫模様のハンカチやその刺繍が入ったポーチを持ってきていた。毎回幸せそうに話す彼女に少女もつられて笑顔になる。
二人はクラスの中では控えめな方だったが、それでも特に虐めもなくお互いに笑い合う普通の小学生として順当に過ごせていたと思う。
──この日までは。
「?!」
「なっ、何す──んぐっ!!」
下校中二人は突然何者かに口を塞がれた。何が何だかわからずこの布が取れるように暴れて、その布が苦しかったから大きく息を吸い込んだ。しかし布についた別の何かを吸ってしまったらしく、酷く視界がぐらついて……
そこで二人の意識は途切れてしまった。
「……めて……やめて……っ!」
「……たくないよ……ひくっ」
「きゃああぁっ!」
(ん……ここ、は……)
幼い悲鳴に少女は目を覚ます。冷たい床に寝転がされて居たようだ。ついでに両手も背後へ縛り付けられていて起き上がろうに起き上がれない。薄暗くて何が起こっているのかは分からないが、何かは起きているようだった。
「あ、がっ……」
「ははははっ!! いいなァ……子供の悲鳴ってのはァ!!」
(!!)
そこで、狂った言動を取る者が数人居る事を知る。彼等の笑い声と比例して聞こえてくるのは、苦しそうに呻く子供の声。
いや、ちょっと、ねぇ……何を
何を、して、いるの……?
「……お? そっちの嬢ちゃんも起きたか、どれ……」
「っ!」
狂った声、呻く声が近づいてくる。少女はあまりの出来事に寝たフリをする余裕もなく目を見開いたまま待ち構えてしまった。
「嬢ちゃん、キモが座ってるね? 拐われてきたってのに……それに、これから皆死ぬんだぜ?」
「え? 死、ぬ……?」
「かはっ」
すると彼が
なぜ、どうしてこんなことができるのか。今まで信じてきた人間の善性、両親の暖かい心、笑う子供達。そこにある心地よさは遠い彼方のような、氷獄のように冷たく狂気的な『人間の悪意』を少女は目の当たりにした。
「さ、次はどいつにするかァ……」
そうした言葉を合図に殺されてゆく子どもたちの痛ましい叫び声は、彼女にとって胸が張り裂ける程に痛く、同時に心の奥底から湧き上がるあの愉悦感を必死に抑え込んだ。
そんな様子を見て、殺人犯達は嗤う。
どうして人の不幸を笑っているの?
どうしてそんなに酷い事が出来るの?
子供達が何か悪い事をしたの?
少女の無数の疑問が浮かんでは形にならず、殺人犯の一人へ目線を向けた際に、彼は気紛れに少女へ教える。
「愉しいからだ」と。
たの、しい……?
訳が分からない感情が蠢く中
「や! やだ!! 死にたくない……っ!!」
「!!」
あの、菫の花が好きな仲の良いクラスメイトも拐われていた事に少女は漸く気づく。どうして彼女までこんな事に巻き込まれているのか、信じたくなかった。
でもダメ、ダメだよ
彼女だけは……彼女だけは……絶対に──!!
──そこで、少女の中で、何かが切れた。
●
──少女は振り返る。
それは怒りか、悲しみか、失望か。様々な負の感情が爆発すると同時に少女の身体から燃えるような三つの眼を携えた『煙のような影』が立ち上り、誘拐犯達を恐怖と狂気の底に叩き込みながら順番に虐殺していった。
その所業をその身体に、その心に刻み込むように、順番に、丁寧に、一人も逃さずに殺していった。
感情に任せて暴れまわった少女は、絶望に染まりきった誘拐犯の顔を目にする。
それは自らのしでかした悪、その応報を受けて破滅することになった、自業自得の絶望の目──
少女にとって初めての
今まで縛りつけてきた鎖が砕け散るように、抑え込んできたものが爆発したかのように、甘美なる不幸に酔いしれた。
──ああ、愉しい! 本当に愉しい!
「!」
しかし視線を移せば少女は気づく。
少女の『正体』を見た子供達も同じく、その精神が耐えられる筈もなく、殆どが狂気に囚われ、精神崩壊を起こしてしまっていた。
──当然、仲の良かったクラスメイトも。
「ふ、は……ははは……」
……少女は笑った。
笑いながら、泣いた。
自分の周りに広がるのは、悪人の絶望と至上の愉悦。心を砕かれた子供達の狂った笑い声。
魂は止めどない愉悦に震えながらも、心は狂う程の悲しみに包まれて。二つの感情に胸が張り裂けそうになりながら、少女は人知れず姿を消した。
少女は一人歩く。宛もなく、取り留めもなく。そこでふと通りすがりのお店のガラス越しに自分の姿が見えて目を疑った。
黒かった髪は銀色に、肌色は焼け付いたような褐色となり、黒眼は燃えるように紅い眼に変わり果て、そして……額には閉じられた「第三の眼」がある。
これが、
「ああ、そうか……最初から……」
少女は悟る。最初から
どこで得たかもわからない知識が頭の中に浮かんで、『大元』になる邪神もはっきりと自覚した少女は、それでも人としての心を、善性を失わないままに涙を流し
「所詮自分も、あの犯人たちと何も変わらない悪人なんだ」
これ以上自分に関わる人が居ないようにと、親しい人がどこにも居ないどこか遠くを求めて……
少女はこの街を去った。
数年後『少女』は、人知れず占い師として過ごしていた。
「人嫌い」を自称し自らの性から人を遠ざけ、けれど自らの心を満たす。「人の不幸」に触れる事の出来る占い師として。都市の路地裏でひっそりと生きていたのだ。
彼女の名前は、あの時クラスメイトが好きだった花の名前から──そう
ヴァイオレット・ホロウウォーカー
影を歩む菫の花は、その名に込められた花言葉の意味も思い出せないままに。
今日も惡蜜が滴るその瞬間を懇願し、それを得ては愉悦を浮かべる。
僅かな善性が、彼女の中で揺らめきながら