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日々を歌うように、決して広くはない薄い壁のアパートでも母は幼い子供のように喜んでいた。夢でも見るように幸福の日々を過ごした母を横目に兄は――カラスは外へと仕事をしに行った。この街はちっぽけだ。見上げれば荘厳なる王城が存在していると言うのに、この街は何時だって喧噪と汚らしい噂の中に存在していた。少し道を歩けばカラスの弟だ、と指差し畏れられる。そんな日々にも慣れてきた。シラスは擦れた布きれのような気持ちで足早に道を行く。噂に後ろ髪引かれる気持ちを振り払い、幼き日に抱きしめてくれた兄に思いを馳せる。あの時のぬくもりは嘘ではなく、幸福な『家族』のかたちとして存在していたのだから。
「ただいま」
買い物袋を腕に抱えて滑り込むようにアパートへと飛び込んだ。ばたん、と軽い音を立てて扉を閉めれば遠く母の歌声が聞こえる。
♪――
何時だって母は楽しげだ。シラスは彼女の目に映らなくても甲斐甲斐し世話をした。定期的に大金を持ち帰る兄のお陰で生活はそれ程逼迫せずに済んでいる。一人では何も出来なくなった赤ん坊のように眠り、駄々を捏ねるだけの『大切なお母さん』の姿をその双眸に映すまもなく、シラスは夕飯の材料に手を付けた。その頃の兄が何処で何をしているかなんて――何も知らずに。
●
鮮やかな金の髪は血統を表しているのだと人々は噂した。口さがない女の声に耳寄せて「黙れ」と囁けば楽しげに声が跳ねる。下品な赤を唇に引いた女は豊かな肢体をくねらせる。もっと、もっとと強請るように。カラスへと撓垂れ掛かる。カラスは女の体をソファーの奥へと押し遣って苛立ったように袋を投げやった。女は目の色を変え、先程までの調子とは一転し小さな袋に夢中になる。『あの女』と同じだと毒吐けど、それを聞く者は居ない。先程まで彼の側に居たのはある貴族の愛妾であった女だ。厄介払いというのだろう。薬に溺れさせ、そのまま身柄を何処かへと売り払ってこいと云う話を自ら請け逢瀬を重ねていた。艶めかしい肢体を包み込んだ質の良いドレスは愛妾に向けての最後の贈り物であったらしい――不憫な女だ、と感じる者も居ただろうがカラスは「馬鹿な女だ」と言う感想しか浮かぶことはない。
「キスして呉れないかしら?」
「此れでも食ってろ」
唇に押しつけたのは袋であった。女の懐からいくつかの金貨を奪い去り、ポケットの中へと詰め込んだ。「んふふ」と甘えたように声を漏らし身を揺らがした女の白魚の指先を撫でれば女は馬鹿の一つ覚えのように反応を返す。
「カラスは冷たいのね」
「何がだ」
「だって、こんなにいい女を貴方ったら商売相手としか見てないのだもの」
「欲求不満だって言うなら働き先くらい紹介してやる」
「まあ、ひどいのね。ひどいわ」
カラスの言葉に女は笑った。その笑顔に重なるように――一人の女の面影が浮かび上がる。彼の脳裏に浮かぶ女は何時だって母だった。その身を売り物とし、薬に溺れ、幼子のように微笑む。来る筈の無い『お迎え』ばかりを夢に見る莫迦げた人間のかたちをした塵。何処の誰とも分からぬ種で宿した『弟』の事などまるで居ないかのように扱う様は――嗚呼、考えるだけで虫唾が走る。
それ故に彼は縄張りで一人歩き回る女を裏の世界へと引きずり込んだ。見目の良い女は売り物とした。碌な売り物にならぬ女や商売女に対しては薬を売りつけた。生まれ持った美貌を駆使すれば女など易い駒であった。微笑んでやればその気になって人気の無い場所にまで着いてくる。甘い言葉でも囁いてやれば良い。高く売り払った後に、自身を恋しがってくる女には薬を勧めた。自身に溺れているように女は稼いだ金をカラスの許へと運んでくる。口にするにも憚られるような悪辣な手口を駆使しては利益を上げ続けた。その利益は自己の物とはせず貴族や悪党へと捧げる。そうすることで『カラス』という男の立場を強め――街歩むシラスの耳へと入るほどに変化する。
縄張りであったホームタウンを喰らい尽くした。悪事に手を染める事に臆さぬカラスにとっては街一つを食い物にするのは容易であった。若い女は一人で出歩く事を止め、年頃の娘を持つ親はカラスを目の敵にする。あの美しい男の魔性の牙に掛かった者は数知れず――彼は、足りぬと言わんばかりに次のエリアへと足を運んだ。
彼が次に選んだ縄張りはマダム・フォクシーの膝元であった。
高級娼婦。社交界の重鎮に愛され続けた美しい華。彼女は自身のパイプを生かして数多くの娼館の経営を行っている。年老いても枯れぬ美貌とその存在感で知らぬ者は居ないであろう。マダム・フォクシー――ヴォルピアの娼館に存在する娼婦は誰も彼もが美しく咲き誇る。彼女の娼館で雇われた女達の美貌は磨かれ、市井での評判も良い。流石はマダム・フォクシーか。彼女の名を一つ出せば男達は目の色を変え上質の宝石を手に入れた様な顔をするのだとする。
彼女の娼館の女と縁を持てたのは幸運であった。カラスは一人の女に声を掛ける。濡羽色の髪と眸の美しい女であった。その女に『母』の面影を感じ、カラスは酷く苛立った。美しい彼女を口車に乗せるのは簡単であった。
歯の浮くような台詞を並べ立てる。『あの女』が客より贈り物のように貰っていた言葉の数々だ。
愛している――嘘だ。
側に居たい――嘘だ。
外に行かないか――『本当』だ。
一緒に、行きたいところがあるんだ――冗談にしてくれ。後は一人だ。
手を握りしめれば、女達は簡単に走り出した。カラスの甘やかな言葉は表の美しい部分をなぞり、唇より漏れ出田声音が胸を躍らせた。熱病のように、一気に晴れ上がった恋心は。人間の感情に悍ましくも糸を通した針で縫い付けるかのようにカラスという男を刻み込む。感情に意味があるかないかなど定かでなく。上辺を指先で撫で付けるように女は安易に連れ出した。
その次は、淡藤の髪の女であった。その次は旅人だという、珍しい眸と髪をしていた。
皆、帰ってくることはない。「行ってきます」と微笑んで手を引かれ歩き出した娼館の女達は鳥籠に戻ることはなかった。
珍しい髪と眸の女は、その特異な外見により死骸を発見された。男に売られ、殴られ体は拉げ、美しかった白い体の内側から白い骨が覗いている。薬に溺れたのか肋骨の浮き出た胸元には幾つもの火を押しつけられた後もあった。女は――惨い姿であった。虹の名を持った女の名を、娼館の従業員が呼んだが、二度とは声も微笑みも帰ることはない。彼女はマダムの許から別の娼館へ――カラスが懇意にしていた娼館へと売り払われいたらしい。薬に溺れさせ、自身に金を与えながら特異な性癖の男達を相手にした。弱り客が取れなくなれば『都合の良いサンドバック』にして捨て置けと荒くれ者達へと安価で売り払っていたらしい。
それが何度も何度も繰り返された。マダム・フォクシーの娼館の女を狙った一連の事件はやがては多忙な日々にその身を委ねているマダムの耳にも届く。
上質なソファーに腰掛けていたマダムは「まあ、『素敵な情報』ですわね」と情報提供者の貴族へと微笑んだ。彼がマダムの『可愛い娘達』を購入したのかは定かではないが――それ程にカラスの行いは目に余ったと言うことか。
「舐めやがって」
――と、女はそう毒吐いた。ずんずんと街の中を歩み、金を積んでカラス懇意の娼館を買収した。微笑むそのかんばせは美しく社交界の花であった嘗ての栄光は霞むことはない。煙管をそっと手にした彼女は裏世界では『永遠の淑女』である。手を伸ばせども届かぬ高嶺の花は館主の頬を撫でて囁く。
「分かってるね」と。その蠱惑的な響きにぞうと背筋に走ったのは悍ましさと色香であった。くらくらと脳が揺らぐ。脳みそを直接スプーンで掻き混ぜられるかのような感覚を覚えた男は大きく頷いた。
翌日、マダムは自身のパトロンや配下である者達を呼び出した。
「どうするんですか? マダム。何か指示を貰っても?」
「ええ。ええ。よくぞ聞いてくれましたね。
先ずはこの周囲の娼館は私の支配下に入れますわ。ええ、勿論。私がしっかりと経営致しますからご心配なく。
次に……手伝って欲しいことがありますの。皆さん『分かり』頂いているでしょう?」
「あの男をこの街から追い出せと?」
「そんな言葉使ってはいけませんわ。紳士的に『お帰り頂く』の。
但し――きちんと『娼館を利用した代金』は頂いて頂戴。彼本人からでなくていいわ。彼の手下の男達一人一人から徴収すれば足りるでしょう」
マダムの言葉に「例えば?」と静かに問いかけた。蠱惑的な笑みを浮かべた女の笑みには色香が混ざり込む。ふ、と煙を吐き出してルージュの引かれた唇にをペロ、と舐めた『雌狐』は――
「――可愛い可愛い私の娘達の為に手を尽くしましょう」
その日から、カラスの日常は大きく変化した。今まで適当に女を売り払っていた娼館からは門前払いとなった。マダム・フォクシーの傘下となった娼館には彼の行いについて共有され、女達は身を守ることを徹底させられる。
女衒としての収入を絶たれたカラスの商売が上がったりだ。苛立ちに自身のホームタウンに戻れば手下は一人一人と連れ去られる。
「アイツは?」とカラスはちら、と手下の男を見た。悪夢のように手下達は惨い姿で見つかった。カラスが売り払っていた薬で手下達は一人一人溺れていった。そして、惨く大凡人間は『そちら側には曲がらぬ』という方向に妙に曲げられた死骸や骨の浮き出た肋骨の死骸がホームタウンには溢れ出した。その一つ一つはカラスが娼婦に――ヴォルピアの『愛しい娘達』に――行った物と同じであった。
それこそマダム・フォクシーによる報復だ。カラスの行いに対する手痛い報復にはもう一つの意味が込められる。
――この男と取引をしたならばマダム・フォクシーはお前の敵になる。
●
その話はシラスの耳にも入った。畏れられていた兄は方々からのケジメを受け面子がすっかり潰れていた。今更、彼が平凡な仕事に着くことは出来ない。買い物に向かうシラスは今まで向けられていた畏れと不安の視線より解放されると同時に小馬鹿にするような声と視線を幾重にも受ける事となった。
「……ただいま」
静かな声音で、そう呟いたシラスはきょろりと周囲を見回す。母は機嫌良く子守歌を歌い、兄はと言えば『報復』以後は家に籠もりきりであった。母との接触を避けるように自室の窓際に座りぼんやりと過ごす彼の横顔にシラスは「兄さん」と声を掛ける。そう呼ぶのも随分久しぶりだった――接触を避けていた日々が遠い場所に存在するような気がする。
「俺が代わり働きに出る。丁度、街で雇ってくれるって言うんだ。
俺は子供だけどさ、鳥渡でも何か出来ればって思って……」
「……シラスが?」
「そう。母さんの事も食わせなきゃいけないし。兄さんもね」
「金ならまだ少しは余ってるだろう。何もお前が苦労することはないだろう」
「あんな汚い金、直ぐ使い切るだろ。それに、今後のことだってある。
……母さんの世話は兄さんに任せるから。俺は外で働いてくる。……言ってくるよ」
カラスから見遣ればまだ幼い弟だった。成長をしたと言え、子供であるシラスが任せて貰える労働など限られた物ばかりだ。肉体労働ばかり、生育環境を考えれば『頭』を使った職業に就くことなど出来るわけがないとシラスは笑った。
それでも僅かな収入を手に入れられれば――母と兄を食べさせていけるとシラスは「行ってきます」と鞄を手に早朝より深夜まで働き続けた。身を粉にしてでも、只の僅かな――兄が『悪事に手を染めてきた時』の一日の収入に満たなくとも自身が働き手にした銭はそれなりの重さを感じさせた。
ポケットの中に仕舞い込んだ『兄のペンダント』のチェーンを掌で遊ばせた。売り払ってしまえば、当座の生活は格段に改善されると信じていてもシラスはそうする事はなかった。
何か言いたげな様子で兄はシラスを見ていたが、シラスは「行ってきます」と「頑張るから」と「大丈夫だ」の三つだけを兄へ告げた。シラスは兄に母の世話を頼んだ。『あの女』と呼び毛嫌いするのは知っていても、自身が大切に大切に愛している母を無碍に扱うことはないだろう。
落魄れた兄に幼い子供のように微笑んでいる母。シラスにとっては、自身が努力し身を砕けば三人揃ってやり直せるチャンスがあると――そう信じていた。
生きてさえ居れば、きっと。
もう一度は夕日の上に浮かんでいた。雲のように揺らいだ感情は美しくも下がっていく。次第に大人びていくシラスにとっても無形であった家族の形が漸く美しく取り戻されるはずであると信じて止まなかった。
●
彼は手負いの獣のようであった。幻想王国に存在する社会の格差。貴族と平民という生まれの違い。自身と弟へを馬鹿にする周囲の人々に憤りを抑えることはが出来ない儘にカラスは燻り続ける。
その体を商品としていた母のことを思えばカラスの嫌悪は酷くなった。行くらあの女の腹から生まれたと言えども、それを望んだわけではない。然し、シラスが――大切な弟が母を愛するというのだから手を出すことは出来なかった。
『あの女』はカラスが嫌悪する要素を煮詰めていた。肉欲と薬物に溺れた成れの果ての女のだらしなさ。貴族の愛妾であり、子を身籠もって余所へと追いやられたと言うのにペンダント一つ手にして信じ込めるその浅はかさ。虫唾が走る。軽蔑する。最低だ。カラスは女の事を母と呼ぶ事を拒んでいた。母などと呼ぶことが出来ないほどに悪意や憎しみは膨れ上がった。風船はぱんぱんに腫れ上がり今にも破裂してしまいそうであった――シラスはそれに気付かない。自身が努力すれば家族がやり直せるはずだと信じたシラスには兄の中に燻る思いを汲むことも気付くことも出来なかった。
昏い焔を揺らしながらカラスは一つの『終点』へと行き着いた。自分自身で作り出した『薬』は安価な材料を組み合わせた物であった。誰だって簡単に作ることの出来る粗悪品。咳止め薬やインク、ガソリンetc、etc……。
原価にして子供の小遣い程度でしかない材料で作り上げられたそれは粗悪であるからこそ、酷い中毒性を引き起こした。決して販売には向かず、利益を生む物ではない。
「母さん」とその名を呼べば、カラスを両眼に移し込んだマコは嬉しそうに微笑んだ。薄墨のような髪と瞳の女は弟とよく似ている。寧ろこの家の中では自身だけが異質なのだと嫌でも分からせるような女の姿にカラスは息を飲んだ。
無垢に微笑むそのかんばせは弟とそっくりだ。シラスが用意した母用の薬の代わりにカラスは自作した薬物を与えた。許より薬漬けであった母は突如として訪れた多幸感に喜びベッドの上で笑い続ける。仕事より帰宅したシラスは「母さんが嬉しそうだね」と心を躍らせた物だ。
「兄さん、何か良いことでもあったの?」
「久しぶりに『あの女』と話した」
「……兄さんが、母さんと?」
「ああ」
そう、とシラスは笑みを浮かべた。鞄をテーブルに置いてからさっさと寝室へと向かう。少し眠れば次の仕事に向かわねばならない。そんなシラスの姿を見送ってからカラスは母に薬を渡すと言って自身の作成した薬物を手渡した。利益など無くても良かった。多幸感の後、中毒に陥り早く欲しいともがく母の声を留守にするシラスは聞くことはない。
眠り、起きて、仕事に行く。その繰り返しの中、カラスはシラスの留守に決まって『実験した薬物』を与えた。粗悪も粗悪、人体に有害でしかないそれが母のその体の中に巡っていく。「ぐう」と唸った母の声を聞きながらカラスは内心でせせら笑った。女の体の内部を作り替えていく。人間から、屑に。死へと急転直下で落ちていく母は呻き苦しみ、天へ向かって手を伸ばす。凄惨な姿に変化していく彼女の姿をシラスに見られないことに仄かに安堵しながらカラスは何度も何度も繰り返した。
「う、う」
母の唸った声がする。
「あーあーあー」
まるで幼い子供のように言語を使用する脳をストローで吸い取られたかのように言葉が漏れていく。ああ、ああ、と何度も繰り返した母はシーツの海の中を泳いだ。酒にでも酔ったかのような酩酊に体をぐらぐらと揺らぐ母の体がベッドから滑り落ちる。鈍い音をして酷く変色した膚を眺めてカラスは唇を吊り上げた。
その時だった。
どさり、と鈍い音を立てた。背後に立っていたのはシラスであった。鞄の中に詰め込んだパンが無数に転がる。地を這うように動いた母は「あうあ」と何度も繰り返しパンを口の中に詰め込んでいく。無理矢理の行為に「喉を詰める」とシラスが母を支え――その変質した膚に、体に気付いてシラスは息を飲んだ。
「兄さん……?」
呼ぶ声が震えた。
「カ、ラス……」
酷く、声が罅割れた。
シラスはぞう、と背筋に走った冷たい気配を隠すことなく兄の――カラスの顔を眺める。
暗がりでその表情はよく見えない。だが、彼が笑っているような気がした。
痩細り傷だらけ、最早、健常なる人間とは呼べぬように変質した膚の母を大切に大切に守るように抱きしめた。
カラスにとって悍ましい怠惰の象徴である母は。
シラスにとって愛おしい大切な家族である母は。
夢を見るように微笑み続け、叫んだ。
早くう―――――!
喉の奥からぼろぼろと漏れてくる。
早くう――! ねえ、ねえ―――!
何度も、何度も、何度も。繰り返されたその声に頭蓋を殴られた気さえしてシラスは息を飲んだ。
抱きしめた母の体がぐいぐいと自身の腕から逃げだそうとしている。
「どうして」と訪うことも出来ないまま、すれ違うように出て行った兄の横顔を眺めてシラスは唇を噛みしめた。
――そこに『もう一度』はないとでも言う様に。外は雨が降り出した。
あの時降った雨とは違う、冷たく、悍ましい水滴達。
その雨の名前を、シラスは知らない。