SS詳細
とあるイレギュラーズの少女が酷い目に遭った話。
登場人物一覧
フィーネ・ヴィユノーク・シュネーブラウは闇の中にいた。キーンと耳鳴りがするほど物静かで、季節は夏だというのに寒気がした。
彼女は腐臭がする液体でじっとりと体を濡らし、カタカタと歯を震わせていた。その震えは暑さや寒さからではなく、恐怖からだ。
なにゆえに自分はこんな状況に置かれているのだろうと、現実から逃避するように思い返した。
始まりは一枚の手紙からであった。
『拝啓、フィーネ・ヴィユノーク・シュネーブラウ様――』
自分宛の手紙。内容を読んでみると、どうやら知り合いからではないらしい。仕事の直接依頼だった。剣客として名高い同居人に宛てるならまだしも、自分への依頼とはどんな内容だろう。フィーネは更に手紙を読み進めた。
『――先日、十六歳の誕生日を迎えたばかりの我が最愛の娘が、狼に襲われて大怪我を負ってしまいました。私が住む地域にはこんな傷を治せる医者もおらぬ為、治療する事もかないません。このままでは娘の命が失われてしまう』
ローレットを介さずというのは珍しいが、『フィーネが治癒魔術の使い手だとの話を聞いて急いで手紙を寄越した』との旨と同封された前金に一応の納得をした。
「……お姉さまに頼った方がいいのでしょうか」
狼に襲われたという話から誰か護衛を連れて行こうと一瞬考えるも、事態は一刻の時を争う。それにひとけがある場所を通れば安全に迎えるだろう。そう判断し、宿場の者に同居人への伝言を頼んでからすぐ宿場を発った。
その地域に到着したのは数時間後である。道中は狼に出会う気配もまったくなく、無事に町へと辿り着く事が出来た。
しかし空は日暮れになり、町の中であってもひとけが少なくなってくる。
「どうした、嬢ちゃん。迷子かぁ?」
酒臭いおじさんがヘラヘラと笑いながら声を掛けてきた。親切心から心配してくれているのだろうが、泥酔しているのかマトモなやり取りもままならない。その上に肩や腕をベタベタと気安く触ってくる。
周囲に人が少ない事も併せて少し不安を感じたフィーネは、依頼で指定された場所への道筋だけ聞き出す事にした。
「あ~? その場所? その場所ならアッチの居住区突っ切っていけば……」
それを聞くとそそくさに礼を述べて、足早にそこを離れる。おじさんは「夜道には気をつけろ~!」とオペラを歌うように叫んでいる。
……残響のように残る言葉を今思い返すと、道順よりもそちらの方を気にとめておけばよかった。
フィーネは左の獣耳からドクドクと溢れ出る血を涙目になって拭いながら、ここに至るまでの回想を続ける。
その少し後から記憶が途切れている。意識を覚ましたのは液体を顔面にぶっかけられたショックからだ。
「……これがローレットの?」
「あぁ、間違いない」
液体が目に入り込んで酷くしみる。左頭部にも鈍痛がした。反射的に手で労ろうとしたが、後ろ手に縛られている事に気付く。素肌に外気が当たる。すぐさま自分が下着姿に剥かれているのが分かった。
フィーネは目の前に居るのが男であろうというのもあって別の事を危惧して青ざめたが、相手は意識を取り戻したのを見てせせら笑うように告げる。
「お、お目覚めかいローレットのおチビさん。悪いけど、武器持ってねぇか確かめただけでソレ目的じゃねぇんだ」
ひたひたと頬に何か冷たいものが当たる。金属製の何か。目を潰していた液体が涙で段々と洗い流され、フィーネは視界を取り戻す。
目の前にあるのは金属製のナイフ。こちらを見ているのは、背丈の小さい男と狡猾そうな顔付きの二人。
「……なんで……」
フィーネはそう言葉を漏らした。ナイフを翳していた背丈の小さい男は卑しい笑みをこれでもかと見せつけるばかりで、明確には答えない。
されど、フィーネは身に覚えがないわけでもない。今までこなしてきた依頼の関係者。同居人や友人達が倒した者の親類や部下。……そもそもローレットに所属している時点で、その手の恨みを買ったり人質になったりする理由はいくらでもある。
左耳がじくりと痛み、穴から液が垂れてきたような感覚を覚えた。血だ。目的地へ向かう途中に鈍器で殴打されたであろう。だが、そんな事はフィーネにとって今は二の次だ。
「……離して下さい。私は怪我人の治療に向かわねばいけないのです」
二人の男へ慈悲を乞うように見つめた。彼らは顔を見合わせると、一層卑しい表情を作る。
「あれは君を誘き寄せる為のデマだよ」
そう言ってもう片方の男が木製のスタンプを投げた。床に転がったその印は見た事がある。手紙の蝋封に押されていたそれと同一のものだ。
フィーネは「死にそうになっている女の子は居ないんだ」と安堵したが、次第にその心配の対象が自分に移り変わるにつれて、心臓が激しく脈打ち始める。
自分はこれからどんな事をされるのか。少なくとも穏当な流れにはなるまい。拷問ならば相当な苦痛は伴うだろう。フィーネはその手の道具が無いか、痛み続ける目を酷使しながら周囲を見た。
石壁で窓がなく、八畳ほどの大きさの部屋。地下室だろう。扉は鍵穴がある木造りのもので、ごく一般的なタイプだ。灯りはテーブルに載った大きめのランタンから取っており、その傍らには大工仕事の道具だとか、ワケも分からぬ色合いの液体だとかが並んでいる。
拷問の知識に造詣が深いわけではないが、それらをどうやって使うのかはおぼろげに思い浮かぶ。先ほどぶっかけられた腐臭のする液体の事も思い出して、尚更に心の臓が警鐘を打った。
拷問にあった末の自分を想像しかけて、この状況を逃れる為の考えを巡らせる。
液体から身を守る為にギフトを使うか? イイヤ、それでは根本的には解決しない。
戦闘を仕掛けるか? イイヤ、自分は他人を傷つける魔術を持っていない。
大声で叫んで誰かに助けを求めるか? イイヤ、ここが何処かも分からないし、自分はその前に殺されるだろう。
打開する為の手段は頭の中で思いつく度に、否定で打ち消されていく。
想像した未来の自分が現実味を帯びてくる。男の言葉がその想像に追い打ちを掛けた。
「さっきぶっかけてやったのは可燃性の油でな。すぐに火達磨さ。火あぶりってのは、大層苦しいらしいな」
黒焦げの死体になった自分の姿を想像してしまう。フィーネの表情を見て気分をよくしたのであろう、背丈の小さい男はテーブルに近づいて、他の液体の事も説明し始めた。
「これは漂白剤。キッチンとかにあるヤツだが、飲ませると食道に穴が空いて胃や腸が真っ赤にただれて出血する。こっちは――」
今しかない。フィーネは咄嗟に立ち上がった。それを見た男達はフィーネを刃物で斬り付けようとするが、彼女は男達には立ち向かわずテーブルに体当たりを仕掛ける。
「ぎゃあぁ!!」
テーブルはひっくり返り、ランタンは床に当たって砕け、背丈の小さい男の膝元に液体を浴びた。
事象としてはただそれだけの事だが、液体で濡れたズボンから白い煙が立ち、肉が焼け焦げる臭気が立ちこめる。次にランタンからこぼれ落ちた火が液体に燃え移り、背丈の小さい男の下半身は男が説明していた通り一気に火達磨と化した。
「た、たすけっ」
男は苦しみ転がりながら二人に助けを求めるが、彼女は後ろ手に縛られているのだからどうしようもない。もう片方の男は助けるのも手遅れだと悟って手出しをしない。
回るのが早かった火は早々に男の下半身を焼き焦がし、十数秒も経たず1センチ未満の燻ぶる火が残る状態となった。
そうして、ほとんど灯りが無くなった室内は、男の命と共に事切れたが如く急に真っ暗になる。
――カシャン、カシャン。
硬い革靴がガラスの欠片を踏む音を聞いて、フィーネの思考は回想から現実に呼び戻された。目の前は真っ暗で、お互い何処にいるか見えるはずもない。
だから、キット、闇の中を手やナイフを振り回しながら探しているのだ。
右足に何かが触れた。瞬時に危険を察知して逃げようとしたが、それよりも早く太股に対して先の尖った物を突き立てられた。それが皮に穴を穿ち、肉を抉る。
フィーネは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。反射的に後ろに飛び退き、尻餅をついた。
殺される。
本能的な恐怖を抱いたフィーネは、壁際までゆっくりと後ずさる。扉まで逃げ切る事も一瞬考えた。だがこの男達が鍵を掛けていないわけがない。
鍵はテーブルの上などにはなかった。ならば男達が持っているに違いない。
燻ぶっている火の方へ顔を向けた。危険をかいくぐってでも事切れた男のポケットや懐を探らなければならない。
傷を負った太ももが焼けるように熱い。血が流れている感覚もある。魔法で治療するにしても、この状況では十数秒の時間すらも命取りになる。
フィーネは
今にも同居人の名を叫んで泣き出したかったが、そうすれば二度と会えなくなるとぐっと堪える。
「おい、何処にいる」
真横に男の気配を感じて肌が粟立つ。心臓がバクバクと脈打った。この音が相手に聞こえるのではないか。そう思ってしまうくらいに。
「今降参するなら殺しはしないよ。傷つけたりだってしない」
男は闇の中から少女を探し出すのが面倒に思えたのか、優しい声色で呼びかけてくる。
仲間があぁいう目に遭っている以上、それは嘘に違いない。その証左に、刃先が憎々しげに床を叩く音が何度も聞こえた。
フィーネは息を殺して、液体で濡れた床の上を這い続ける。まるでナメクジか何かだ。他人から見ればさぞ無様な格好だろうと自覚すれど、その動きを止めて男に捉えられてしまえばそれ以上に無様な姿になってしまうだろう。
ようやく燃え尽きた男の元へ辿り着き、後ろ手にその体をまさぐる。散らばった金具だとか、ガラスの破片だとかにも触れてしまい指先を切ってしまう。
だけれどこの暗闇の中では鍵特有のデコボコした先端を指先で確かめて、それを探し当てるしかない。
探し続けている内に、身に覚えがあるヒヤリとした冷たさが指先に当たった。
かちゃん。
その金属の柄を必死に握りしめて動かすと、足下のガラスがこすれてかすかな音を出す。
「そこに居たかい」
数秒経って、頭上から男の声がした。立ち上がって逃げようとするも、立ち上がる前に負傷していた足を思いっきり踏みつけられて、その場に磔となる。
「ローレットっていうのは、君みたいな小さなお嬢ちゃんだって侮れなくてイヤになる。だけれど、やられたから仕返しはしておかないと僕の腹の虫が治まらない」
フィーネは観念したように体の動きを止めて、相手に乞うた。それは自分への慈悲ではない。
「……お姉さまには手を出さないと、約束していただけませんか」
相手は一瞬「何の事だ」と黙り込むが、フィーネの身元から思い当たる人物が居たのだろう。嬉々として饒舌に応え始める。
「いいや、そう聞いたら手を出さないわけにはいかないね。同じ手段では成功しないだろうけど、君が手元にいるならばやりようはある」
そう答えた瞬間、袋はぎに何か鋭利な物が突き刺さった。男の足に、だ。
男はワケも分からず反射的に踏みつけた足を離す。それが致命的となった。
フィーネは、後ろ手に縛られたロープを燃え尽きた男のナイフで解いていた。
しかもそのナイフはまだ手元にあった。
男自身は、少女は後ろ手に縛られている状態であると油断しきっていた。
『お姉さまに手を出さないと、約束していただけませんか』
この言葉が自分に対する最後通牒だと男はようやく理解したが、その時には胸元に鋭利なナイフが突き刺さっていた。
――早く見つけ出して。人助けセンサー使えるヤツに救援を――
――住民達からこのような話が――
いくら経っても帰ってこないフィーネの事を知って、彼女の伝言から依頼内容を不審に思ったローレットの仲間達はその区域を捜索し始めたのは更に数時間後の事だ。
酔っ払った住民からフィーネの動向を聞いてからの彼らの捜索は、見事というほかなかった。
……それでも、救出されたフィーネは自分と相手の血にまみれていて、彼女の記憶に深い影を落としたのだが……。