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いつかの夜の、蒼褪めた快楽。
登場人物一覧
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目の前に、兄が居た。
古びた紙の匂いが漂う。
兄は無類の本好きだった。
その匂いはいつだって兄を想い起させる。
兄は笑っている。
その表情に、思わず胸が締め付けられる。
白状しよう。
自分は兄を、アルテリウスを愛している。
それが親愛の情なのか恋慕の情なのかは分からない。
――分からない時点で、歪んでいる。
それとも。
分からない振りをしているだけなのか。
それは防衛本能か、或いは、予防線か。
しかし、自分自身を偽ることはできない。
その感情は、紛れもなく本物だった。
一緒に居たい。
愛している。
好きだ。
――そんな程度の、生易しい感情ではなかった。
兄を自分だけのものにしてしまいたい。
彼を何処かに閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない。
本気でそう思い詰める程度には兄を想っていただろう。
けれど、兄にとって自分は家族に過ぎない。
只の家族と認識されるのは、とても嫌だった。
彼が友人の男性と愉し気に談笑しているときには、唇を噛みしめてしまって血が流れたし。
彼が侍女と会話をしている様を目撃した時など、思わず自分の手の小指を折ってしまいそうになる程に、怒りが湧いた。
書庫の映像が断続的に映る。
「兄さんは、僕のことを……」
どう思っているのですか。そう問いかけようとするが、何故か声が出なくて、リウィルディアの可憐な唇だけが、滑稽に動いた。
リウィルディアの絹の様にさらさらと艶やかな美しい銀髪が揺れる。
袖から覗く手首は白く、細く、其処から先の手指までの造形は彫刻の様に端正で、なまめかしい。
完成しなかったリウィルディアの問いかけに、アルテリウスが答える。
だが、無音映画の様に、アルテリウスの口が動くだけで、その声はリウィルディアに届かない。
アルテリウスが一冊の本を棚から取り出し、リウィルディアに手渡す。
書かれている題名は――。
視線を兄の方へ戻すと、場面が移り変わる。
「リウィルディア」
兄の声が今度ははっきりと聞こえた。
何処かの教会に居る。
パイプオルガンの音が流れているが、長椅子に兄と自分の二人だけが掛けていた。
「人はなぜ、生きると思う?」
アルテリウスの問いかけに、リウィルディアは首を傾げる。
「なぜ――ですか」
「そうだ」
「種を繁栄させるため、でしょうか」
「それは生物学的な答えだ」
アルテリウスは穏やかに笑った。
「目的が目的なのさ。人は目的を見つけるために生きる」
「目的……ですか」
「“執着”と換言してもいい。人間の行動原理で最も強大なのは“執着”さ。
人に、物に、概念に。それを抱いている間は凡ゆる障害を打ち破るだろう。
だけどそれが消え、新たな寄る辺なき人は朽ち果てるしかない」
その気持ちなら、少し理解できる気がする。
少なくとも自分は、今、強い執着を抱いている。
眼前の兄に対して。
「兄さんの目的は、何なのですか」
その問いかけに、アルテリウスは一瞬の空白の後、口を開ける。
「証明」
「……証明?」
アルテリウスの短い一言にリウィルディアが首を傾げる。
場面が切り替わる。
眼前には食卓があり、夕餉が準備されていた。
亡き父と、母、兄、そして自分の四人が、卓を囲み、夕食を食べている。
「アルテリウスも良い年頃だ。妻を娶り、世継ぎを産ませるべきだろう」
死んでいるはずの父がそう言うと、母は「そうですね」と首肯した。
――なんだって?
「ロレーヌ家のご息女など如何でしょう。容姿端麗で、博学とお聞きしますわ。
歳も今年で二十。家柄も申し分なく――」
母がつらつらと言葉を続けるが、途中から自分の耳には入っていない。
――そんなことは、許されない。
リウィルディアは皿の上に美味しそうに盛り付けられた書物を見下ろした。
結婚など許されない。
兄は僕のものだ。
子なら――が作ればいい。
突然、リウィルディアが椅子から勢いよく立ち上がる。
そのまま配膳されていたナイフを手に取り、かつかつと母、父の方へと近寄り、リウィルディアは二人をナイフで刺した。
悲鳴は一切聞こえず、倒れこんだ二人はそのまま消えた。
そのままリウィルディアは、書物を綺麗に切り分けて口に運ぶアルテリウスの方へと詰め寄った。
純粋と淫靡。
少年と少女。
矛盾するそれらを内包するかのように人間離れしたリウィルディアの美しい相貌が、歪んでいた。
「君の名前は?」
そんなリウィルディアのことなど構いなく、アルテリウスは問うた。
「僕は、リウィルディア」
「リウィルディア」
兄が自分の名を反芻する。
「リウィルディア」
美しい声で反復する。
それだけで、さっきまでの怒りは何処かへと霧散していった。
「もっと、呼んでください」
「何を?」
「僕の名を」
場面が変わる。
目の前で聖堂が燃えている。激しい風が顔を触るが、熱さは全く感じなかった。
焼け落ちる建物を背に、兄が立っていた。
「名とは何か」
アルテリウスは両手を広げ、空を見上げる。
夜空にはあり得ぬほどの大量の星々が煌めいていた。
「名詞の概念を有するのはヒトのみだ。だから、モノの全ては名に集約される」
「僕は、リウィルディアです」
「そう、君はリウィルディア」
「兄さんは――」
「私は――」
無音。
世界から音が消えて、その続きは掻き消される。
兄さんが徐に後退し、燃え盛る聖堂への姿を消していく。
「待って!」
死んでしまう。
そんな身を引裂かれるような恐怖感に僕は手を伸ばすけど、足が全く動かなかった。
兄さんの姿はもうその半分が炎に包まれている。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
火の粉が散華する。
兄さんの笑い声が、その笑い声だけが、世界に残響する。
「私の――」
「兄さん、行かないで!」
「私の名を――」
「兄さん!」
「私の名を、呼びなさい」
場面が変わる。
僕の寝室だった。
其処では僕は、兄さんを組み伏せて、四つん這いになっている。
リウィルディアの紫色の瞳と。
アルテリウスの瞳――それは、連続的に、緑、青、赤、黄と色を変える――が、直線で結ばれる。
互いの吐息すら、鼻に掛かる。
部分的に接触する身体の部位が、熱を持っている。
それは、僕の熱か。
それとも、兄さんの熱か。
――そのどちらともであったら、いいな。
リウィルディアの柔らかな髪が、アルテリウスの頬に掛かる。
「どうして、私を殺したんだい?」
「……え?」
兄さんが優しく言って、僕は視線を下にずらす。
彼のお腹には夕食の時に使っていたナイフが深々と刺さっていて、そこから溢れた赫い血液が溢れ、染みだし、その様子が、とても神秘的だった。
「兄さんを、愛しています」
リウィルディアは、視線をアルテリウスの瞳へと戻すと、不意に口づけをした。
とても優しい口づけ。
十数秒の甘美な永遠が終わると、リウィルディアは、アルテリウスの両手両足に杭が撃ち込まれていることに気が付いた。
たぶん、僕が打った杭だ。
そうに違いない。
これで兄さんは、勝手に動けない。
だから、誰のものにもならない。
結婚なんかしない。
「これで、兄さんは僕のものですね」
兄さんは何も言わない。
「ようやく、貴方を僕のものにすることができました」
頭上から無数の
「嬉しいですか? 痛いですか?」
兄さんは何も言わない。
「嬉しいですよね」
兄さんは何も言わない。
「もし痛くても、我慢してくださいね。それは、僕の
兄さんは何も言わない。
「どこにも行かないでくださいね」
兄さんは何も言わない。
「兄さんは、儚いから――」
兄さんは、にっこりとほほ笑んだ。
そのまま二人は
リウィルディアはアルテリウスへと潜っていく。
二人は混ざり合って一つになり。
やがて、一個の生命と成る。
●
「………………」
異常な量の発汗を自覚しながら目を覚ますと、見慣れた天蓋がリウィルディアの視界に入ってくる。
それが先程までの意識の続きの様で、朦朧とする。
「………………」
ブランケットをめくりパジャマを露わにすると、汗が蒸発を始めて心地よい。
周囲を見渡せば平時の寝室。其処には無限の
ここまで来て、漸く、リウィルディアは先ほどまでの映像が“夢”であったと気が付く。
(――なんて、なんて夢を見てしまったんだ、僕は)
汗ばんだ細い首筋にはりつく銀髪が、なまめかしい。額を拭いながら、リウィルディアには猛然と罪悪感が押し寄せてきた。
いつもは冷静なリウィルディアも、思わず頬を赤らめる。
随分と、刺激的な夢だった。
まだ時刻は夜の三時過ぎ。
リウィルディアは、視線を右手側の壁へと向ける。
その向こうでは、アルテリウスが眠っている。
嫉妬してしまって、ごめんなさい。
殺してしまって、ごめんなさい。
愛してしまって、ごめんなさい。
リウィルディアは夢の中で滅茶苦茶にしてしまった兄に、心の中で謝罪する。
既にもう、夢の内容は七割ほどが忘却されている。
無意識に、唇を左手の人差し指でなぞる。
その感覚だけは、妙に――現実的に、残っていた。
(明日の朝、どんな顔をして兄さんに会えばいいんだろう……)
いっそ全てを忘れてしまえ、と願う自分と。
――その感覚だけは、残っていてほしいと願う自分が、リウィルディアの中に居た。
●
――その少し未来。
リウィルディアは特異運命座標として、空中庭園に召喚され。
そしてその数日後。アルテリウスは、ノルン家から姿を消した。
いつかの時間の、何処かの場所。
銀髪の一人の男が、黑い靄を漂わせ、空を見上げている。
其処には、満天の星空。
記憶は星の様なものだ。
無数にあるのに、日々、失われていく。
男は、右手の人差し指で、唇をなぞる。
――君だけは幸せにしてあげるよ、リウィルディア。