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Face about hapiness seriously.
登場人物一覧
嗚呼、嗚呼! 天に在わす『かみさま』とやら、あなた様へのボクの祈りは終ぞ叶う事が無かった。
襤褸切れ同然の服に、残飯を漁る日々。物音一つ、聴き逃す事が出来ぬものだから、真面に睡る事すら出来なくて。貧民だからと、どうせ死んでも誰も気に留めないと、そんな理由で痛め付けられた事だって散々有って。
長い髪は邪魔だ、嗜虐趣味の奴らが掴み上げるのに丁度良い。飢えて、飢えて、仕方がなくって、苹果を一つ盗んだ時だって、其の所為で捕まったも同然だ。
嗚呼、何て腹立たしい。或る日、ゴミ捨て場に放棄されて居た錆びた鋏はボクの友達だった。ざくざく、髪を切った。切れ味の悪い其れで、少しでも伸びれば神経質に亦、切り上げる程に。鏡も無けりゃ、綺麗に切り整える技量も無い。でも良いのだ、仮に美しかったとて、誰かが褒めてくれる訳でも、手を差し伸べてくれる素敵な王子様なんてのも此処には居やしないもの。
『かみさま』とやらは、屹度。とても無力で、無慈悲で、詰まる所、祈るだけ無意味なんでしょう。
だからボクは、自分の手で運命を、束の間の幸せを、此の人の隣を掴み取ってやったのだ。何れ! 見た事か。
「……ィ、―――ロ、ヒィロ?」
「……ん、嗚呼、少し、寝てたかも」
鼻腔を通り、脳を優しく擽ぐるのは甘い花の香。馥郁としたバス・ルーム、猫脚のバスタブを満たすシャボンと、きらりと光るカランとシャワー。
ふわ、と欠伸をして、漸く意識が覚醒した頃に眼に入ったのは、困惑と云う表情を浮かべた美咲だった。其れも其の筈――。
「寝てた、じゃないわよ、いきなり手を掴んでくるから吃驚したじゃない」
「えへへ、御免なさい。何か……」
――嫌な夢を、見たんだ。
そう溢し乍ら、パッと離した手の温もりは正直名残惜しくも、誤魔化す様に頬を掻いて脣は笑みを象る。心配させない様にそうしたのに、向い合う彼女の貌はすっかり翳ってしまって、何だか申し訳ないな、とは思いつつも。其れが同情から来るものでは無い事は重々承知していたし、共感こそすれど、同調はしないと云うのが暗黙のルールであったから。
「……大丈夫?」
「うん。そろそろ上がろっか、美咲さん。上せちゃうよ!」
「えっ、あ、一寸、ヒィロ」
「……――本当に、大丈夫かしら、あの子」
●
「美咲さん、美咲さん、此れは?」
「其れはヘアオイル、こっちはボディ用」
さらさらと軽めのテクスチャーのオイルは、髪の広がりやうねりを抑えてくれるから、湿気の多い此の時期に丁度良い。柔らかく弱った髪に張りと艶を与えて健やかに。手の熱で蕩けるシアバターは頭から足の爪先まで使える優れ物。
シトラスにベリー、バニラ、ムスク等をミックスしたフルーティでスタイリッシュな心踊る香りのスキンケア用品は、
「相変わらず凝り性だなあ、美咲さんは」
しなやかな肢体を花弁舞うベッドに沈めてきゃらきゃら笑うヒィロも、軀のメンテナンスを行う事に否定的な訳では無く、寧ろ今は楽しみな時間。ふわふわと長い髪に、笑顔が似合う柔肌、女性らしさを垣間見せる肉付きだって。何処を取ってもあの頃の『ボク』には信じられない程で――彼女が『綺麗になったね』と褒めてくれるのだから、如何して嫌いになれようか。
美しさを保つ為の品々を手に入れるのに見合うだけの力も付けた。幾つもの依頼を共に請け負って熟すのには並々ならぬ努力と研鑽を積み、お互いが傍に居る此の世界を受け入れて――そうして、今が在る。
「こら、何時迄もゴロゴロと寝てないの。拭いてあげるから此方においで」
「んー」
ふたりが束の間の羽休めの為に選んだ此の宿は、全てが一等級。バスタオル一枚にしたって下手をすると
「はー、極楽、極楽ですなあ」
極上の心地に惚けていれば、何時の間にか付けられていた愛らしいピンクのヘアターバン。今は尻尾を拭き上げるのに夢中だった彼女は『どんなキャラよ』と苦笑して、其れからサイドテーブルに広げていた中から化粧水のボトルを手渡した。
「えー? どれ位つければ良いの?」
「ひたひたになる位」
「りょーかい。あ、ボク、此の香り好きかもー」
「其れは其れは、お褒めに預かり光栄の至り。待った甲斐があったわね」
「何かこー、美味しそうで……」
「……飲まないでよ?」
「わ、判ってるよ!」
ぴぃん、と立った狐の耳と尾が、実は少し本気で舐めようとした事を物語っている。さて置き、『化粧水のポイントは、肌の奥がひんやりする迄』。そう謳う美咲に従ってぺたぺたと顔の内側から外側へ広げて行く。充分に水分が行き渡ったら、細かい部分にもくまなく付けて、最後に両掌で頬を包み込む様に。
「あら、ふふ。ちゃんと覚えてるんじゃない」
「えへへ、ボクってば偉いでしょう」
くすみのない滑らかで美しい透明感のある肌は、触れれば柔らかく吸い付いて。伸ばされる其の指こそばゆさに頬を緩ませ乍ら『次は?』だなんて訊けば、美咲は頷いて薄い華やかな虹色のパッケージの封を切る。
「今日は徹底的に軀を労ろうと云う事で」
「ええっ……其れ本当にやるの。ボクだけとか嫌だからね?」
「勿論、私もするわよ?」
取り出された其れは、とろりとした美容液に浸ったフェイスマスク。ヒィロが渋った理由、其れは――、
「あはは、ふふっ、ははははは!!」
空気の入らない様にと、隙間なくぴったり貼り付けたヒィロは自分の貌を手鏡で見て笑って。同じ物を付けた美咲を見て亦、笑い転げて。此ればかりは、毎度の事なのだが如何にも己の笑いのツボに入ってしまって仕方が無い。
「此れで10分位ね?」
「10分も!? 耐えられる気がしないよ、笑い過ぎて可笑しくなってしまいそう!」
「そんなに可笑しい? もう、燥がないの! 今日はあくまで『休暇』なんだから」
マスクの下でも判る程に口を尖らせて拗ねて見せる彼女も、釣られて吹き出して、お腹が捩れる程に一頻り笑い合った頃にはお肌もしっとりぷるぷると云う寸法だ。
「あらそうだ、ヘアオイルを付けるのすっかり忘れてたじゃない! ヒィロがそんなに笑うんだもん」
「むっ、ボクの所為? じゃあ今度はボクにやらせてよ、美咲さんの『綺麗』のお手伝いさせて!」
「じゃあお願いしちゃおうかな?」
●
嗚呼、嗚呼――思い出す。産み落とされた時から私に向けられていた好奇と忌避の眼差しを。
傑作だと謳われた陰陽七色を宿す虹彩、膨大な魔力の詰まった此の双眸。力が暴走する事を恐れて、様々なものから遠ざけられた。
子供に相応しいぬいぐるみも、愛らしい洋服も。与えては貰えなかった。成長して、美容に興味を持つ年頃になったって、買い求める事も、粧しこむ事も叶わなかった。贅沢な悩みだとは判っては居たけれど、不満は山程有った。何時だって、何時だって、何時だって! 重たい足枷が邪魔をした。どうせ、私に目を向ける相手なんてそうは居ないと云う諦観だけが自分に寄り添っていた。
だから、此の世に召喚された時。心の底から、晴々したのだ。時を同じくして出逢った
「……――ね、美咲さんも髪。伸びたよねえ」
「そう、ね。余裕が出来たから。貴女は、短い時の私と今の私、何方が好き?」
「えーっ! そんな事訊いたら、ボクが困ってしまうのを知っている癖に! 答えは、決まってるじゃん。『何方でも』!」
――けれど、『美咲さん自身が好きと思える選択肢の方が、より好きだよ』。
今でも臆病な訳では無いが、人付き合いは多い方では無い。けれど、こうやって実の姉の様に――若しくは其れ以上の感情を向けて慕ってくれる存在を得た今と為っては、元の世界に戻る事なんてとんでも無いと。只、只。此の優しさに、慕情に、献身に――付け入って仕舞わない様に己を戒めるのには随分と根が要るけれど。
ヒィロの掌で温められたオイルが、幽かにわたあめの様に香って髪の上を滑る。『じゃあ、此れからの私をもっと好きになって』だなんて言葉は呑み下して、曖昧に笑った。
理想の自分へと向かう為。或いは、今と云う日々が幸福である証明として。私達は、此れからも髪を伸ばすのだ。
「あ、枝毛みっけ」
「嘘ッ! 何処!?」
●
「ん、美咲さん、何か付けた?」
「判る? 此れ、ね。試供品だって、お店の人が一緒に入れてくれたから」
さくさくのマカロン生地に、フランボワーズソースの甘酸っぱさを加えたかの様な香水のテスター。
自分には到底似合わないと思いつつも、好意を無下にする事が出来なくて。完熟したラズベリーとオレンジの濃厚な甘さも、ころりと可愛らしく繊細なピンクの小瓶も。無邪気な乙女の様で落ち着かないのだと、眉尻を下げて笑って振り返れば、不意打ちで迫り来る獣――狐が一匹。
かぷりと堅くて生暖かい感触を首筋に受け、其の擽ったさと悩ましさには余計眉が下がる思いで。
「何をしているの」
「みはきしゃんが、おいひほうで」
「だからって何も、齧る事も無いじゃない……」
精一杯の抗議を続けようとした所で、くうくうと間抜けな音がヒィロの腹から鳴って。堪らず、お腹を抑えた事に依って甘噛みから開放された美咲が溢したのは、深い深い溜息だった。
「……つまり?」
「えへへ、ごめんごめん美咲さん。ボク、お腹が空いちゃった! 何か作ってよ、いーっぱい買ったもんね!」
悪戯めいた少女が舌を出す様な、爽やかで居てチャーミングな香りに後ろ髪を引かれる思いで。然れど足取りは軽くキッチンカウンターへと。材料を吟味している内に並び立って居た美咲は相変わらず『美味しそう』であって。
「ね、ボクは其の香水、似合ってると思うよ」
「食べてしまいたい程?」
「うん、って。そうじゃない、こう。華やか、魅力的? みたいな」
「……そう? じゃあ今度、お店に立ち寄ったら買おうかしら」
すん、と手首を鼻にやればミドルタイムはローズとジャスミンの落ち着いたものへと変貌を遂げつつあって、此れなら食事時でも邪魔をしないだろう――食材は、何れも此れも質の良い物ばかり。手に取ったのはブロックベーコンと、野菜を幾つか。
「卵を溶いておいて貰える?」
「うん、何を作るの?」
「キッシュと、サラダと……程々に拘って、アクアパッツァとか如何」
「良いね! じゃあボク、サラダの方作っておくよ」
「ありがと、助かるわ」
ベーコンと玉ねぎは薄切り、ぷっくり太ったアスパラガスはさっと塩茹でして。彩りも欲しいから艶やかな黄色と赤のパプリカを。全てをフライパンで軽く炒めたらパイ生地の準備。伸ばした其れを型に敷き詰めて、卵液と生クリームを混ぜた物を流し込めば其処は黄金の泉。先程の材料を沈めて、オーブンへ。
「後は楽しみに待ちましょう、っと……」
「焼き上がりのふわふわのままで食べたいなあ!」
「はいはい、荒熱が取れたら直ぐに頂きましょうね」
下処理を済ませた状態の大きな白身魚には塩と胡椒を強めに。ガーリックの香りを移した上質なオリーブオイルで両面を焼き色がつく迄しっかり焼き上げたら、貝とドライトマト、オリーブの実の上から水を振り掛け蓋をして煮込み時間。
其の手際の良さ、無駄の無い動きにほう、と隠す事なく見惚れるヒィロの視線を浴びて、気恥ずかしくも誇らしくある美咲ははにかんで見せる。こんな、他人から見たらごく当たり前の様な平穏が享受出来る幸せな時間を思えば、様々な仕事で身を危険に晒すのだってお安い御用と云うものだ。
何時だって、彼女の元へ帰って来たい。歳を取って、ふたり、皺皺のおばあちゃんになったって、こんな風に、並び立って居たい。
そんな事を云ったら屹度、此の子はえらく舞い上がって忙しなくなるだろうから――、
まだ、今は内緒。此の思いは、そう。何時か、然るべき時が訪れたなら打ち明けようと思う。
「そろそろ良いかしら」
「わぁっ!」
蓋を開ければ、立ち曇る湯気と食欲を唆る魚介の香り。思わず綻ぶ顔を見合わせて、其処から先は共同作業。熱気に当てられてほろほろと骨抜きになった具材達を、スープを残して皿に盛り付けると云う重大な任務。
緊張の一瞬。
「ふふん、どうですかボクのアシストは!」
「お陰様で。後は此れを少し煮詰めてっと。ちょっと味見してみて貰える?」
「んん、塩っ気がもう少し欲しいかも」
「同意見ね」
そして、火を止めてパセリを入れ、スープも皿に装った頃には、オーブンの中のキッシュも良い塩梅。慎重に型から抜いて、切り分けたら――。
「さーて、お待たせ。ご飯にしましょっか」
「待ってました、こっち、お皿とか準備出来てるよー!」
●
ゆらり、ゆらり、メトロノームの様に、一定のリズムを保って毛艶の良い、ふさふさの尻尾が揺れる。
「はー、もうお腹いっぱい! 狡い、狡いよ! 〆にパスタもあるなんて!」
もうお腹がはち切れそうだ、とベッドに転がったヒィロは満足気。少し、行儀が悪いけれど、幸せそうな其れを咎める者は今は居ない。美咲も皿洗いを後に回して。『少しだけ』なんて、仲良く広々としたベッドでごろ寝の真っ最中で。
「そんな事云って、デザートだって食べた癖に」
「ううん、本当のデザートは未だだよ」
「どう云う事?」
ちっちっち。舌を鳴らしながら『判ってないなあ』としたり顔をするのを見て、首を傾げる美咲に。ヒィロは食後のリップケアをしたばかりのぽってり柔らかな脣を釣り上げて、両腕を差し伸べる。
「ねぇ、さっきの香水。もう一回付けてよ――それで、それで。ギュっとさせて欲しいんだ」
「また齧る心算じゃあないでしょうね?」
「保証は出来ないかなあ…… ふふ、だから許可を取ってるの。駄目?」
「……全く、此の子は。しょうがないわね」
甘きに溺れる前のラストノートは色気の漂う苦味を内包した、スモーキーなウッディとバニラ。
――色気より、食い気。衣摺れと共に噎せる程に胸を満たす果実を口に含めば、舌が、頭が痺れる甘美な味わい。蕩けて行く、花瞼。緩む、頬には朱が差して。
寄り掛かりたくなるのも、抱きしめられたくなるのも、全ては屹度。
甘え上手な此の香りがそうさせるに違い無かった。