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ゆびきり
登場人物一覧
夕刻。窓の外で、藍色の闇が陽を追い立ててゆく。
部屋の中には、手を游がせれば重々しく感触を返すような、湿気た空気が蟠っていた。じきに来る夏を思わせる、雨月の終わりの時分のことだ。
「ああ、その三番の
「了解、一番から三番までを結合解除。出力は切って下さっていますか、ヴィクトールさま」
「ええ。万一にも傷ついて欲しくはありませんから」
「ふふ」
濡れた空気の中で、酷く近くで重なる二つの聲があった。低く落ち着いた男の声と、囀る小鳥のような女の声だ
男は上半身を剥き出しにしてベッドにあぐらをかき――大柄な彼の脚の間にすっぽりと収まるように、女が座っている。一枚の絵画のようにさえ見える構図。しかし、それは愛を育む為の距離ではなく、ただ男の機能を維持するべく行われる、
外れた部品が、女の細い指に手繰られて、サイドテーブルに並べ上げられる。
男は目に掛かる髪を、自由な左手でぎこちなく払った。長身痩躯。緑青に錆びたような風合いの四肢を持つ、長髪の男だ。四肢が根本からくっきりと機械化されたその男は、『黒鉄波濤』ヴィクトール=エルステッド=アラステア(p3p007791)という。彼の視線は、パズルのピースめいてサイドテーブルに並べ立てられた
小機関の状況を確認し、ヴィクトールが呟く。
「……三番がかなり損耗していますね。交換をお願いします。分解を進めてください」
「はい。……嗚呼、こんなに襤褸襤褸になるまで戦ったんですね。あなたさまは」
白い骨格の透けた、青い水晶めいた華奢な義手が、歪み磨り減った小機関を手に取り、ランプの明かりに透かす。ダイクロイックアイを瞬いて、女――『L'Oiseau bleu』散々・未散(p3p008200)は小機関の代替品を取り出して、サイドテーブルのあるべき場所に並べる。
「それは、チル様も同じ事でしょう。――あの海での戦いで傷付かなかった者などいないはずです」
「ぼくがしているのは、その大小の話ですよ」
ヴィクトールの言葉を、未散はさらりと混ぜ返した。あの
「……確かに、浅くはない傷を負いましたが」
「それは、特別なことではないと仰る?」
「ええ。護ることこそ、ボクの在る意義ですから」
出来ることなら、積極的な戦いはしたくない。けれど、誰も傷つけたくはない。
ただ飛び襲い来る火の粉から、あらゆる友を、隣人を、その魔鋼の四肢で護りたい――そう言って止まない男だ。
頑固なひとだ、と思う。未散は「もう、」と呆れたように、しかし好意的に笑うと、未散は再び工具を両手に携え、愛おしむように男の腕に触れた。指示の通りに分解を進めていく。傷を付けないように、壊さないように。ただ正確に。
そこに恋情はなく、愛はなく、慕情はなく――ただ、悼みと慈しみ、そして興味だけがある。
「
「ええ、お願いします。あとは、各所に
「任されました」
工具と金属の擦れる音が、室内の重い空気をささやかに揺らす。
部品の抜去、駆動部の清掃および脱脂・点検、支障あれば交換。
決して単純な構造ではない彼の腕の中のことを、ともすれば未散は、自分の正体や起源よりもよほど確かに知っている。蒼の義手は、螺子を抓むことは出来ても、魂には触れられない。
両腕のオーバーホールを終える頃には、外から陽はもう射さず、とっぷりと暮れた藍空に星が瞬いていた。
未散は一息つき、サイドテーブルに工具をことりと置く。
「――、痛みませんか。ヴィクトールさま」
さらり、髪を揺らし、未散は身体を後ろに傾けた。ヴィクトールの胸に頭を預けるようにして、肩越しに義手の指を滑らせる。
傷跡に、触れる。慈しむように這う、熱の通わぬ指先に、ヴィクトールが僅かに身じろぎをする。
「もう塞がりましたからね。痕もなくとはいきませんでしたが――……覚えておいででしたか」
「それはもう」
ヴィクトールの躰には無数の傷跡があった。その中でも未散がなぞるのは古傷ではなく、滅海竜リヴァイアサン――そしてそれを護るミロワールと激しく戦ったあの海戦の折、攻撃する未散を庇い、護る度にヴィクトールに刻まれた、未だ新しい傷の跡だ。
もう血が滲むことなどなくても、盛り上がり引き攣った肉の隆起は、あの日の痛みを思い返させるほどに生々しくそこにあった。
「此れは、ぼくを守って付いた傷で御座いましょう? 沢山あったって、間違えや致しませんよ」
「……良く覚えておいでで。ええ、その通りです。こうやって刻まれた疵もいつか『覚えのない傷』になってしまうかもしれませんが――」
ヴィクトールは僅かに顎を引く。胸先、顎を反らして見上げえてくる未散のダイクロイックアイを覗き込む。
「少なくとも今は、深く、刻まれて忘れませんよ」
「……ねえ、じゃあ。たとえばぼくが死んだら、あなたさまは忘れて下さいますか」
未散の瞳が、ひたりとヴィクトールの目を見つめた。ヴィクトールの凪いだ目が、僅かに揺れる。
ヴィクトールは束の間、息を止めた。
――反転。静観の姿。傷を負ってでも他者を護ろうとする自分の、かつての――本来の姿。何もかも忘れてしまえば、そこに戻れるのだろうか。もしそうならそれは楽だ。見捨てることに痛痒はなく、あらゆる悲劇を看過できる。これ以上磨り減ることも、傷付くことも。壊れた腕を開くことも、きっとなくなることだろう。
――ああけれど、それは。
全てをなかったことにするのは、余りにも寂しい。
寂しいと言えるほどに、歩いてしまった。この混沌の地を。
「まるで其れは、呪いでしょうか。チル様を護ったことも、チル様のことも、忘れる、などというのは」
目を細めるヴィクトールの胸に頭を凭れたまま、未散は唇の端をゆるゆると上げた。
「呪いに他なりませんとも。だって――……こんなに、こんなに沢山の傷、あなたさまに刻まれた傷と痛みの履歴の全て、」
未散はヴィクトールの胸に、義手の爪を、蒼水晶の爪を立てる。痛みも残さぬほど密やかに。
「此れ自体が、ヴィクトールさまが呪い潰された跡でしょうに。――だからぼくは祈らずにはいられません。いつかあなたさまが呪いの重さに潰れてしまわないようにと」
だからぼくは、その呪いを呪うのです。
いつかぼくが思い出になったとき、あなたさまに鎖をかけてしまわぬように。
未散は手を伸ばし、ヴィクトールの魔鋼腕を抱き寄せた。ひやりとする金属板の感覚を、布地越しに膚に感じて目を閉じる。
かたや、ツギハギだらけの身体に、寄せ集めの魂持つ
かたや、千年を超える悠久を生きた
ただの人と言うには歪すぎ、けれど温もりなき無機物と言うには、ふれあう熱はあまりに暖かすぎる。
――嗚呼、
ヴィクトールの唇から音とも言えぬほど微かに、息が漏れた。
男は施術前よりも遙かに滑らかになった動作で、抱き寄せられた腕を動かし、未散の躰を抱いた。冷たい鋼の腕と、傷跡残る胸板で未散を挟み、抱き竦める。
慕情はなく、恋情もなく。
けれどそれでも、過去を失くした同士への親愛と慈愛がそうさせる。
重く湿った空気の中、沈黙していたのはどれほどのことか。静まりかえった部屋の中、次に静寂を破ったのはヴィクトールが先だった。
「……忘れませんよ。チル様の優しい呪いを返すようで、心苦しくはありますが。……潰れません。こうして腕を、脚を、開いて触れてくれる貴女がいる。もしこうして、中の何かが壊れても、」
ヴィクトールは両腕から抜去された、幾つもの部品を横目にした。すり減り、或いは拉げ、用を成さなくなった部品たち。誰かの傷を肩代わりした、その証。
「幾度でも取り替えて行けばいい。貴女がそうしてくれるのなら、きっと何度でも立ち上がれます。もう誰も傷つけたくはないんです。ボクは」
「……ずるい言い方をされるのですね」
未散はすねたように言って、顎を逸らした。首を一周する切断痕が、ランプの明かりの中でかすか引き攣れる。
「誰にも傷ついて欲しくないというのに、あなたさまは、きっとご自身のことを勘定に入れていらっしゃらない――それがわたしは、……ぼくは、とても寂しい」
乱れる未散の一人称に、ヴィクトールは目を閉じて、清かな月光めいた、彼女の髪を梳いた。
――そう、ボクが殺したいのは自分だけ。それは変えられない。けれど、
「それは、すみません。……でも、チル様、代わりに一つ約束をしましょう」
ヴィクトールは目を開け、未散の瞳を覗き込みながら、言葉を選んで囁いた。
「確かにボクは、これから幾度も傷つくかも知れません。けれどチル様のそばで斃れることはない。約束します。――だから、寂しそうな顔をなさらないで下さい」
子供をあやす父親のような、低くゆっくりとした語調に、寂しげな未散の瞳が少しだけ細まる。
口約束だ。あの海洋での戦いのような恐ろしい争いがあれば、必ずしも果たせるような約束ではあるまい。絶対など無いのだ。人は――否、鉄騎であれ、葬送者であれ、致命の一打に穿たれれば死ぬ。いかに強くても。いかに、真っ直ぐな意思を秘めていても。
けれど、
「――信じましたからね。ぼくに――確かな背中を、見せ続けてくださいませ」
「ええ」
それでも、信じたいと思う言葉がある。信じていれば叶うと盲信出来るような、夢見る少女でいられなくとも。この愚直で、真っ直ぐで、誰かを守るために自分を擲てるような彼が、自分にくれた約束を、心に刻んで置きたいと思う。
すう、と、未散は右手の小指を立てて持ち上げた。一瞬面食らうヴィクトールだったが、すぐにその意図を察して、彼もまた小指を伸ばした。
いつから、どこに伝わる願掛けだったか。この世界のものか、はたまた別の世界のものか。
どちらでも構わない。取るに足らない、互いの小指を絡めて約束を交わす児戯めいた儀式。
「約束ですよ」
「はい」
その