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ふくれ者
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その光景は小さな頷きから始まった。おれが如何しても『手伝い』たかったから、集る夜鷹が闇に羽搏いたに違いない。乱々と踊り狂う現実は危機を知っても止まる事を知らず、痴れた物の面を眺めていた。深々と墜ちていく真っ黒な四肢が、儚くも美しい人間に視えたのだ。病的だと誰かが言ったとしても、きっと彼女は幸せに満ちていた。ねえ。※※※。助けてくれて有難う。囁きは無音に絶えていたが、仕方なくとも微笑んでいる――おれはその日。太陽が空気を歪ませ、揺らいでいたあの日。彼女が倒れているのを観ていたのだ。熱に中てられた彼女は顔色も悪い様子で、肩を叩いても反応が悪い。適切な処置を行った後に『安静』にせねば成らない。最悪の場合天使の翼と激突するのだろう。悪魔じみた太陽が笑っている。嗚呼。夏だ。夏だとおれは感じたのだ。蒼色に羽搏けば世界は喜ばしく映る筈だが……想像と妄想の内側で戯れるのはやめて、時間は既に夕を指していた。むくり。眩んだのか彼女は横たわった状態で『いった』。私を助けてください――いいよ。構わない。二つ返事の脳味噌がおれには備わっているのだ。言葉は上手くないけれど、その感情は大好きだと証明出来る。ふふんと笑った曖昧が、再び暗幕に落ちてから……数時間? 兎に角。回復した彼女の願い事を訊いてみた。何でも『絵を描きたい』らしい。自分が満足のいく『絵』だ。しかし塗料と筆は何処に在るのだろう。彼女の貌は驚きと焦りで混ざっていた。嗚呼。彼女はどうやら『忘れていた』と言う。慌てて走り出したのだが、また倒れたら困るだろう。今日は『貸して』あげようか。じゃあ。お願いします。もぎもぎ、むしり。柔らかで真白な筆は如何か――彼女は溜息を吐いて告げた。あなた、いつか手伝いに殺されるわよ。そういえば彼女は誰だろうか。全く。おれには関係のない事柄だ。ありふれていない依頼が舞い降りた。それだけで『彼女』は充分だろう。塗料は何が素敵かって? あなたのものに決まっているじゃない。成程。それは喜ばしい提案だ。嘘は吐いていない。でも血液は提供出来ない。代わりに如何だろうか。おれの引き出しから真っ黒だけを使うのは。子守歌を綴るだけならば『それ』単体でも頼もしい。描く為の紙は持っているんだよ。地べたに広げた夢の味わいが、雪のようにのびている。
彼女の筆の扱いは、想った以上に酷いものだ。握り方も曖昧ではねたインクが頬を染めている。微動もしないおれの貌がズレているようだ。口遊むとしても『ぴくり』だって赦されない。これでは手伝いではなくお客様だ。そろそろ歌っても好いか訊いてみる。ダメ。ダメなのよ。あなたは座っているだけで空を飛べる――無理難題を押し付ける彼女だ。だから彼女って誰なのだろう。気にすればするほどに思考が詩を手繰っている――如何やら彼女が諦めたようだ。おれの音が『そら』に届いている。すらり。すらりすらり。先程までの拙さが嘘のように消えていく。彼女の脳髄が活性化されたのか。元々から彼女は才能を持っていたのか。おれの姿形が瞬く間に描かれて……それが出来るのに一時間も掛からなかった。おれが言うのも何だが『素晴らしい』出来だろう。あなた、そうでしょう。あなたが『うた』ってくれたオカゲね。籠の鳥には『こんな』事しか成せないのだ。それでも『渡り鳥』を上手く描けていた。そこで『ふと』思い出す。本当におれを探していたのか。なぜ倒れていたのか。そもそもあの日は【雨だった】気がする――そりゃ。あなたが雨だと思ったから、晴れたのでしょう。無茶苦茶な台詞が飛び出した。
飛び出したのだ――おれが言葉を発せずに俯いていた一瞬。【音が外れていた】のは偶然ではない。最早『再会』する事など不可能で、不可避の別れが起きてしまった。彼女。嗚呼。彼女は笑顔の儘『死んでいた』のか。こんな手伝いを受けるなんて、怖ろしい事を『してくれた』ね。何せ美しい。美し過ぎた。
――あなたは増幅させ『過ぎた』のだ。
――あなたはうたい『過ぎた』のだ。
そんな力に縋らなければ描けなかった私。おれの力に地獄を得た彼女。そうとも此れは最初から最後まで『光景』を視る為の。死を『思い出す』為のうた。ねえ。あなたの力じゃないの。私が掴んだ希望だったの――幸せだった彼女の面は、全く知らない人間だった。それで。おれは何を抱けば良かったのか。道端に転がっている石ころに『何が出来た』のか。腸を刳り貫かれた物体を、早く掃除しなければ成らない――鼻歌が聞こえる。歌声が聞こえる。膨らませた『思い込み』には無敵と成り得る幻想が在るのだ。だから痴れた面だと説いている。闇が観えた。向こう側では夜鷹が狂っている――這入り込んだ琥珀は誰にとっての救済なのか。おやすみ。日常を吐いてみたらお隣には美人さん。知っているだろう。おれの近くには『この子』の方――なぁう。なぁう。なぁご。