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Let's dance. On the piano wire
登場人物一覧
《幻想東部の本日の天気予報です。午前中いっぱい晴れ。しかし午後から雲が多く、夜通し雨でしょう。この雨は明日の朝まで続きます》
自由図書館、その一室。
幾つかの本と漆黒のロングローブが広がる寝床から脚が伸びる。
這い起きた青年、赤羽・大地(p3p004151)は付けっぱなしだったラジオのボタンを押して電源を切る。
耐熱バットの上に食パンと生卵を乗せてトースターで焼く。その間に洗顔して簡単に身支度を済ます。
少し焼き過ぎたパンと目玉焼き、冷蔵庫にあった紙パックのカフェオレで朝食を完成させる。
目の前に小型の木製イーゼルを開いて、読みかけの本を開く。
依頼帰りの雑貨屋で見つけて、これは便利だと購入してきたものだった。
午前中いっぱいは本を読んで過ごそう。きっと午後からは『俺』じゃない。
そんなことを頭の片隅で考えながら、ページを捲る。
天気予報より少し早く雲が厚く立ち込め、じんわり首の傷痕が熱を持った気がして落ち着かない。
震える指で本を閉じて枕元に置いて、そのまま身体を寝床に預ける。
静かに雨が降りだしたようで初めて彼女――、Vorpal Bunnyと呼ばれた少女と出逢った日を否応なく思い出してしまう。
梅雨時の放課後、降りしきる雨に混じる鉄臭い匂いとストロベリーの香り。
楽しそうな笑い顔に変わった色の三つ編み。刃物が擦れる音。
緩やかに浅く早くなる呼吸、上げ下げする瞼に横切る真っ赤な大鋏。
(彼女の声はもう……、覚えてないのに)
首の痛みがじくじくと増して、刺すような痛みに変わりはじめる。
傷が開いてきたんじゃないかと、そんなことはないのに、そう錯覚するほどの痛み。
もう正気を保ってられそうもない。視界が弾ける光が見え隠れする。
この痛みを放って置けば、内側からバケモノに喰われるような不快なものと成り果てよう。
それに合わせて己の肉体が表側から爪を立ててみたくなる。
それは危険信号。呆気ないくらい血を垂れ流し、余計な痛みと傷を増やそう。
肉体が暴れるその刹那、細い細いピアノ線の上で喚ぶべき名を『叫ぶように』吐く。
「――、」
か細い息に乗せた音は、多湿の空気に吸収されていった。
荒々しい呼気を撒き散らし、ガクガクと震える肉体が己を掻き抱いては失敗して細かい傷を増やす。
地を唸う声帯は無意味な音を不規則に出しては喉を絞る。
しかし急に、電池が切れたブリキ人形みたいに動きが止まる。
僅かな静寂を挟んで、汚れた指先が二の腕から一本、また一本と剥がれる。
仰向けに転がり直す顔は、
ひどく退屈そうな顔をして乱れた呼吸を整える。それが収まれば、ゆっくり立ち上がって冷蔵庫に向かう。
ペットボトルの水を大きな一口で噛むように飲み干すと、ラジオのボタンを押して付ける。
相変わらず首の傷痕が痛むが、赤羽には問題はない。
なんせ肉体の保有者ではないからだ。
実体なき同居人にして仮初めの悪魔、それが赤羽の正体。
首切り兎に刈り取られた時、何とか魂と意識は大地の中に封じ込めたが自分の肉体は滅んだ。
それを深く重く理解しているから、雨の日は大人しく大地の言うことを聞く。
この肉体がなければ、とっくの昔に消滅していた命だから。
たとえ不格好で不自然でも、特別に感情があるわけでもないけれど、これで良いと思っている。
(大地ダって、俺様が居なきゃ死んでたんだロウ?)
大地とて、赤羽という存在がなければここまで強くなれなかった。
いつだって前を向く勇気があるのは。
どんなことがあっても、顔をあげられたのは。
同じ肉体と命運という細い線の上で立ってくれた赤羽があってのこと。
だから大地は出ていけと言わない。
だから赤羽も出ていってやると言わない。
喧嘩なんて勿体ない。それよりもワガママに有意義に生きる。
なによりも、もっと。強くなりたい。共に。
あの日、あの時の夕焼け空を覚えている。
怖いくらいの綺麗なオレンジ、その空間に垂れた赤の鮮烈さ。
天と地が一回転して交じらない瞬間。
――美しい。場違いにもそう思ったことを今も後悔している。
いつの日には、越えられるだろうか。
あの夕暮れと、この傷痕の痛みを。
いつかの日が、訪れるのだろうか。
この静かな本の虫と、この騒がしくて大風呂敷の悪魔が。
悔恨と命運と利害を飛び越えて、別々に生きる時が。
あったら良い。なくても良い。好きでも嫌いでもないから。
今はまだ、『いつか』は欲しくない。
今はただ、雨音をBGMにラジオのコメンテーターが話す馬鹿な話に相槌を打つ。
雨があがる、明日の朝まで。待つだけ。