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手から零れ落ちたもの
登場人物一覧
──灰色に染まった埃っぽい雲が、空を覆う日だった。
リゲルは駿馬を前へ前へと走らせながら、先の事を思い浮かべていた。
サウレという少年は、騎士を目指しす孤児の少年だった。
幼いジーナという妹と共に、この天義の街で懸命に生き抜いていた。
ある事をきっかけにリゲルと出会い、折を見て剣の稽古を付けてあげていた仲だ。
今朝。妹のジーナがリゲルの家に飛び込み、顛末をたどたどしく話した。兄のサウレが高熱を出して倒れたと。
リゲルはすぐさま医者を連れ、サウレの家に来たのだが──。
「流行り病?」
「ええ。成人なら自然治癒も期待できるのですが、子どもの体力は大人と違いますからな。もしかすると命に関わるやも」
「そんな! どうにかならないのですか!?」
「今やどの病院もこの病の患者で一杯。治療薬も高騰していて、幼いこの子達ではとても支払える額では。いや、そもそも薬自体手に入りますまい」
そう淡々と話す高齢の医者。
歯噛みするリゲルが、ベッドに横になるサウレの方に目をやる。
苦し気に胸を上下させ、ひゅうひゅうと息を漏らしている。傍に寄り添うジーナがしっかとその手を握ってあげていた。
「薬の材料になる、とある薬草が手に入ればあるいは……」
医者の言葉は、僅かながらの希望を指し示した。
「聞いた事があります。満月の夜に咲く万病に効く薬草の事を」
「お詳しいですな。しかし、今宵は下弦の月──満月の光を浴びぬ薬草は効能が薄まるとか」
医者が灰色の空を眺め、黒いハットを静かに被りなおす。
「……でも、多少なりとも効果がある、と」
曖昧に頷く医者。
そこに幼い少女、ジーナが必死な表情で、リゲルのズボンにしがみついた。
「おねがいします、リゲルおにいさん……サウレにいちゃんを、たすけてください」
不安げな表情だ。少女の頭を優しくなでてあげて、リゲルは笑顔を作った。
「大丈夫。サウレはきっと、助けて見せる」
「ほんとうに……?」
「ああ、任せて。ジーナは、サウレの事をよく見ていて」
「うん!」
ぱたぱたとベッドのもとへ戻る少女を見やって、すぐに医者の方に向きなおす。
「行くのですな。はっきり言って、分の悪い賭けですぞ」
「構いません。例え僅かでも希望があるのなら、俺はそれを信じたい」
「……分かりました。私も全力を尽くすとしましょう」
「恩に着ます」
言葉少なに頭を下げ、リゲルはすぐさま旅支度を整え、街を出た。
休まずに馬を走らせて四時間。
魔物の襲撃をいなしながら、山奥の中をナイフ片手に繁茂した雑草を薙ぎ払いながら進む。
額の汗を拭う事も忘れ、左手の中の薬草図鑑に目を走らせる。
「これか!」
黄ばんでしなびている薬草は、それでもリゲルにとっては希望のひとかけら。
急いで摘み取り、背嚢に大事にしまい込む。
「急がなくては……!」
山を駆け下り、不休で馬を走らせるリゲル。
幾ばくか時が経ち──開けた谷のような場所で、三つの馬車が止まっているのを遠目で見つける。
休憩を取っているキャラバンのようには見えない。あまりにも乱雑な止まり方だ。
「これは……」
魔物の大群に襲われたキャラバンが足止めされているのだ。
風に乗って咽るような血の臭いが鼻についた。黒い影が見える。雇われた傭兵の死体だろうか。
首都から遠く離れた村にキャラバンは重要なものだ。物流も滞る可能性も。
「くっ」
悩むリゲルが取った行動は──。
馬の手綱を太木に巻き、リゲルは走る。
「大丈夫ですか!」
十人ほどの傭兵たちが、得物を片手に馬車を囲んで守るように陣形を組んでいた。
思っていた以上に状況は芳しくない。
狼のような魔物に囲まれている。ざっと見るだけでも、五十匹以上。
「ああ、お助け下さい! どうか、どうか!」
固まって震える商人たちが、リゲルにそう懇願した。
剣を抜き、中心に躍り出る。
「貴方達は馬車の中へ避難を! まだ戦えそうな方は同行してください!」
「誰だか知らねえが、助かる! やれるな、お前ら!?」
「応っ!!」
傷だらけの傭兵たちが一斉に声を上げる。
そこからは必死に戦った。しなやかな銀の髪が魔物の汚い血でべったりと汚れようと、その爪牙で肌を裂かれようと、ひたすらに剣を振るい続けた。
焦りがそのまま剣筋に現れた。だが自身がいくら傷つこうと、リゲルの剣は止まらなかった。
刻一刻と陽が傾いて、月が薄っすらと顔を出す頃、ようやく全ての魔物を追い払うことが出来た。
十人ほどいた傭兵も、たった三人しか生き残って居ない。
「すみません。俺にもっと、力があれば」
彼らの亡骸を前に、リゲルは膝をついて静かに目を伏せた。
「いや。あんたが居なかったら俺らもキャラバンも全滅していただろうよ」
「まったくその通り。騎士様、本当にありがとうございます。貧しい村に、食べ物や新鮮な水を届ける事が出来ます」
頭を下げる傭兵と商人に、リゲルは薄い笑みを返す事しか出来なかった。
礼もそこそこに、リゲルはすぐさま馬に飛び乗った。
もう、一刻の猶予も無い。半月が照らす夜道を走り抜ける。
サウレの家に着いた頃には、もうすっかり夜のとばりは降りていた。
飛び込むように家のドアを開ける。
眠るサウレの顔には血の気が一切ない。真っ白い肌。
まるで、死──。
「……まさか!」
リゲルの手から、薬草の束が滑り落ちる。
ベッドの脇にはジーナが縋り付き、シーツを握りしめている。
咄嗟に駆け寄るリゲル。しかし医者がそれを静止した。
「残念ですが」
振り向くリゲル。焦燥した顔つきの彼に、医者はゆっくり首を振った。
「彼が息を引き取ったのは、ほんの数刻前でした」
「そんな──」
「この少年も生きようと必死に頑張った。私も精一杯やりましたし、卿も彼を救おうと努力した。誰も悪くありませぬ」
──あまり気を病まぬよう。
帰り支度を整えた医者が、うなだれるリゲルにそれだけ言い残して出て行った。
「……ジーナ」
ようやく吐いた言葉は己でも驚くほどにかすれていて、目の前の少女に届いたかも分からない。
「……すまない」
零した謝罪の言葉を聞いて、ジーナは顔を上げた。
振り向いた少女は、涙と怒りと絶望、すべてをリゲルに叫びでぶつけた。
「嘘つきっ!!!」
リゲルの横をすり抜けて走り去るジーナ。後を追おうとするも、小さな背中はもう見えない。
あの少女に会う事はもう二度と無いと、リゲルは予感する。
リゲルはいつだって最善の為に動いていたつもりだった。
彼らの命も大事だった。サウレもジーナも大切だった。
でも、あの時彼らを見捨てれば、もしかしたら──。
そんな後悔を抱く自分と、それを強く否定する自分。
医者の言う通りなのだろう。これは誰のせいでもない。どうする事も出来ない運命と理不尽は、人生の中には必ずある。
それでも──。
以前、誰かに言われた事を思い出す。
『己が守れるものは両手で抱えられるものだけである。本当に大事なものを守りたければ、その両手いっぱいに抱えるものを選んで捨てろ』と。
あの時。命と命を天秤に掛け、中途半端に二兎を追う事を選んだリゲルの甘さを、きっとその人は気付いていた。
悔し涙で、滲む視界。
「助けてあげられなくて、すまない……」
ベッドに眠る、もう二度と目を覚まさない少年を見下ろして。
彼の眩しい笑顔が脳裏に浮かんだとき、無力な自分の両手から何かが零れ落ちたような音がした。