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鍛錬と想い
登場人物一覧
朝、鳥たちがまだうっすらと夢見ている頃合い。その音は、静かな野営地よりも、より遠く、より深い森の中から聞こえてくる。
音は耳を澄まさないと聞こえないほど微かなもの。森の大地を蛇が音をもなく這うように、風牙は足を動かす。目は静かに閉じられ、刀は鞘に収め、ゆっくりと腹式呼吸を繰り返しながら自分の重心が絶えずどこにあるかを確認する。腰を低くして足を前後左右に動かす姿は、派手な動作を一切排除した舞のよう。つい昨晩、師匠から教わったショウギというボードゲームで連敗を喫して、半べそをかいていた者とはとても思えない静寂さを湛えている。
風が新緑の木々を揺らす音、草木の濡れた匂い、足が地面を擦る音だけが場を支配している。風牙はゆっくりと腰を捻って右脚をあげる。ハイキックへの構えだがこの時、重心が丹田に来るように注意を払う。腰が後ろに引けてしまっていては蹴りに力が入らない。かといって、足に重心を乗せるとそのまま倒れ込んでしまう。重要なのは腰の捻りを戻す動作で蹴りを繰り出すこと。力はヒットの一瞬だけに全霊を載せ、そのために身を捻り”溜め”を作る。静止。自分の足の重みに耐えかねて、汗が額から滴るのを感じる。
足先に青い幼鳥が止まった。この春に巣立ったのだろうか、警戒する様子もなく毛繕いを始める。風牙は動物に好かれるたちだ。彼らは風牙が自分たちに害をなさないと理解している。鍛錬中だというのについ微笑んでしまうのは、風牙もまた動物たちが好きだから。
流石に体勢がきつい。脚にも震えが出そうになった瞬間に小鳥は飛び去った。ゆっくりと足を戻した時、足許に一輪の花が咲いているのに気がついた。それは黄色く小ぶりの花で、首を垂れるようにしおれていた。よくよく見ると、根が半分ほど露出していた。昨日の強風に耐えられなかったのだろうか……そんなことを考えながら、風牙はそっと根を地面に戻してから一人で「よし!」とつぶやく。花を踏まないようにそっと一歩離れてから剣を抜く。ちょうど東の空から登った春の朝日が鋭く刃に映り込んだ。
ここからだ。ゆっくりとはいえーーゆっくりだったからこそーー長時間動かした身体は充分に温まっている。剣をまっすぐに振りかぶり、素早く斜めに振り抜く。全身は常に脱力するのが基本。斬撃の瞬間にだけ力を込める。いわゆるバットなどの素振りとは異なり、どちらかと言えば古武術や居合術に近い。ゆえに風牙の戦闘スタイルは、槍や棒術など多岐にわたるわけだが、どれも実践を重んじる「殺法」である。
「たとえ相手が魔であろうと、殺しは殺し」師匠に最初に言われたのもそのことだった。もし相手に攻撃されたという理由であっても、他人を助けるという大義があったとしても、殺しは殺しだと。それを肝に銘じておけと言われて、最初は戸惑った。確かにそうかもしれないけど……
しかし実戦を重ねているうちに風牙は師匠の言葉の意味を理解しつつあった。森羅万象には命が宿る。足許に咲く一輪の花、宙を舞う小鳥たち、取り囲む木々の葉の一枚一枚にすら生命は宿る。それらを大切に思うからこそ、命を助けることの意味の重さ、そして奪うことの重さを理解できる。奪うことに無感覚になった瞬間から、助けることにも無感覚になる。
剣を構えては風を裂いて振り抜く。今はそれだけを繰り返しているが、その一振り一振りが「殺し」の術である。ゆえに風牙は人気のない、静かな場所を選ぶ。ただ音を立てて迷惑だからというだけではない。空を切る一振りであっても、殺しの瞬間を容易く他人に見せるものではないと考えるからだ。
何百、剣を振り下ろしただろう……額の汗を軽く腕で拭い、髪留めを一度外してからよりきつく締め直す。次の鍛錬はシャドーだ。敵を意識しての実戦的な練習。今までの快晴が濁ったように感じられ、意識を集中すると敵の姿がぼんやりと浮かんできた。後ろを向くと不安げな少女……過去に助けられなかった少女が佇んでいる……仕方なかった。それはもう受け入れたつもりだが、それでも受け入れられない。忘れられない記憶。悔しい記憶。
敵は魔だ。もちろんそこに実際に存在するわけではない。あくまでシャドーの練習。右から来れば左にスエーバックする、チャンスがあれば踏み込む。間合いをとって、攻撃の瞬間を狙う。本来シャドーは自分のイメージであるため、都合のよい動きをしてくれる。だが、今回のシャドーはなにかが違った。過去の「助けられなかった」という後悔の念からだろうか……明らかに相手が強く風牙は焦った。シャドーにここまで追い込まれたことは一度もない。片膝をついてしまい、汗が地面に落ちる。その瞬間に相手が左から大ぶりの攻撃を加えてくる。とっさに鞘で受け、立ち上がりざまに右の剣で相手との間合いを取り直す。
ちょうど、二刀流の構えになる。左は守り、右は攻撃に使うが、それを反転させることで相手を混乱させる。このあたりは棒術に近く、短いものと長いものを持つことによって間合いを崩す技術。得意のフットワークを活かして、相手の左をとる。そうすることで相手の右からの攻撃に対応しやすくする。軽いフックのような攻撃には鞘で充分、その間合いのまま剣で斬りかかる。それが受けられたら、すぐに身を引き体勢を低くして次の攻撃に構える。このままなら仕留められる! シャドーでありながら、あたかも実戦のような感覚がほとばしった。
その瞬間に誰かの目線を感じた。師匠だ。とたん、シャドーは、そして少女も消えてなくなった。
「気づかれるとは、年を食ったのかな……」と師匠は頭をかきながら苦笑いをした。屈託のない笑顔。風牙はこの笑顔がとても好きだ。師匠は言葉を続ける。
「さっきの構え……」
やっちゃった……風牙はうつむく。あれは師匠の最も得意とする形だったが、まだ早いから練習をするなと言われていたのだ。
「すみません。その、シャドーをしていたつもりだったのですが、相手が強くて……」風牙は言い訳じみたことを口にする。
「強かった?」師匠の顔が驚きに染まり、それから喜びの表情に変わった。
「それが本来のシャドーだ。普通、シャドーは自分よりも弱いものをイメージする。しかしいまの風牙はなにかを守っていたように見えた。それがシャドーを強く見せたのかもしれない……」師匠は風牙の背後に咲く、風牙が無意識に守っていたであろう黄色い花を見てから「福寿草……」と一人つぶやいた。
「オレ、もしかして習得できました!?」つい、調子に乗ってしまうのが玉に瑕。
「バカモノ」と頭をポカンと殴られた。ですよね〜。「ほら、素振りから! 100本行ってみよう」いやそれはさっき……
「1!」師匠の鋭い声がする。反射的に素振りを始める。「2」「3」……
身体は限界だったが、心は軽い。まだまだ自分は未熟かもしれない。でもそれさえ今の風牙にとっては心地よかった。熱くなった身体を春風が頬をなでる。またあの青い幼鳥が宙を舞うように飛んでいる。木々が柔らかな音を立てている。毎日の鍛錬だが、なぜか今日は大地が、木々が、鳥たちが、花々が、自分を後押ししてくれるように感じられた。
今日は快晴。けれどいつもとは少し違う気がした。
fin