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ソルティドック、潮多め
登場人物一覧
思えば、彼はきっと、私の初恋。
私には父が二人いる。正確には、二人いた。
一人は血のつながった父。一人は血のつながらない父。どちらも等しく大好きなお父さん。
天義で一人目の父が亡くなった後、母はとある海洋の商人と恋に落ちた。彼の翼は自由だった。何処へでも大きな翼で羽撃いていく。模様の入った翼は――鷹だったろうか。鷲だったろうか。其の類だったと思う。
義父は色んなものをくれて、私にもよくしてくれた。今思えば何に使うのか判らないような雑貨、きらきら輝いて見えたアクセサリ。まだ早いわ、と母が笑った、口紅などの化粧品。
そして何より、色のついた服。
私は真っ白な服しか知らなかった。一生この色を纏って暮らすのだと疑わずにいた私に、色彩をくれた人だった。
君の髪は柔らかい色だから、柔らかな色が似合うよ。と、オレンジや黄色の服をあてがってくれた。
天義にいる間は怖くて袖を通せなかったけれど、三人で海洋に落ち着いてからは、義父が勧めてくれた色を好んで着た。お洒落が楽しい、だなんて、きっと天義にいたら知らないまま一生を終えていたかもしれない。
天義で過ごしていたある日、私は義父に言った事がある。
「おとうさんは、いつもどんなものを見ているの?」
それは子どもながらの好奇心。例えば人ごみだとか、例えば交易品だとか、そういうものを例えて言ったつもりだったのだが――義父はいたずらっ子のように笑うと言ったのだ。
「よし! じゃあ、抱っこしてあげるから掴まって」
お父さんは暖かくて、私は抱っこしてもらうのが好きだった。どちらのお父さんも同じ暖かさがある。だから私は、どっちのお父さんにも抱っこしてもらうのが好き。
だと思ったら。まさかと思った。お父さんは翼を大きくはためかせ、私と共に空を飛んだのである。
――雲に触れられそうだ、と思った。私が知っている一番高い場所は、街の教会にある鐘楼。それ以上に高いところなんて想像したこともなくて、目を白黒させる私に、義父は悪戯が成功した子どものように笑った。
人も、動物も小さく見える。すごい、たかい。私は子どもだったから、恐怖心より好奇心の方が旺盛だった。すごいすごいとはしゃぐ私に、お父さんは言った。
「あのずっと先に、僕の生まれた場所があるんだよ」
「ずっと先?」
「そう。天義の外、海が傍にある、海洋という国だよ」
きっとお父さんが見ている先は、お父さんの故郷。私も目を凝らしてみてみたが、よく判らない。
「海があるの?」
「ああ。海の先に何があるかはまだ判らないけれど……いいかい、アリア。世界は判らないことだらけで、だからとても素敵なんだ」
優しく笑って、お父さんは言った。私はお父さんの顔を見上げ、少しの間をもって、其の言葉を咀嚼する。判らないことだらけだから素敵。其れは判らない事なんてない、正義か不正義しかない天義にはないもののように思えた。隣町よりも、皓く輝く首都よりも、もっともっと先にお父さんの生まれ故郷がある。そしてその向こうに海があって、――その向こうに、何があるのか。
いつか判ってみたい。でも、判らないまま素敵なものだと思ってもいたい。
「お父さんがかっこいいのも、判らないことだらけだから?」
おさなごころにそう訊いた私に、お父さんは声をあげて笑った。
「――今なら判る気がするわぁ、お父さん」
お父さんがかっこよく見えたのは、外の世界のきらめきを纏う人だから。
お酒が好きで、飲み過ぎだと母に怒られながらも笑っていた人。きっと私のお酒好きはあなたのせい。
晴れ空を見上げ、箒の調子を見る。今日は折角の待ち合わせなのにお化粧に時間がかかったから、箒で待ち合わせ場所までひとっとびの予定だ。
今ならあの時貰った口紅も、ファンデーションも、なんだって使えるのに。そう感傷に浸りながら、手鏡で顔を一度映し、ポーチにしまう。
思えばきっと、彼は私の初恋だったのだろう。かっこよくて、優しくて、私にたくさんの色彩を教えてくれた人。
ねえ、お父さん。お母さんと今でも仲良くしているかしら。今ならきっと、良いお酒が飲みかわせると思うの。私ね、大切な人が出来たのよ。一緒に手を繋いで、限りある生を精一杯生きていたいと思う人が、出来たのよ。だからお父さんは、お母さんと仲良くして欲しいわ、って。そう言えたら、どんなに良いだろう。
「――っと、いけなぁい! 遅刻遅刻!」
もうお父さんともお母さんとも、話す事も、お酒を飲みかわす事も出来ないけれど、私はきらめく世界を生きています。天義の向こう、海洋のもっと向こうで、大好きな人たちと一緒に生きています。
今日、彼とお酒を飲むときにでも――思い出話をしてみましょうか。嫉妬してくれたらちょっと嬉しいかもしれない。でもね、一番好きなのはあなた。
ソルティドックも良いけれど、今はあなたというワインが一番よ。