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ジルと武器商人の話~アクア・ヴィテ~
登場人物一覧
ジルにとってアルコールは薬剤としての意味のほうが大きい。
触媒であり、溶解液であり、消毒薬であり、時に燃料でもある。薬師として欠かせないものだ。もちろんそれを飲んで酩酊にひたる娯楽についても知っている。一般に酒精を指していることもよく承知している。とはいえまだ幼かったジルには縁のないものだったし、成人してからも特に機会のないまま育ってしまった。なので、混沌というこの世界に、多種多様な酒があふれかえっていると知って、度肝を抜かれたのだ。
「それで我(アタシ)のところへ来たのかい?」
天井の高いオリエンタルな応接室で、ジルは武器商人を前に縮こまっていた。なんというか、気後れする。今から頼もうとしているのは、心中密かに想い続けている人へのプレゼントなのだから。想いは劇的で、ジルの肉体(肉の体と呼ぶべきだろうか? そのわずかに紫がかった肌も、長い長い櫛通りの良さそうな髪も、水晶細工だと言われたら信じてしまう)すら変えてしまった。ジルは額の二本の角を我知らず触っていたが、やがて顔をあげた。
「だって、ワインだけでも冗談みたいな数があるっす。産地がどうとか香りがどうとか、作った年代まで関係してくるじゃないっすか。そりゃ僕だって薬師っすから、同じ薬でも何年のどの産地で育った薬草かは調べるし、効果が変わってくるのもわかってるっす。でも畑違いなもんだからいまいちピンとこなくて困ってるっす。かといって片っ端から飲んでみるわけにもいかないし、ここは詳しい人を頼ったほうがいいと思ったっすよ……」
「うんうん、まァ我(アタシ)は食べるより飲むほうが好きだからね。多少は知っているよ」
内心の不安を一気にしゃべりどおしたジルへ、武器商人は好意的な笑みを見せた。この商売人(同業者)は、欲がなくて商売っ気もまるでない。月末になるとぴいぴい言いながらローレットの依頼を探していたりする。それでもそんな自分を否定せず、いつも前向きでまっすぐ、そのアクアの宝石の瞳で常に未来を見据えている。献身的で善良。薬師になるために生まれてきたような存在だ。比喩でもなんでもなく、いい子だと武器商人は思っている。
「それで、どんなお酒が欲しいんだい?」
「えーと、おいしいやつ……」
「それはチタニイットの方にとってかい? お相手の旦那にとってかい?」
ジルはぎょっとした。まだプレゼントにするなんて言ってないはずだ。もちろん送り先の相手のことだって。固まっているジル。その頬がほんのり赤らんでいるのを目にとめ、武器商人はゆるく微笑んだ。
「なァんにも隠す必要はないんだよ、我(アタシ)には。守秘義務くらいは知ってるとも」
「あ、あはは……そうっすか」
バレてる。どこまで? おそらく全部。かなわないっすねとジルは頬をかいた。
「た、大切な人へ、贈り物をしたいっす。……誕生日プレゼントだから、消え物で、かつ楽しめるものがいいかなと考えたら、自然とお酒になったっす……」
「なるほど。お相手の旦那は、チタニイットの方からはどんな風に見えているのかな?」
「40代くらいで、渋くて学者風の、ストイックなウォーカーで、頼りになる娘さんがいるっす」
「ふむふむ、他には」
「……信頼、できる人っす」
ぼんっ。なんて音が聞こえてきそうなほどジルが赤くなった。
「ヒヒッ、素直でよろしい。そうだねぇ、最近飲んだなかじゃ泡盛の15年物が美味しかったね」
「あわもり?」
「海洋の熱い地域で作られている酒だよ。コクがあって後味がいい。300年以上寝かせたものもあるにはあるらしい、一度商売抜きで飲んでみたいものだね」
「古酒っすね?」
「そうだね。長年寝かせて美味しくなるタイプの酒だね」
ジルは早速いつも持っているアンチョコを取り出し、末尾の余白へ書き込んだ。
「……今のは余談なんだけどね?」
「お酒の知識ならなんでもいいっす! 知らないことを知るのは楽しいっすから!」
「そうかい、じゃァ場所を移そう」
武器商人がジルを連れてきたのは、地下のワインセラーだった。じっとりと暑い外に比べ、ここは空気が乾いておりひんやりして心地いい。講堂くらいはありそうな広さと、天井までずらりと並んだ瓶の数々にジルは圧倒された。
「これ、武器商人さんが全部飲むっすか?」
「いんや、ここにあるのはだいたい売り物だよ。品質管理に味見はするけれどね」
「それでもすごい量っす。味とか全部記憶してるっすか?」
「まァね。でもチタニイットの方が探しているのはここにはないようだね」
そう言うと武器商人は隣の部屋へジルを案内した。そこは一転、遊び心溢れるボトルが棚を埋め尽くしている。
「こっちは?」
「趣味で集めている洋酒のコーナーだよ。贈答用のウイスキーと言えば試験管入りのセットがあるけれど、すこしベタかもしれないし、同じ送るならもっと思い出に残るもののほうがいいだろうね。ヒヒ、何にしようね。チタニイットの方も自由に見て回っていいよ」
「いいっすか? あ、あのボトルかわいいっす! ハイヒールになってるっす!」
「これだね」
武器商人が手を掲げると、ボトルの方からゆっくりと落ちてきて手のひらへ収まった。
「サンドリヨンと名付けられたリキュールだよ。甘みが強いから女性向けかもしれない」
「そうっすね。ピンクに黄色に水色、並んでるとキュートっすけど、どっちかというと娘さんの二十歳の記念に贈ったほうが喜ばれそうっす」
「今年成人だったっけ」
「そうっす」
答えてからジルはなんで知ってるんすかね、とまた固まった。ジルの前に武器商人がボトルを差し出す。それは酒のボトルと言うよりは薬の小瓶と呼んだほうが座りが良く、ジルにとってなじみ深いものに見えた。
「これは何っすか?」
「ビターズ、ガイーシャ・ビターズ。リキュールの一種だよ。簡単に言うと薬酒さ。滋養強壮や健康増進効果がある」
「おお、いいっすね!」
「別名『苦味酒』。そのまま飲むタイプじゃなくて、カクテルやチェイサーへ数滴、風味づけにいれる。これの旨味がわかるようになれば酒飲みとしては一人前だ」
「へえ……。変わったお酒っすね」
「ガイーシャ・ビターズはラムをベースにある軍医が作ったのだけれど、あまりに苦いものだから兵士から悪魔呼ばわりされたのが名前の由来だ。でもじつは作り方は千差万別でね、蒸留酒へ薬草やハーブを漬け込めば作れるから、薬に詳しいチタニイットの方ならオリジナルレシピで手作りすることができるだろうね」
「手作り……」
その手があったか、とジルは目から鱗だった。酒は百薬の長とも言う。あの人の健康を考えながら薬酒を調合するのは、とても楽しいに違いない。
「これは小瓶で場所も取らないし、一度に使うのは数滴だから、長く手元に置いてもらえる。それに、この薬瓶を思わせる外見なら、使うたびにチタニイットの方を思い出してくれるかもしれないね、ヒヒ」
「お、おお……そこまで考えてくれたっすか」
「味見してみるかい?」
「ぜひお願いするっす!」
武器商人は袖から猪口を取り出し、そこへビターズを数滴振りかけた。ぺろりと舐めたジルが、きゅーっとパーツを顔の真ん中に寄せ集めたものだから、武器商人はつい吹きだした。
「しゅごい味っしゅね」
「ヒヒ、まァ何にするかはゆっくり悩むといいとも」
武器商人に渡された真水をこくこく飲み、ジルは棚を見回した。整った顔立ちには歓びがあふれていた。