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chain

登場人物一覧

シラス(p3p004421)
超える者
シラスの関係者
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シラスの関係者
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幻想王国レガド・イルシオンの空は高い。顔を上げれば見える王城の壁は遙か空の上にあるかのようにも思えた。見上げれば英雄の島と称される空中神殿が見えた。御伽噺で語られたその場所が少年にとってはあり得ないものの象徴であった。王都より少し下っただけで、世界は大きく変わる。我楽多に塗れたその場所は泥と煤の気配がこびりついていた。それがこの国が腐敗した果実と称される理由をまざまざと思い知らした。
 申し訳程度に薄い壁で作られたアパートの外から響く怒号を聞きながら、シラスは目を閉じる。鬱屈とした毎日でもたたき起こすように響くのはそうした罵声と、『兄の友人』の来訪の音だ。
 毎日を食い繋ぐ為に。泥に濡れた子供が物乞いをし犬にでも餌をやる様な物好きな令嬢がくすくすと笑ってパンを投げる。扇で隠された口元はさぞ愉快に歪んでいる事だろう。屋根と壁さえあればそれでいいとさえ思えるのはそう言うやり取りを見てきたからだろうか。見上げるほどに高い王城は愉快な程に豪奢絢爛、放蕩三昧であることがありありと分る。仕立ての良い衣服を身に纏った男が餓鬼の数人を連れていくのを見た事だってある。「ああはなりたかねぇな」とシラスへと声をかけたのは『兄の友人』を名乗る男であった。
「そうだな」
 ふい、と視線を逸らす。窓の向こうに見える景色は何時だってそういうものだ。「とんだクソガキだな。アニキによーく似てるぜ」と揶揄う様な声が聞こえたがシラスは聞こえないふりをした。何が兄の友人だ。何が『ああはなりたかない』だ。お前らだって『そういう事』の手引きをして生きている癖に――
 無視をしていれば、兄から声が掛かったのか男は部屋を出ていく。一人きりになって、草臥れた毛布に身を包んだまま、罵声が止んだ外の景色を覗き込む。
 ぎゃあ、と子供の泣き声が響いた。首根っこを掴まれた子供の足がぶらりと揺れている。苛立ったように子供のを摘まみ上げた男は何度も何度も、子供を殴りつける。その音と悲鳴から逃れるように毛布で頭まですっぽりと覆い隠した。数年前までは自分がされる側だったのだ。今や、この周辺をその手に収めるかのような勢いで力をつけている兄はやくざ者の一員となった事で自分に手をあげる者はいなかった。『あのカラスの弟』と称され、腫れ物に触るかのように接して来る者の多さにシラスは内心溜息を混じらせた。
 この街も住みにくくなった。日々を生きるために、謗られ、蔑まれ、殴られる毎日からの脱却を望んでいた筈なのに、いざ、そうなって見れば兄の影響力が増せば増すほどに、街に昏い影が落ちているような錯覚さえ覚えた。
 苛立ちを煽るような雨の音は『あの日』を思い出させる。ざんざん降りの雨の日に『お出かけしておいで』と銭を握らせられて外に出されることも無くなり、『お友達』――客だ。母が体を売っていたこと位、当の昔にシラスだって気づいた――の来訪はぱったりと止んだ。兄が力を増す頃に、母は体を壊し寝たり気になった。今や忙しなく走り回っているのは兄で、母は家で微笑んでいるだけの美しいだけの置物になっていた。

「ねえ」
 母の声がする。乱雑に毛布を放り、シラスは母の許へと向かった。
 穏やかに微笑んでいる母は兄へと酒や薬を乞うて、苛立ったような兄が投げつけている場面をよく見る。今日も何時もの通りであった。
 その様子を眺めているシラスには母は一瞥もくべる事無く、「優しいのね」と今の兄には似合わぬ言葉を発して微笑んでいるのだ。
「ねえ、カラス。今日もお出かけ?」
「……うるせぇな」
 くすくす、と。少女が悪戯をするように笑って母は「行ってらっしゃい」と愛おしそうに兄へと手を振った――振っているつもりなのだろう。シラスには少なくとも母が『そうしている』ように見えた。
「……何見てんだよ」
「雨降ってるのに出かけるのかと思っただけだ」
 視線を逸らしたシラスに兄は「そうか」とだけぶっきらぼうに返した。嫌になるほどにざあざあと振り続ける雨の音を聞きながら、どこの誰から奪い取ったのかと聞きたくなるようなしっかりとした黒い傘を広げたカラスは「お前も来るか」とシラスへと問いかける。
「……母さんが居る」
「あんな女の世話、必要ないだろ」
「……一人じゃ、何もできないだろ。母さん」
「そうかよ」
 シラスはそれでも、幼いころの兄の優しさを知っている。だからこそ、口ではそう言いながらも『シラスにとっては優しいお母さん』である母・マコを「捨て置け」と言わないことを分かっていた。静かに首を振ったシラスにカラスはふんと鼻を鳴らして出かけていく。
 兄が一緒に来るかというのは自分を庇護するための方便であること位分かっている。どうせ、『友人』と名乗る奴らの所に放置し、彼は一人でさらに出かけるつもりなのだ。――仕事だ。裏の世界には仕事が山の様に転がっているらしい。殺人に取り立て、貴族様からの『ご用命』。この街をその掌の上に転がすように過ごしている兄にはそうした話は入ってくる。支配者は常に弱者を虐げる生き物のなのだ。何も分かっていなかった頃の自分ならば兄が体の弱い母の為に懸命に仕事をしているとでも思っていただろう。だが、今になれば――

 ――♪

 聞こえてくる。酷くしゃがれた老婆の様な声が、楽し気に、笑みを含みながら。
 口遊むのは昔から母が好きだった歌だ。かさかさと乾いた唇から掠れた声で紡がれるそれを聞きながらシラスは「機嫌がいいね」と母へと声をかけた。酒で焼けた喉より溢れる声を聞きながらシラスは夢と現実の境も曖昧に虚空を眺めて微笑む母の頬を拭う。その心地よさに、母の瞳がうっすらと細められた。
 ぼんやりとしていた母の意識の中には自分が居ないことは何となく気づいていた。歌を聞かせてくれているわけじゃないのだろう。子守唄の様に響いたそれを聞きながらシラスは「その歌はなんだったっけ?」と問いかけた。……答えは、ない。
「母さん」
 答えがないのは分かっていた。名を呼ばれることはない。ただ、楽し気に歌う母の傍に水を置き、眺める。酒と薬に益々に溺れ、穏やかに微笑んでいる『少女』の様な母。聞こえるリズムを同じように口遊みながらシラスは母の横顔を眺める。ベッドに溺れる母が小さく呻いたその声に背を摩って雨の音を聞く。
「――ス」
 顔を上げる。「母さん」と言いかけたシラスはすぐに口を噤む。
「カラス」
 自分の事なんて、見てはいない。シラスは目を伏せて窓の外を見た。
 雨の音が響いている。いつだって、雨の日は母は自分の事も見ていないし――何時かの日にあった『幸せ』を思い出すのだ。


 数日後、兄が帰宅した時には機嫌も悪かった。仕事を終え、疲労を前面に押し上げたカラスは扉を開き「お帰り」と冷たく言ったシラスの声にどこか柔和な気配漏らす。兄弟という意識もあるのか、カラスから見ればシラスはかわいい弟なのだろう。それを分かっていた――分かっているからこそ、ちょっとした我儘だったのかもしれない。
「最近羽振りがいいね」
「……まあな」
「俺には?」
 掌を向けて、シラスがひらひらとそれを振る。カラスは何処か悩んだ後、自身のポケットからペンダントを放り投げた。その意匠は美しく、細やかな細工がどう見ても高価であることを感じさせる。女性物であるそれをまじまじと見た後に「いいの?」とシラスは問いかけた。
「……売れば金になるだろう」
「まあ……」
「質に入れればいい。好きにしろ。俺は必要ないから、お前が使えばいい」
 言葉少なに放り投げられたそれに「ふうん」とシラスは小さく返す。乱雑にポケットに放り込んでシラスは家を後にする。今日は兄が母の事を見るだろう――彼女が死ねば自分が悲しむこと位、兄も分かっているからだ。
 小遣いが欲しいと言った自分に何も聞くことなく、何も語ることなく送り出してくれる兄の視線を逃れてから、ネックレスをまじまじと見遣った。それを見て、シラスは唇を噛む。女物ネックレス、兄には似合わぬ繊細な意匠の――それ。
 刻まれているのはどこかの紋章だろうか。そこまで考えてから、シラスは幼いころから聞いていた『ピース』を繋ぎ合わせて掌から力が抜ける感覚を覚えた。
 母は、兄が好きだった。自分にも、母にも全く似ていない兄。はじめは兄が貰われ子なのではないかと疑った事もあった。あの溺愛の具合はどうにもおかしさを感じたからだ。

『坊主、知ってるか。マコはな、俺らたちから金を稼いでんだぜ』
『ふうん?』
『それにしてもお前はアニキとは似てねェなあ。マコの子供ってのが確かなくらいそっくりじゃねェか』
 げらげらと笑う男の大きな掌がぐしぐしとシラスの母と同じ色の髪を撫でつけた。やめて、と払いのける事も出来ずに母の大切なお客さんだという男の大きな掌の感覚だけを感じている。
 まだ幼いシラスは『母の大切なお客』という印象で彼を見ていた。開襟シャツからシルバーの首飾りを覗かせた男だった。その眼は何時だって誰かを小馬鹿にしたような色を帯びていることにさえ気付かぬほどにまだ純粋無垢であった。
 だから、シラスは素直にその言葉を聞いた。『お兄ちゃんと似てないって言っても僕とお兄ちゃんは兄弟だよ』と頬を膨らませる。
『知ってっか? 父ちゃんが違っても兄弟になれんだ』
 その言葉にシラスはぎょっとしたものだ。今思えばそういうことを幼い子供に教える男というのはどうなのかとさ思えるが――所詮は、母の常連客の男だ。下世話な話がしたかっただけだろう。
『マコはな、昔はあの王城の近くに住んでたんだとよ。信じられるか? 坊主』
『嘘だぁ。だって、あの辺りはお貴族様が沢山いるんじゃないか』
『バカだな、坊主は。だからよ、お前の母ちゃんはその御貴族様に飼われてたんだよ。
 そりゃ、上玉だ。幾つになってもガキみたいな顔して可愛がりたくなるイイ女だよ、お前の母ちゃん』
 母を褒められたことにシラスは胸を張る。自慢げなシラスがまた面白くなり、男はシラスの頭をガシガシと撫でた。
『分からねェかもしれないが、お前の兄ちゃんはお貴族様の血を引いてるんだってよ。ま、あの外見を見りゃ、どっかのイイトコの坊ちゃんだ』
『……じゃあ、どうして、お母さんもお兄ちゃんもお貴族様と一緒に暮らさないの?』
『大人にゃ色々あんだよ。お前の母ちゃんは兄ちゃんを生むためにこの街に来たんだ。そんで、俺らみてェな男の相手してお前が生まれた』
 ますます分からないという顔をしてシラスは首を傾ぐ。兄の父が貴族だというならば自分も――と幼い少年は考えたが、兄と似ていない、そして『父が違っても兄弟になれる』という所からすぐにその言葉は消え失せた。そうだ、父が違っていたって良いのだ。それが何だというのかとシラスはその時は男の話は大して気には止める事はなかった。気にしたところで仕様がないと思った事もある。
『だから、お前は母ちゃんからすりゃ、商売で生まれちまった奴って話だ』
 ……どういう意味か分からなかった自分を、殴りたい。

 幼き日の会話を思い出してからシラスはひゅ、と息を飲む。
 そうだ、あの時『あの男』は母は貴族の愛妾だったと言っていた――そして、兄は貴族の男との間に出来た子であったと。
 紋章が刻まれた美しいネックレス。石の細やかな細工は貴族でなければ用意できない。ならば、母の所有物だろうか。……しかし、母がこうしたものを持っていた事はなかった。
 母が、兄を『このネックレスの紋章の貴族の息子』であることを証明するために――?
 シラスの掌には汗が滲んだ。
 愛しい愛しい我が子と兄を抱きしめる母。兄の名を呼んで、手を伸ばして好きよ、愛してると微笑む母。
 幾つものそれが、『大好きな母』の知らない面を見せつけられているかのように感じてシラスの中には暗い感情が燻り出す。
 兄は何も言わなかった。母のものであるとも、それがどういう意味合いを持っていたかというのも。
 しかし、シラスは何となくでも事情を察してしまったのだ。否、察さずにはいられなかった。察さないほどに、馬鹿でも子供でもなかったのだ。
 ペンダントを握って、街を奔る。スラムより一歩出れば喧騒の気配がする。下町と呼べばいいのだろうか。商人たちが楽し気に喋っている声と低く裏の取引を続けている声音が混ざり合う。このペンダントならば、兄の言う通り質にでも入れれば暫くは金にも困る事はないだろう。しかし、どうにもシラスの足は動かない。
 きっと、母は貴族の男を愛している。だからこそ、その間に生まれ落ちた兄を愛おしく思い、彼に『愛の証』を渡したのだ。母にとっての大切な品を手放すことが出来ず、シラスはぼんやりとペンダントを眺める。刻まれた紋章を見ればどの貴族だという事は分かるのかもしれない。分かった所で、意味がない事にも気づき億劫にもなる。
 何より、どこの誰が母を捨てたなんて知りたくもなかった。それ以上に、これを託された兄の事が妬ましい。
 大好きで、大切で、たった一人の兄であったのに。

 ――悪かった。

 抱きしめてくれたそのぬくもりを、いまだに憶えて居る気がするのに、今になってはそれさえも鬱陶しく感じられた。醜い気持ちではないか。大切な、自分を常に守ってくれていた兄であったというのに、兄を疎ましいとさえ主だなんて。嫉妬だ。これは嫉妬なのだ。感情を昇華する事も出来ず、シラスは唇を噛んだ。
 もう一度、ポケットの中にペンダントを乱雑に突っ込んだ。売る事も出来ずに、シラスはその儘、気持ちを昇華するように街をぶらついた。
 ペンダントのチェーンが指先に絡むような感覚がしてシラスは苛立ったようにズボンから手を引っ張り出す。
 母の想いを、手放すことは出来ない。例え、彼女の愛情が自分に向いていないとしても。


 見慣れた家の扉は何時もよりものっぺりとした影のように見えた。ゆっくりと歩を進めて、シラスはその扉を開く。
 いまだに絡みついているかのようなペンダントがどこまでも重たく感じて扉を開くことを惑わせる。
 如何したものか、と小さく唸る。しかし、ここで立っていても意味がないのだとゆっくりと息をついてから扉を開いた。
「ただいま」
 何時もの通りを装って、何かを言うことも無く席に着いたシラスの手に華にも握られていなかった。小遣いを与えられたら兄へといつも土産を買ってきているシラスの様子を一瞬、不審そうに見遣ったカラスは何も言わなかった。
 それを好きにしろと言ったのは自分だ。売らないなら返せ、とも兄は言わない。
 重たいポケットの中でで絡んだチェーンを鬱陶しく思いながらシラスはもう一度、「ただいま」と小さく言った。
 只、何事もなかったように「お帰り」とだけ『当たり前になった家族の会話』が返されただけだった。
 それが言えるうちは、まだ、兄弟で――『家族』でいれる筈だから。


 気づけば外は雨が降っていて。
 窓ガラスを叩く雨の音と混じって母の歌声が響く。そう言えば、あの歌は幼いころの子守唄の代わりだっただろうか。
 母も、兄も、二人ともが歌ってくれた懐かしい曲。
「シラス」
「……何?」
「風邪ひくぞ」
 気づけば転寝していたのかとシラスはゆっくりと頭を上げる。眠たさがその体を包み込むような気がして、シラスはゆっくりと頭を振った。
 肩にかけられたブランケットの冷たさは人の心地を感じさせない。
 まだまだ、雨は降り続けている。
 何時かの日を思い出す。あの日、影が伸びていく――雨上がりの暖かさ。
 抱きしめられる力の強さに、温もりに、永遠を感じていたあの日は、もう遠い。

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