PandoraPartyProject

SS詳細

君と愛を歌う

登場人物一覧

天香・遮那(p3n000179)
琥珀薫風
天香・鹿ノ子(p3p007279)
琥珀のとなり

 いつまでも隣を歩いていくのだと思っていた。
 鮮やかな花火みたいに美しい君と、穏やかな日々を過ごしていけるのだと。
 けれど、君はあの日、青白い顔で倒れてしまった。
 元気な君が倒れてしまうなんて思ってなかったから。
「鹿ノ子――!」
 何度も何度も名前を呼んだ。
 どうして、こんな事になってしまったのか。
 運ばれて行く鹿ノ子に何もしてやれることも無くて。
 ただ呆然と立ち尽くしていた。

 ――――
 ――

「良い天気になりましたね、遮那さん」
 高天京の大通りにて、澄み渡る蒼穹の空を見上げれば鳶が二羽飛んでいる。
 心地よさそうにゆらゆらと揺れて連れ立つ様は楽しげであった。
「ああ、良い天気だな。鹿ノ子は疲れてはおらぬか?」
「大丈夫ですよ、部屋に籠もりっきりの遮那さんより私の方が体力ありますから!」
 屈託無く笑う鹿ノ子の声に遮那は破顔する。
「言うようになったではないか」
 確かに執務室に引きこもっている自分より、世界中を駆け巡っている鹿ノ子の方が元気溌剌なのであろう。

「私も其方と一緒に世界中を回ってみたいのう」
 初めて会ったあの日。
 鹿ノ子が語ってくれた海の向こうの話は、鮮明に遮那の心に焼き付いている。
 まだ、子供だった自分が焦がれた海の向こう側。
 シレンツィオであれば遠征したこともあるが、それ以上となると執務に追われる毎日では赴くことも叶わない。
 だからこそ、焦がれる思いは日々募って行く。
 同時に、自分には義兄の意思を継ぐという大義があった。
 義兄を悪と断じた自分には、その責を負う義務がある。
 ぐっと拳を握った上に細い指先が重なった。
「まだまだ時間はたっぷりありますから。ゆっくり世界中を回ってみましょう」
「……そうだな。其方と一緒なら何処だって歩いて行ける」
 だから、その決意としてこの場所までやってきた。
 高天京の大門の前。
 鹿ノ子と遮那が初めて会った場所。
 遮那はその場にひざまずき、懐から小箱を取り出す。
 本来であれば別の形を取るのだろうが、この形式の方が鹿ノ子には分かりやすいと判断した。中には陽光を浴びて煌めく金剛石の指輪が収まっている。
 緊張で呼吸をするのもままならない。
 けれど、伝えなければならない言葉があるのだ。
 大事な思い。
 これからも共に歩んで欲しいという願い。
 小箱をそっと開けて、鹿ノ子へ差し出しながら遮那は告げる。

「――鹿ノ子よ、私と結婚してほしい」

 海の向こうでは誓いの言葉があるらしいが、生憎とそういった小難しいものには疎いから。ただ、真摯に。その願いだけを込めた。
 緊張で心臓が飛び出そうだ。
 鹿ノ子の顔を見上げれば、愛らしい瞳をまん丸にして驚いている。
「私なんかと……?」
 鹿ノ子のこういう謙遜は悪い癖だ。
 だが、そんな所もひっくるめて全部可愛いと思える。
「ああ、鹿ノ子がいい。其方が望むのならば私の全てを捧げよう。その代わりに其方の全てを私に捧げよ。苦楽を共にし、前を向いて歩いて往こうぞ」
「……っ」
 鹿ノ子の顔が真っ赤に染まったと思えば、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ、鹿ノ子?」
「ううううう~~~~」
 ほたほたと涙を流す鹿ノ子をそっと抱きしめる。
「嫌だったかのう?」
 もしかしたら、何かしでしかしてしまっただろうかと、不安になってきた。
 女心は繊細で正しく理解出来ぬことも多いから、意図せぬ方向に受け取られてしまったのかと動揺してしまう。
「違いますよぉ、嫌じゃないです……嬉しいですっ、うっ、ぅ」
「ああ、嬉しくて泣いておるのか。私は其方の涙に弱いからのう……ほれ」
 遮那は鹿ノ子へ小箱を渡し、その華奢な身体を抱き上げた。
「愛しておるよ、鹿ノ子。これからもずっと、ずっと私の傍で笑ってほしい。たまには不機嫌になってもいい、泣いてもいい。けれど、傍にいてほしい。離れず何処かに行ってしまわぬでおくれ」
 抱きしめれば花の香りが鹿ノ子の髪から仄かに香る。
 鹿ノ子の柔らかな香りを胸いっぱいに吸い込めば幸せな気分になった。
「遮那さん……私も遮那さんの傍にいたいです。ずっと、ずっと、一緒です」
「ああ。死が二人を分かつまで共に歩んで行こう」
 鹿ノ子のぬくもりをつよくつよく抱きしめる。

 そうして何分経っただろうか。
「あの、遮那さん……」
 鹿ノ子が遠慮がちに肩を揺さぶってきた。
「どうした? 鹿ノ子」
「その……周りの人が……」
「む?」
 ここは高天京の大門前である。
 行き交う人々が遮那と鹿ノ子を遠巻きに見守っていた。
「……うむ、皆の者! 私と鹿ノ子は結婚するぞ!」
 高らかに宣言する遮那に鹿ノ子は「え!?」と顔を朱色に染める。
「ちょっと、遮那さん恥ずかしいですよ」
「気にするな、こういうのは派手な方がいいのだ!」
 遮那の宣言と共に、周りの人々から拍手が上がった。
 晴れ渡る秋晴れの空の下、遮那は鹿ノ子へ求婚をしたのだ。

 ――――
 ――

「私は鹿ノ子にうぇでんぐどれすを着て欲しいのだが……」
 遮那は自室で大きい冊子を机の上に置いた。
 中には華やかな白いドレスを着たモデルが並んでいる。
「ウェディングドレスですか? でも遮那さんは天香の跡取りですし、カムイグラ風に祝言を行うのではないですか?」
「むう……」
 子供みたいに頬を膨らませた遮那に鹿ノ子は目を細めた。
 遮那にとって祝言は大切な儀式だ。
 天香の跡取りとして、外からやってきた鹿ノ子を家の者と知らしめるためのもの。
 本来であれば二人だけの結婚に家も何も関係無いのだが、カムイグラという閉鎖的なしきたりの中では踏まなければならない手順が存在する。
 鹿ノ子はそれを慮ってくれているのだろう。
「だが、私は鹿ノ子の美しい姿が見たい! 見たいぞ!」
 婚約をしてからというもの、遮那は少しだけ鹿ノ子の前で子供のように振る舞うことがあった。それは元来遮那が持っている幼児性だ。
 初めて会った時はあんなにも好奇心旺盛だった子供が、今は大人びて仕事に励んでいるのだ、鹿ノ子の前では気を抜いても良いと判断してくれている。それが鹿ノ子はこの上なく嬉しかった。ぞんざいに扱われている訳では無い。ただ、本来の姿を見せてくれているのだろう。
「でも……」
「はっ! 分かったぞ! 祝言もウェディングドレスも両方やればいいのだ!」
 天才的な発想だと遮那は冊子を持ち上げ楽しげに笑う。
「祝言を行った後に、ウェディングドレスを着て披露すれば一石二鳥ではないか? 格式も重んじた上で、鹿ノ子の美しい姿が二回も見られるなんて……素晴らしいではないか! いや、ドレスは白だけではない、色がついている物もあるらしい。よし、この際だ白無垢もウェディングドレスもカラードレスも全部着てしまえ!」
「えぇ!? そんなにですか!?」
 流石の鹿ノ子も遮那の提案に驚いて慌てだした。
「この冊子に載っているのは一部らしいからな。幻想国や練達国にはもっといっぱいのドレスがあるのだぞ。やはり既製品では鹿ノ子の愛らしさが最大限に生かせないからな。全て其方に合わせたものを用意しよう」
「待って下さい! そんな!」
「鹿ノ子……」
 冊子を置いた遮那は鹿ノ子を引き寄せ頬に口づけを落とす。
「ふぐっ」
「其方は私の伴侶なのだ。誰よりも美しく着飾りたいと思うのは夫の甲斐性だろう? だからどうか私の願いを叶えておくれ」
 柔らかい唇を奪って遮那はにんまりと笑った。
 この子供っぽい笑顔に鹿ノ子は弱いのだ。
「……分かりました。遮那さんの好きなようにしてください」
「おお! 流石鹿ノ子だ! 愛しておるぞ!」
「知ってますよ」
 はいはいと頭を撫でた鹿ノ子は遮那の頭にキスをする。


 美しく花が咲き乱れ、あたたかな陽光が降り注ぐ春の日。
 天香邸の大広間へ向けて白無垢を纏った鹿ノ子がゆっくりと歩く。
 大広間までたどり着いて中を見渡せばカムイグラの霞帝や中務卿など錚々たる顔ぶれに緊張が走る。幼い頃から中務卿と親交のあった遮那でさえ、霞帝の参列には緊張してしまうのだろう。

 三婚の儀。
 先日二十歳になったばかりの遮那が鹿ノ子と共に杯に入った清酒を三度、三回、合計九回を飲み干す。
 夫婦が同じ酒を体内に入れてこれからの人生を共に歩む誓いを立てるのだ。
 三々九度とも言い、散々苦労を共にする覚悟の証である。

「遮那さん……私は天に召されてしまうのではないですか? こんなに偉い人達に集まってもらって……緊張で手が震えます」
「大丈夫だ鹿ノ子。私も緊張している」
 小さな声で仲睦まじそうに話している遮那と鹿ノ子を見て、中務卿も口角を上げる。やんちゃだった幼い少年が立派になって、こうして祝言を挙げるというのだ。
 中務卿の視線に気付いた遮那は照れくさそうに笑みを浮かべる。
 静かな大広間で三顧の礼をした遮那と鹿ノ子は晴れて夫婦となったのだ。

 ――蒼穹の空は何処までも高く澄み渡る。
 純白のウェディングドレスを纏った鹿ノ子を抱き上げて、遮那は中庭へと歩みを進めた。二人を祝うように白い花が咲き乱れる。
 この日をどれだけ待ちわびただろう。
 折れそうになる心を奮い立たせ、遮那と共に歩んできた日々を思い出す。
 色々なことがあった。
 挫けそうな時間もいっぱい過ごした。
 会えなくなる恐怖を味わった。
 けれど、その笑顔が何よりの救いだったから。


「遮那さん、私は幸せです」
「ああ、私も鹿ノ子が傍に居て幸せだ」

 この幸せが何時までも、何時までも続きますようにと二人は願った。
 よく晴れた青空には二人を祝福するように陽光が降り注いでいた。

 ――――
 ――

 世界を回ろうと約束した。
 海の向こうへの憧れを抱き続けた少年は、少女と共に駆け出す。
 あの日夢見た世界へ。空を自由に飛ぶ鳶のように。
 執務が落ち着いた頃に遮那と鹿ノ子は世界へと旅立った。
 各国を回り様々なものを見聞きした。
 幻想国の煌びやかな丁度に目を奪われ、練達国の技術に魅了された。
 ラサのマーケットでは大量の買い物をして回った。
 鉄帝や天義もまたにかけ、覇竜領域まで足を運んだ。
 再び訪れたシレンツィオでは軌跡を追いかけた。
 混沌の隅々まで見て回った。
 沢山の思い出を作り、語らい、愛を紡いだ。
 そして、遮那たちはカムイグラへと帰ってきた。
 お土産をいっぱい抱えて、我が家へ帰ってきたのだ。

「のう、鹿ノ子……今後どうするか」
 自室への道を歩きながら遮那は鹿ノ子へと語りかける。
「ぅ……」
 振り向いた時には鹿ノ子は壁に手をついて真っ青な顔をしていた。
「鹿ノ子!? どうしたのだ!?」
「はぁ、はぁ……」
 ずるずると壁にもたれ掛かり座り込んだ鹿ノ子を慌てて支える。
 息も絶え絶えに苦しんでいる鹿ノ子を前に、遮那は『死』を予感する。
 このまま鹿ノ子が死んでしまえば、姉を失った時のような喪失感がまたやってくるのだろう。それどころでは無い。半身を奪われたような絶望が襲ってくる。
 いつまでも隣を歩いていくのだと思っていた。
 鮮やかな花火みたいに美しい君と、穏やかな日々を過ごしていけるのだと。
「鹿ノ子――!」
 何度も何度も名前を呼んだ。
 どうして、こんな事になってしまったのか。
 運ばれて行く鹿ノ子に何もしてやれることも無くて。
 ただ呆然と立ち尽くしていた。

「おめでとうございます! ご懐妊です!」

 医師の声に初めは何を言っているのか理解できなかった。
 鹿ノ子は深刻な病気なのだと思っていたから、どんな病名が言い渡されるかと、内心震えていたのだ。
「え? 子供……?」
「はい。鹿ノ子様のお腹にはお子さんがいらっしゃいます」
 遮那は琥珀の瞳をまん丸にして目を見開く。
 それが、一瞬の内に破顔し、布団の縁に縋り付いた。
「鹿ノ子! 鹿ノ子! 私達の子供だ! よくやった! 子供だぞ! ありがとう、鹿ノ子! 愛している」
「ふふ、遮那さん良かったですねえ」
 姉を亡くした遮那にとって、赤子は唯一の血縁となる。
「子供を持てることが、家族が増えることが、こんなにも嬉しいことなんて……ありがとう、鹿ノ子!」
 遮那は涙を流しながら鹿ノ子の手を握った。
 その手は温かく、柔らかで。
 必ず守ってやらねばと決意を新たにするには十分だった。
「医師よ、何か、何かすることはないか!?」
「ええ、そうですね。鹿ノ子様のことをよく労ってあげてください。栄養があるものをしっかりと」
「分かった! 栄養があるものだな! 任せろ! 採ってくる!」
 勢いよく部屋を出て行った遮那に、医師と鹿ノ子は顔を見合わせくすくすと笑った。
「奥様想いの良いご主人ですね」
「はい。可愛いご主人です」

 それからというもの、遮那は執務室を抜け出しては鹿ノ子の下へと顔を出した。
 日に日に大きくなる鹿ノ子のお腹を愛おしそうに撫でる。
「あっ、今動かなかったか?」
「はい。もう動いてますよ、すごく元気で二人ともやんちゃです」
「……ふたり?」
 首を傾げる遮那に鹿ノ子は悪戯な顔で「はい、双子です」と応えた。
「それは、誠かァー!? 双子!? このお腹に? 双子!?」
 楽しみが二倍に増えたことに遮那は嬉しそうにはしゃぐ。
「会えるのが楽しみですね」
「ああ! 楽しみで仕方が無い! 早く会いたいのう」
「ふふ」
 お腹に耳を当てた遮那の頭を鹿ノ子は愛おしそうに撫でた。


 その日は、朝から妙にそわそわして早く目が覚めてしまった。
 隣の部屋で寝ている鹿ノ子はそろそろ臨月で、お腹も大きくなっている。
 そっと襖をあけ、鹿ノ子の様子を伺う。
「ん……遮那さん?」
「おお、起こしてしまったか? すまぬ」
 鹿ノ子の傍に座り込んだ遮那は愛おしそうに頭を撫でた。
「大丈夫ですよ。私も起きたところです」
 寝起きだからあまり顔色は良くないだろうか。
 子供達に栄養を注がなければならない分、鹿ノ子は窶れてしまうのだろう。
 それが、妙に不安になった。
 胸のざわめきを押さえるように遮那は鹿ノ子の手を握り、未来の話を語る。
「……のう、鹿ノ子。春になったら花を見に行こう。子供達も連れて、な」
「はい。四人で行きましょう。あたたかな日に桜を見に。子供達は覚えて無いでしょうけど、その次も次も行けばいいんです」
「ああそうだな」
 想像するだけで幸せな時間だ。

 ――だというのに、どうして。
 鹿ノ子の指先はこんなにも冷たいのか。

「のう、鹿ノ子……其方指先が冷たいのう」
「う、うぅ……!」
 突然苦しみだした鹿ノ子の手を遮那は握り締める。
「誰か! 誰かおらぬか!」
 遮那の切羽詰まった声を聞きつけ、医師と年嵩の女官が駆けつけた。
 医師が鹿ノ子の布団を剥ぐと、血の匂いが部屋中に広がる。
「……ッ!」
 布団では収まらなかった血が敷物にまで染みだしていた。
「すぐに人手を!」
「はい!」
 医師に指示された女官が部屋を出て行く。
 普段は静かな天香邸に幾人もの激しい足音が響き渡った。
「このままでは……」
「かなり危険です」
 次々に部屋に人が訪れ、的確な動きで鹿ノ子を担架に乗せて運び出す。
「あ、鹿ノ子……」
 遮那は運び出される鹿ノ子に手を伸ばした。
 されど、それは年嵩の女官に引き留められる。
「遮那様今はどうか、ご辛抱ください」
「……」
 血のにおいが充満する部屋には、絶望が漂っていた。

「――私にできる事はないのか!」
 遮那は鹿ノ子が運び込まれた治療室の前で声を荒らげる。
「いいえ、何もございません。ただ、待つしかないのです」
 付き添っているのは親しい年嵩の女官だ。
 遮那は強く拳を握り込んだ。
 ガラ、と戸が開く音に顔を上げれば、深刻な顔をした医師が姿を現す。
「鹿ノ子と子供達は無事なのか!?」
「……非常に申し上げにくいことなのですが、恐らくこのままでは母子ともに命を落としてしまう状況です」
「な……」
 医師が告げた言葉は遮那にとって飲み込み難いものだった。
「そんな馬鹿げた話があるか! 其方は医師なのだろう! どうにか出来ぬのか!」
 遮那は医師の肩を掴み声を張り上げる。
 其れだけ鹿ノ子と子供達が大切だった。切実なる想いは医師にも伝わっただろう。
 だからこそ、医師は真摯に遮那へと向き合う。

「ですから……私達医師は母体を優先します」

「子供は、どうなるのだ……?」
「まだ生まれていない胎児より、母体の生命を優先するのです」
 つまりそれは、この手で子供達を抱くことは出来ないということだ。
 何故、と医師を責める言葉など吐く事はできない。
 自ら義兄の命を奪ってしまった自分の咎が、子に宿ってしまったのだろうか。
 そんな根拠の無い自責が遮那の心を蝕む。
 だが、一刻の猶予も無い。
「……分かった。鹿ノ子を頼む」
「はい」
 きっと自分の声は震えていただろう。
「う、う……許せ、子供たちよ」
 その場に膝を着いた遮那は床に涙の後を作った。


 どれだけの時間が経っただろう。
 ほんの数十分だったかもしれない。数時間だったかもしれない。
 ただ、遮那は声を聞いた。
「――おぎゃぁ」と産声を聞いたのだ。
 まさか。
 まさか。
 まさか――
 遮那は我慢ならず、治療室の戸を開ける。
 其処には、台の上に横たわる鹿ノ子と、二人の赤子の姿があった。
「あ、あ……鹿ノ子? 鹿ノ子?」
 赤子の産声が聞こえた。
 其れはつまり、鹿ノ子が死んでしまったという事ではないのか。
 青白い身体で鹿ノ子は台に寝かされていた。
「嫌だ、嫌だ……嘘だ、嘘だと言ってくれ鹿ノ子!」
 遮那は転けそうになりながら鹿ノ子へと縋り付く。
「鹿ノ子!! 目を覚ましてくれ鹿ノ子!!」
「……遮那さん」
 か細い声で鹿ノ子は遮那の名前を呼んだ。
「あ、あ……あぁああ」
 泣き崩れる遮那の肩に医師は手を置く。
「鹿ノ子様も、お子様も全員頑張ったんですよ」
「ありがとう……ありがとう」
 遮那は泣きながら医師へと感謝を述べた。
「よく頑張ったな鹿ノ子。よかった。本当に良かった。其方を亡くしてしまうかと思うと胸が張り裂けそうだった。絶望しかなかった。よく頑張ってくれた。ありがとう」
 出産がこんなにも命懸けであるなんて思ってもみなかった。
 今は全てのものに感謝を捧げたいと遮那は涙を流す。

「名前、決めてますか?」
 鹿ノ子は朦朧とした意識の中で遮那に問うた。
「そうだな……男女の双子だから。咲良さら宗寿むねとし
 咲き誇り、天寿を全うし、答を得て、眠りにつけるように」
 名前とは親が最初に祈る願い。
 健やかたれと未来に託すもの。

 ――――
 ――

 春麗らかな陽気が降り注ぐ日。
 遮那と鹿ノ子は子供達を連れて花見へ来ていた。
「ちちうえ! ははうえ!」
 子供達は言葉を話すようになって久しい。
「みてください! さくらが、さいています!」
 きゃっきゃとはしゃぎながら走って行く咲良と宗寿はまだ幼児の域を出ない。
 咲良は宗寿と同じ格好が良いと水干を着て括り袴で走っている。
「遮那さんも子供の頃はあんな感じだったんですねえ」
 年嵩の女官が言うには、咲良は小さい頃の遮那そっくりらしいと鹿ノ子は情報を仕入れていた。
「宗寿は其方に似ておるな。あの感じで幼き頃も愛らしかったのであろう?」
「ふふ、どうでしょう? 生意気だったかもしれませんよ?」
「其方がいくら生意気であろうとも、愛おしさしか感じぬな……ちょっと生意気な感じをしてみてくれぬか?」
 悪戯な顔を近づけて鹿ノ子の反応を見つめる。
 そんな遮那の頬を鹿ノ子はむにむにと摘まんだ。
「遮那さんは顔が良いので……そんなに近づくと噛みますよ」
「噛むのか? どこを噛んでくれるのだ?」
 精一杯の生意気を演じてくれる鹿ノ子が可愛くて更に意地悪をしてみたくなる。
「指とか耳とか」
「ほう……」
 夫婦となって子供が生まれ数年が経ち、お互い遠慮が無くなった。
 恋人同士であった頃のような恋い焦がれる甘さは鳴りを潜めている。
 されど、不意に近づけば愛おしい心が沸き立った。
 触れたいと思う気持ちに変わりは無く、より大きな愛に変わったのだろう。
「では、今宵。それを確かめさせて貰おうかのう。其方からの誘いだからの」
「え!? そういう話でしたか!?」
 耳まで真っ赤にした鹿ノ子が振り向いた所に、額へと口づけを捧げる。
「こ、子供の前で!」
「まったくこっちを見てないから大丈夫だ」
 子供達は桜の木に夢中で両親のことなど忘れたかのようにはしゃいでいた。
 出逢った頃は咲良や宗寿のように目を輝かせて話をせがんでいたというのに、今では背も高くなり大人の余裕が見て取れる。
「どうしたのだ? そんなに見つめて」
「遮那さんだけずるいです。そんなに大人になって……私なんて小さいままですし」
 頬を膨らませる鹿ノ子はこの上なく愛らしいのだが。
「いいや、其方は強い大人だ、鹿ノ子。あの子らを産み育てておるではないか。私には想像もできない程の痛みや苦しみを乗り越え、二人を産んでくれた。そして今なお育ててくれておる。それはしっかりした大人にしか出来ないことだ。だから鹿ノ子よ。自信を持て。其方は強く気高い私の愛する人で、子らの母親だ」
 だから、と遮那は鹿ノ子を抱き寄せる。
「世界で一番愛おしい、私の鹿ノ子」
 もし、子供達が生まれて来る時に、母か子かを選べと選択を迫られていたのなら、遮那は鹿ノ子を選んでいただろう。恨まれる事になろうともまだ生まれていない子より鹿ノ子を優先したはずだ。今となっては杞憂に過ぎないが。あの時の医師にはいくら感謝しても足りないぐらいだ。
「しゃ、なさん……」
 腕の中で顔を真っ赤にして名を呼ぶ、その仕草が可愛らしい。

「ははうえー! ちちうえー!」
「は、はい!」
 子供達に呼ばれ鹿ノ子は遮那の腕から抜け出す。
「はなびらがとれないのです」
「さっきから、ずっとおいかけてます」
 咲良と宗寿は風に舞う桜の花びらを捕まえようとしていたのだろう。
「こうやって、おいかけると、くるくる~ってなります」
「なります」
 二人して同じようにくるくるとその場で回る。
「ははうえは、はなびら、とれますか?」
「そうですねえ。ん~よっと! 取れましたね」
 鹿ノ子は風に舞っていた花びらを手の中にさっと収めた。
「わ~!! すごいです! ははうえ!」
「なんでも、できますね! ははうえ!」
 子供達の期待の眼差しが鹿ノ子を包み込む。
 こんな風に純真無垢な信頼を預けられる日が来るとは思ってもみなかった。
 眦に涙が浮かんでくる。
「ははうえ、どうしたのですか? ぐあいがわるいですか?」
「ははうえ、なかないでください」
「いえ、これは……」
 母親が零す涙というのは子供達を不安にさせてしまうものだ。
「ははうえー! しなないでー!」
「うあーん! ははうえー!」
「よしよし、二人とも大丈夫ですよ。これは嬉し泣きです。悲しくて泣いてるんじゃないので安心してください」
 鹿ノ子は両手で子供達を抱きしめる。
「ほんとう、ですか?」
「ははうえしなない?」
「はい。死にません。二人が私のことを大好きだと言ってくれるのが嬉しかったんです。母も貴方たちのことを愛していますよ」
 鹿ノ子の言葉に咲良と宗寿は笑顔になった。
「……ちちうえよりも?」
「おーい、父の前でその質問はするでない」
「わたし、しってます……やきもち、です」
 幼児の咲良がやきもちを知っているとは驚いたと遮那は感心する。
「やきもちすると、おいしいです」
「む? 咲良?」
 遮那は鹿ノ子から咲良を受け取り抱き上げた。
「ちちうえとははうえと、むねとしとやきもちするとおいしいです」
「うむ、其方もしや、お腹がすいておるな?」
 咲良のお腹からくるると音が鳴る。
「お弁当にしましょうか。今日は二人が大好きな肉団子があります」
「やったー!」
「わーい!」
 遮那の腕からぴょんと飛び出した咲良が鹿ノ子へと抱きついた。
 茣蓙に弁当を広げる鹿ノ子と、周りではしゃぐ咲良と宗寿。
 桃源郷にも思える幸せな風景に遮那も涙を浮かべる。

 姉と二人で生きながらえ、天香に召し上げられた。
 平穏な日々の矢先に姉が亡くなり、義兄が悪となってしまった。
 その首をこの手で刎ねた責は生涯背負わなければならないものだ。
 されど、鹿ノ子となら歩んで行ける。
 咲良と宗寿の為ならどんな苦難もはね除けられる。

 ――前を向いて歩いていける。

 そう、確信できる。
 迷う事もあるだろう。泣いてしまうこともあるだろう。
 辛く苦しい後悔も、目の前に立ちはだかるだろう。
 されど、鹿ノ子と子供達の為なら、何度だって乗り越えられる。

「鹿ノ子、私と出逢ってくれてありがとう。
 子供達を授けてくれて、愛を共に育んでくれて――ありがとう」
 心からの感謝と、全身全霊の愛を。
「ふふ、どういたしまして」

 笑顔の君を、愛してる。



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