SS詳細
タワムレル
登場人物一覧
陽射しが差し込むのは、入り込んだ風がカーテンを翻すから。
瞼越しの光が『埋れ翼』チック・シュテル(p3p000932)を眠りの世界から呼び起こす。刺すほどには強くない光は、窓を通るより前に、揺れる木々がやさしいものへと変えている。
(……朝)
身体の向きはそのままに、なるべく翼を動かさないように。寄り添う存在へゆっくりと腕を滑らせるチック。
「なぁぅ」
その温もりに触れそうな距離まで近づいたところで、小さな声が先に聞こえた。すぐに手に触れてくる柔らかい手触りと、ざらりと湿った感触。
「……おはよう、ミィ。今日も……よく、眠れた?」
前の晩は少し冷えると聞いていたチックは宿に部屋を取って、手入れの行き届いた寝具での眠りを望んだ。けれど宿の部屋に猫用の出入り口はなかったから、いつでも好きなように出入りができるよう、窓の鍵はかけていなかったのだ。
共に過ごすようになって半年ほど。はじめこそ痩せっぽちだったブチ猫は今、艶を取り戻し始めた白と紺の毛並みをチックの手でかき混ぜられている。今のミィなら、ほんの少しの隙間があれば抜け出すのは簡単なのだ。慣れない寝床に辿り着く度に行われる、周辺の夜歩きは習性のようなもの。
チックは決まった塒を持たない。だからこそミィはチックに拾われた飼い猫であると同時に、猫の野生を鍛えられている。
「……ん。……おなか、空いてる……のかな」
陽は高過ぎず、けれど少しずつ熱をもたらしてくれている。食事を急かす家族に背を押された気分で体を起こしたチックは、食堂へ降りる準備を始めた。
ミィの分も別に用意してもらって、皿をもって部屋に戻る。まだ朝の時間帯とはいえ宿は人の出入りが多い。自分で運ぶことを条件に、チックは部屋での食事の許可を取っているのだ。
「……おまたせ」
「なぁう!」
行儀よく待っていたミィの前に皿を置いて、食べるように促すチック。一度チックの顔を見上げ、感謝の言葉なのか、食事開始の挨拶なのか、一声鳴いてから食べ始める様子はしっかりとしつけられた飼い猫の姿そのものだ。
(あとで、ブラッシング……)
自身も食事をとりながら、この後の予定を組み立てていくチック。
共に過ごす時間を重ね増やしていくほどに、ミィは大きく健康になっていく。それは喜ばしい事で、変化に気付く度、ミィと出会った日の小さな面影を思い出す。
あの日を思い出すなら、その切欠を思い出すのも必然で。
「……あの子達も、空の向こうで……。元気に、してるの……かな」
もし、この想いが届くなら。
彼等の鳴き声はけっして、鋭く恐ろしいものではなかった。
はじめこそひどく変貌した姿に、ふりまかれる臭気に、話を聞かされていたとはいえ驚きはあったけれど、チックに恐怖は浮かばなかったのだから。
最後の一匹を前にした躊躇いもただ共に過ごす時間を惜しんだ証拠だった。
彼等は生ける屍となっても、愛らしい、愛を求める猫達だったから。
最後に聞いた喉を鳴らす音が満足の証だと皆で信じているけれど、それでも時折、何かしらの切欠を得る度に思い出していた。
空へと送り出した先ではもう不自由はしていないと思うけれど、なにより無事に辿り着けたと思うけれど、猫を見かける度に彼らの幸せを願っていた。
「ん……一緒に、遊んでくれる……?」
人慣れしている猫と戯れることも幾度かあった。ただ、既に誰かの愛を得ている猫と過ごすだけならそれだけでいい。
幸せな様子を垣間見せてもらうような、かつて弔った彼等に花を手向けるような、チックの記憶だけでなく心に強く残っているからこそ、見かける度に猫の様子を確かめてしまっていた。
猫を見かけて、思い出して、想う。何度か繰り返していくうちに、それがひとつの癖のようになってしまった頃にはもう、一年が経っていた。
その日は暑かったと記憶している。涼しい時間帯になるまでは森の木陰で涼を取っていたように思うから、きっと夏の日だ。
辺りは暗く、僅かな灯りで道を進んでいた記憶は、その後の出会いの方が強すぎて少しばかりおぼろげになっている。
毎日のことなので、きっとその日の塒をどこにするか考えていた、そんな矢先だと思うのだけれど。
森歩きだって慣れたもので、いつも通りの道を、特に何かを気にするでもなく進んでいたチックにその日は違和感と言う名の出会いがあった。
(……なん、だろ……?)
警戒のために声は出さず、その違和感を見出そうと視線を巡らせる。僅かな変化も逃さずに捉えようと気を巡らせるほどに緊張が増す。
しかしどれほど気配を探ろうと、チックに近い気配は感じられない。
人為的な危険ではないと分かっても警戒は解かない。森にほど近いこの場所は、人ではなく自然が危険となることだってある。
息を潜め、音を殺し、いつでも飛び立てるよう木々の枝ぶりを把握し、いつでも地を踏み込めるよう足元へ視線を巡らせて……
小さな、震える存在。違和感の正体に気付いた。
視線が重なる。
チックにしてみれば、それまでに見かけたことのない小さな身体。
「……仔猫……?」
生まれたてではないだろう。それなら親元から離れる力もない筈だ。
ひとり立ちには早いだろう。それなら今にも倒れそうな細さは変だ。
けれどチックの視線の先に居るのは、その小さな仔猫一匹だけ。
チックに向けられる視線は、つい先ほどまでチックが巡らせていた警戒と同じ色が滲んでいる。
けれどもう一つ、好奇心のような、期待のような、あの日彼等に感じた愛らしさも含まれていて。
「君……よかったら。一緒に、来ない……かな」
どうすべきか、もう少し考えるつもりだったチックだけれど……気付けばその手を差し出し、仔猫をその腕に抱えていた。
仔猫もまた、チックの腕の中ですぐに力を抜いた。だからその後は早かった。
黒猫にしては目の色がどこか違うと首を傾げていたけれど、身繕いの為にやさしく洗った結果真実に辿り着く。
現れることに抵抗する余裕もないらしい仔猫は、チックの予想よりも長い時間一匹で過ごしていたのだろう、洗うほどに白い毛並みが現れて、本来の毛並みが戻るころには始めの印象は随分と様変わりしていた。
「美人さん……だね」
「なぁお?」
徐々に慣れたのか、チックの撫ぜる手に応える声には甘える響きが混ざっていた。
結局、出会ってからずっとふたりは共に過ごしている。
はじめ、チックには仔猫を拾ったという認識はなかった。
ただ同じ、一人で過ごす者同士、気紛れに寄り添っただけ。
仔猫を育てているなんて、そんなつもりもなかった。
共に過ごしているのだから、食事だって一緒に摂るのが当たり前なだけだった。
「……呼び方がないと、不便……だよね」
だから、どこで眠りにつこうとも気にせずチックの翼に寄り添う仔猫は、ミィになった。
ただ、ひとりとひとりが、ふたりになっただけ。
「なぁー?」
「ん……うん、美味しかった?」
ミィの呼びかけに視線を向ければ、ふたりの皿はどちらも空になっていた。
「……待たせちゃった、かな」
そう聞きはするけれど、チックは少し前まで自分が食事していたことを覚えている。
「おしえてくれて、ありがとう……ね」
「なぁ♪」
誇らしげに鳴くミィを見たいだけかもしれない。
「……片付けたら、ブラッシング……しよう」
期待に揺れる尻尾を見つめて、チックもふわり、微笑んだ。