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幸福な日々
登場人物一覧
- ジョシュア・セス・セルウィンの関係者
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開いた窓から、さらり、さらり、風が吹く。夏が近づき始めている森からは、春の柔らかさとは違う、爽やかな香りがして、ジョシュアの鼻に届く。すると少し強く風が吹きつけて、読んでいた本のページを捲っていった。慌てて抑えれば、人間が魔女を襲おうとしているところと、その背後から各々の武器や杖を構えた魔女たちが、人間たちに狙いを定めているところが描かれているページで止まって、つきりと胸が痛む。
リコリスの家に来る前に、街に寄ったのだ。カトレアが街まで送り出してくれて、本屋で魔女と人間について書かれた本を買い、リコリスが一人で買いに行くには重たいであろう砂糖や小麦粉を買って、それからここに来たのだった。
リコリスは今日、ウィークエンドシトロンを焼いてくれている。ウィークエンドシトロンには、大切な人と一緒に過ごす週末に食べるお菓子、という意味があるらしい。それをリコリスが茶目っ気たっぷりに教えてくれた時、思わず顔が熱くなってしまった。ぎゅっと仲が縮まったのだと思うと嬉しくて、紫に変わった髪を手で隠しながら、微笑んだ。もう、こうやって照れる気持ちを隠さなくてもいいのかもしれないけれど、気持ちをそのまま伝えてしまうのも、なかなか勇気が要る。テーブルに座って、買って来たばかりの本を読んで、赤くなっているであろう頬を誤魔化そうとしたのだけれど、本の内容は、想像していたよりも重たく、つらく、気分が落ち込んでしまったのだった。
人間が魔女たちをどう思っているのか詳しく知りたかったから買った本だったのだが、彼らは人間が向けた悪意が、魔女たちの心の影を深くしたことに、気が付いていないらしかった。見て見ぬふりをしているのかもしれない。思わず小さく息を吐くと、膝の上に座っていたカネルの尻尾が頬を撫でる。まるで、どうしたの、落ち込まないで、と言われているようだった。思わず、ふふと笑みが零れる。
「ジョシュ君。はい、味見」
カネルを撫でていると、横からケーキの切れ端を差し出された。ジョシュアが慌てて本を閉じるも、リコリスはそこに何が書かれていたのか気が付いたらしかった。どこか切ない、柔らかな微笑みが降ってきて、ジョシュアの胸に触れる。
「あんまり一度に知ろうとすると、引っ張られてしまうわ」
「そう、ですね」
いったん休憩したらどうかしら。そう言いながら机に置かれた切れ端からは、バターとレモンの爽やかな香りが漂っていた。なんだか心がほどけていくような気持ちになって、勧められるままに口に運べば、カリっとした食感と、爽やかな香りが口の中に広がっていった。
「美味しいです。すごく、元気が出ます」
「そうでしょう。そこの切れ端は、パウンドケーキの上の盛り上がりのところでね。ひっくり返してコーティングするから、味見用にしてるの」
リコリスはふわりと微笑んで、再びキッチンに戻っていった。今度はアプリコットのジャムを加熱する、甘酸っぱい香りがして、萎れていた心が再び力を取り戻す。リコリスにお菓子の用意が出来たと呼ばれる頃には、人間側の主張が少しだけ理解できるようになっていて、その分、酷使した脳がエネルギーを欲していた。
「お花、飾ってくださったのですね」
机を整理しようとして、棚の上にいつの間にか、今日贈った花が飾られていることに気が付いた。友人が育てた、白い百合と赤い薔薇の花束をお土産に持ってきたのだが、花瓶に飾られたそれは煌めく水に生けられながら、うつくしく咲き誇っている。
「ええ。長持ちするように、水に魔法の液を入れてみたから、きっと長持ちするはずよ」
ジョシュ君の友達が育てた花だもの。リコリスはそう笑っている。これから、友人たちと彼女の交流も深まれば良いという気持ちもあって持ってきたものだから、喜んでもらえて良かったと思う。
オレンジにほんの少しだけシナモン等のスパイスを加えた紅茶を淹れ、ティータイムがはじまる。ジョシュアがカップを配り終えて座ったタイミングで、カネルが膝の上に飛び乗ってくる様子が可愛くて、リコリスと目を合わせて笑った。すると、贈ったネックレスが彼女の胸に輝いているのに気が付いて、少しだけ、目を逸らす。ウィークエンドシトロンを食べよう、という時に合わせて身に着けてくれるのが、嬉しかった。
切り分けられたケーキは、表面にはアプリコットジャムと砂糖でコーティングされているようで、照明の光でわずかにきらめきを零す。先ほど味見したものよりももっと美味しいのだと思うと、胸の中で何かがころりころりと転がっていくようだった。
二人揃って、いただきます。二人とも先に手を伸ばしたのは紅茶で、思わずふふと笑う。フォークをウィークエンドシトロンに刺すと、表面の砂糖のコーティングが割れて、軽やかな音を立てる。口に運べば、酸味の中で甘さがほどけていって、レモンとバターの香りが広がっていくような、そんな味わいがした。砂糖のコーティングは、粉砂糖をレモン汁で溶かしてつくっているらしく、舌の上で溶けるそれは、甘くてきゅんと酸っぱい。美味しい、と零せば、リコリスは顔を綻ばせた。
「良かった。これから、ジョシュ君と一緒に過ごせる時間が増えるのだと思うと、嬉しくて。だから、ちょっとしたお祝いというか、お祈りみたいなものを作りたかったの」
リコリスもまた、ケーキを口に運び、良い出来だと言わんばかりに表情を崩した。きっとリコリスが籠めたのは、これから日々と共に過ごせる喜びと、この日々が続くようにという祈りなのだろう。混沌が救われて、自由に会えるようになったけれど、この平穏な日々が崩れませんようにと祈ってしまうのだ。だから、このケーキに籠める願いにはぴったりのような気がした。
「僕も、リコリス様と一緒に過ごせる時間が増えて、嬉しいです」
微笑めば、目が合う。ふふ、と声が零れて、もう一口、二口、とケーキを口に運んでいく。この時間が長く続くようにゆっくり食べていたい気持ちもあったけれど、食べ終わっても、夢のような時は終わりはしないのだと思うと、心が落ち着いた。今日持ってきた花が、愛と幸せのお裾分けの花束であるからだろうか。幸せな時間がこれからもずっと続いて、巡っていくのだと、素直に信じられる。それから、今よりもっと彼女を幸せにしたい、という気持ちで、心が揺れた。手を繋いで、触れたい、という気持ちもじわりと湧いてくる。
食べ終わって、洗い物を手伝っている間に、どうしたら手を繋げるだろうと考えていたのに気が付かれたらしい。食器をしまって、ほっと息をついた時に、彼女の手がジョシュアの頬をつついた。気恥ずかしさを感じながら、彼女の指にそっと自分の手をあてて、包み込むように握ると、その温もりが伝わってくるようだった。今なら、できる気がした。好きです、そう呟く。
彼女の頬に、自分の唇を近づける。触れるだけのそれはすぐに離れて、同時に、二人とも顔から湯気を出してわたわたと慌てた。ジョシュアも恥ずかしさを隠せなかったが、リコリスも驚いているらしい。口づけされるだけよりも、返したいと思ってのことだったのだが、案外、その後に言葉を探すのが難しかった。彼女も真っ赤になっているけれど、どこか嬉しそうなことが口元から分かって、ほっとする。
言葉を探して迷っている二人の傍で、カネルがゆったりと尻尾を振っていた。

- 幸福な日々完了
- NM名花籠しずく
- 種別SS
- 納品日2025年05月21日
- テーマ『これからの話をしよう』
・ジョシュア・セス・セルウィン(p3p009462)
・ジョシュア・セス・セルウィンの関係者