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双色は溶け合う
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透明な水の中に浮かび上がる泡を追いかけるようだと思った。
手を伸ばしても、泡は指の間をすり抜けていく。
水面の光は遠く、深海の暗闇にゆっくりと沈んでいった。
空腹というものが、こんなにも苦しいだなんて思いもしなかった。
欲しかったはずの感覚なのに、今はこんなにも苦痛を伴う。
何よりも苦しいのはベスビアナイトが悲しそうな顔をすること。
大切な人が悲しそうな顔をするのは見たくなかったのに。
ああ、それでも。
とってもとってもお腹が空きました。
その瞬間は唐突に訪れた。
何か予兆があった訳では無い。
振り向けば、其処に魔種になったニルがいた。
普段の愛らしさとは打って変わって、神秘的な美しさを抱いた姿。
「ニル……?」
「どうしました? ベスビアナイト」
くてりと首を傾げたニルの口は失われ、代わりに手が巨大な顎を有する。
声はそこから聞こえていた。
姿は変われど、ニルはニルなのだろう。
嬉しそうに目を細め、ベスビアナイトへと抱きつく。
「ベスビアナイト?」
ニルは自分を見つめ固まってしまったベスビアナイトに不思議そうな目を向けた。
何も変わらない優しい瞳。純粋な心。何故こんなにも清らかな存在が魔種になってしまったのか。
否、とベスビアナイトは首を振る。
今はそんな事を考えている時間は無い。
誰かに見つかる前に、此所から逃げなければ。
幸いなことに、今は休暇の最中だ。
ニルと一緒に各国を回って現在は幻想国に滞在している。
この国ならば、隠れるには最適だろう。
北に向かって鉄帝に逃げてもいい、西に向かってラサに行ったって構わない。
とにかく逃げなければ。
ベスビアナイトはニルに風よけのマントを被せドアを出る。
ニルとテアドールが姿を消したという知らせが燈堂廻の元へ届いたのは一ヶ月後のことだった。
――――
――
優しい時間。二人だけの日々。
待ち望んでいた幸せな生活にニルの心は満ち足りる。
「ニル大丈夫ですか? どこか痛い所はありませんか?」
「どこもないです、でもお腹が空きました。こんなにお腹が空くんですね」
心は充分なはずなのに、空腹だけは何時までもつきまとった。
一日何も食べないだけで、悲しい気持ちになってくるのだ。
隠れ住むにはある程度人が居て流通の多い所の方が良い。
ベスビアナイトとニルは幻想北部の宿場町へ隠れ潜んでいた。
町はずれの空き家にひっそりと。
ハーモニアに見た目が近いベスビアナイトが一人で彷徨く分には問題無いが、ニルの異様な姿は住人が不信感を覚えるだろう。
ともすれば、ニルが討伐対象になってしまう恐れだってある。
守らなければとベスビアナイトは拳を握りしめた。
「う、う……おなかがすきました」
ニルはベッドの上でぽろぽろと涙をこぼす。
「何か買ってきましょう。少し待っててくださ……」
「やだ、行かないで……」
空腹と寂しさでニルはベスビアナイトの腕を掴んだ。
手が顎になっているニルが掴むということは噛みつくと同義。
顎の牙がベスビアナイトの皮膚を捉える。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
ぱっと顎を放したニルが布団の上で頭を抱えた。
「大丈夫ですよ。少し牙が食い込んだだけです。心配いりません」
頭を撫でたベスビアナイトはニルに笑顔を向ける。
「少し買い物に行ってきます。大人しく待っていてくださいね」
「……はい」
ニルはドアを出て行くベスビアナイトを見つめた。
さっきは間違って噛んでしまったのに、許してくれた。
優しいベスビアナイト。大好き。ずっと一緒。
ああ、でもベスビアナイトは美味しかった。
少しだけだったのに。今まで食べたものの中で一番美味しかった。
「お腹がすきました」
けれど、ベスビアナイトは大人しく待っていろと言っていた。
「でも、お腹がすきました」
ふらりとニルはベッドから立ち上がる。
「お腹がすきました」
だめ。ベスビアナイトとの約束。
だめ。だめ。だめ――!
「おなかがすきました」
――――
――
「ニル、ただいま……ニル? どこですか?」
帰ってきたベスビアナイトはしんと静まり帰った部屋を見渡す。
何時もならニルが飛びついてくるというのに。
「あ、ベスビアナイト帰ってきてたのですか」
部屋の隅に座っていたニルが顔を上げる。
「ニル、心配しました……血がついてます。怪我をしたんですか?」
ベスビアナイトはニルの顎に血が付いているのを見つけた。
「……けが、してません。おなかがすいてました。あれ? でもいまはすいてません。えへへ、ベスビアナイトが帰ってきました」
「ええ、ただいま」
ぎゅうとベスビアナイトを抱きしめたニルは満足そうに微笑む。
おなかがおなかがすきました。
とてもとてもくるしいです。つらいつらいです。
おなかがすいたら?
いただきますってしておいしくたべればいいのです。
おいしいです。おいしいです。おいしいです。
「……おい、また家畜がやられたってよ」
町に出ていたベスビアナイトは過ぎて行く噂話に耳を傾ける。
どうやらここの所、頻繁に家畜が荒らされているらしい。
痕跡から大型の肉食獣だろうとも。
それらしい足跡が無いことが不可解であると住民は不安がっていた。
この町も潮時だろうとベスビアナイトは瞳を伏せる。
「ニル、今すぐ出発の準備をしてください」
家のドアを開けたベスビアナイトはベッドの上のニルにマントを被せた。
「どうして? ニルはおなかがすきました」
手短に身支度をしてニルの頭を撫でるベスビアナイト。
「大丈夫、次の街で美味しい料理を食べましょう」
「はい」
フードを被せたニルの腕を掴んでベスビアナイトは駆け出す。
その後を何人かの足音が追いかけていた。
「おい、逃げたぞ! あいつ怪しいと思ってたんだ」
ベスビアナイトは追っ手に振り返る。
先ほど噂話をしていた住人だった。あまり見かけないベスビアナイトの後をつけていたのだろう。ベスビアナイトは唇を噛む。
男が銃を構えた。
このままではニルに当たってしまう。
ベスビアナイトは庇うように射線に立った。
打ち出された弾丸はベスビアナイトの胴を撃ち貫く。
その瞬間、ニルから真っ白な力の奔流が巻きあがった。
「よくもベスビアナイトを――!!」
「ニル……、だめ、です」
ベスビアナイトを攻撃され怒りで我を忘れているのだ。
あんなに優しい子が歯をむき出しにして怒りに身を任せている。
其れこそが魔種という存在の怖さだ。
「全部全部! ニルが食べてあげます! 一人残らず全部! ベスビアナイトを傷つけることは許しません!」
獣のようにニルは暴れ狂った。全てを飲み込む白き獣。
――僕が、守れなかったからです。
ニルを白き獣にしてしまったのは僕のせい。
絶望がベスビアナイトを飲み込む。
黒く浸食するように思考が深淵へ落ちていく。
「ごめんなさい、ニル……」
慟哭は懺悔に。希望は絶望に。
「どうしてベスビアナイトが謝るのですか? ベスビアナイトは悪くありません」
ぎゅっと大切な人を抱きしめるニル。
あたたかくて、このまま溶け合ってしまいたい。
「ベスビアナイト、次の街はおいしいものがありますかね?」
無邪気な笑顔が眩しかった。この笑みを守れるのは自分だけ。
「ええ、おいしいものありますよ、きっと」
――僕はニルの味方です。
世界中を敵に回したって、ニルの傍にいます。
そのためなら。
●
幸せの園。誰にも邪魔されない二人だけの楽園。
たった二人。幸せに満ちた光の中でニルとベスビアナイトは笑っていた。
「ふふ、ニルおいしかったですか?」
ハンカチでニルの口元の赤を拭き取る。
「はい、きょうはご馳走でしたね。良い子にしていた甲斐がありました」
ベスビアナイトにぎゅっと抱きついたニルは頭を擦りつけた。
「それはよかったです」
ニルの水色の髪をふわりと撫でてベスビアナイトは目を細める。
ベスビアナイトはニルの髪に口づけた。
「ニル、愛してますよ」
「ふふ、ニルもです。ベスビアナイトが大好きです」
口を失ったニルの代わりにベスビアナイトは瞼から首筋へキスを落とす。
くすぐったさに身を捩るニルが愛らしく。逃げる首筋に甘噛みをした。
「えへへ、今日のベスビアナイトは甘えん坊、ですね?」
「ええ、たまには甘えたくなりました」
「いいですよ。いっぱいニルに甘えてください」
ニルは大きな顎の手でベスビアナイトを抱きしめる。
お互いのコアが触れて、じんと魔力が呼応した。
甘い痺れがコア同士に流れ、ふわりと意識が緩む。
「ベスビアナイト」
「ニル……」
お互いを呼ぶ声が重なり合った。其れだけで幸せに充ちていた。
何人を犠牲にしてきただろう。
数え切れないほどの夥しい数をニルの為に捧げた。
すべてあますことなく。ニルは平らげた。
罪があるとするならば、ニルではなく自分にあるのだろう。
世界を敵に回してもニルを守ると誓った自分がすべての咎を背負う。
――だからこれは最後の晩餐。
僕がニルの瞳に映る最後の夜。
でも、置いていったりしません。
僕を食べたニルはもう生きることはできません。
結実の術式を掛けてもらいましかたから。
ニルを誰かに奪われるのは嫌だから。
誰かに殺させるぐらいなら、僕と一緒に終わりを描きましょう。
「ずっと、ずっと一緒ですベスビアナイト」
「はい。永遠に愛してます」
不思議と怖く無い。
これで一緒になれる。離れる事の無い永遠を。
シトリンとベスビアナイトのコアがくっついて、溶け合う。
お互いの色を混ぜ合って。
光の中で、美しい少年たちが静かに眠る。
誰にも邪魔されることのない美しい夢の中で――