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『死の凝る箱庭』より

登場人物一覧

アーマデル・アル・アマル(p3p008599)
灰想繰切
アーマデル・アル・アマルの関係者
→ イラスト
アーマデル・アル・アマルの関係者
→ イラスト

●ヒトとして
 少年は、とうの昔に『少年』ではなくなっていた。
 故郷にいた頃からイシュミル・アズラッドが危惧した通り。戦いの最中に『冬夜の裔』が感じた通り。そして、アーマデル・アル・アマルを『一翼』としてしか求めなかった通り――少年カーミル・アル・アーヒルは『器』としてその肉体を残すのみで、魂は『七翼』に喰い破られた結果断片的ながらも真正『七翼』として存在していたのだ。
 既に限界を迎えて燃え尽きたスーリヤと違い、アーマデルによって打ち倒されたカーミルの肉体が消えることはない。このまま捨て置けばやがてこの滅びの地にて朽ちていくだろう。この地であれば、万が一屍人として蘇ったとしても誰かを襲うことはないだろう――が、しかし。
「……カーミルを、弔いたい。いいだろうか」
『…………』
 機嫌の悪そうな舌打ち以外は返さなかったが、明確な否定はしなかった『冬夜の裔』。それを許可と捉えて、アーマデルは『少年カーミル』の亡骸を抱えた。
 未だ趨勢定まらぬ決戦の最中、向かったのは豊穣の地、高天京郊外にある自身の領地だった。『根の国の洞』と名付けた区画に整備した墓地の、柘榴の実る木の根本。そこを『カーミル』だった少年の墓とした。
「柘榴は、彼岸と此岸の間に生るという。ここからなら往きやすいだろう」
 簡素ながら棺を作り、その中へ亡骸を寝かせて蓋をする。閉じる前に、もう一度――眠っているような少年の顔を、記憶に残して。
(今でも、お前に対して特別な執着が湧くことはない。倒すべき障害で、今は送るべき死者で。それ以上のものは……)
「ここ、成仏する気がない霊達の楽しい溜まり場になっちゃってるのが少し気になるんだけどね。大丈夫かな?」
 アーマデルを思考から引き戻したのは、気楽な声で発せられたイシュミルの不穏な言葉だった。
「だから、墓地の隅の柘榴を選んだんだ。他はそういう霊で賑やかだろうしな」
「その柘榴も、だよ。『七翼』の墓標が『一翼』の象徴でもある柘榴だなんてさ」
「……それは」
 返答に困るアーマデルへ、イシュミルが悪戯っぽく笑う。
「全く、『一翼』と『夜告鳥』に送られるなんて、『七翼』にしてみればこの上なく気分が悪いだろうね」
「『夜告鳥』は『七翼』と直接の因縁はないだろう? イシュミルもカーミルの担当ではなかったはずだが」
「んー……まあ、今ならもういいかな」
 棺を納める墓穴を二人で堀りながら、イシュミルはひとつの秘密を明かす。
 『夜告鳥』の先祖返りとして医療技官の高い素質を持つイシュミルが、『七翼』の強い素質を持つカーミルを担当しなかった理由。以前はただ「相性が悪かった」としか言わなかったが、本当はカーミルから個人的に疎まれていたのだ。彼自身も何故イシュミルが憎いのかよくわからないまま本能で嫌っていたようで、恐らくはそのレベルで既に『七翼』の因子がカーミルに深く影響を及ぼしていたのだろう。
「神話では、『夜告鳥』が『一翼』を強引に孵したせいで新たな権能を与えられたからねぇ。『一翼』を妬む『七翼』は、『夜告鳥』も憎いんだよ」
「……だが、他の『七翼』の暗殺者達はそんな風には」
「私が先祖返りで、カーミルは因子が強すぎた。それくらいの要素が重ならない限りはね。それとは関係なく嫌ってくる人もまあ、いるにはいたけれどね?」
 ちらりとイシュミルが振り返った先には、棺を固く縛る『冬夜の裔』。
『……何だ』
「別に? さて、穴はこれくらいでいいんじゃないかな。棺を納めて、弔ってあげようじゃないか」
 深い穴を掘り終え、棺を納める力仕事はアーマデルと『冬夜の裔』が担った。その時でさえ『冬夜の裔』はアーマデルに対しては一言たりとも口を聞かず、人の心を読みにくいアーマデルでも流石に話しかけられないと感じてしまうほどの機嫌の悪さを滲ませていた。
 そこまで不快にさせるほどの心当たりがアーマデルには全くなく、困惑は深まる一方だったが――今は『一翼』の加護を宿すものとして。死者に寄り添い、送り出すものとして。
 棺の上から土を埋め戻し、アーマデルは墓標となる柘榴へ祈りと願いを捧げた。
(カーミルを乗っ取った『七翼』の欠片。お前を『カーミル』というヒトの器に収めたまま、ヒトの魂として送り出す)

 縁とは運命の糸。
 巡って捩れ、縺れて廻る、その繰り返しが円環を成す。
 ――どうか往くべき処へ。

●廻る縁の紡ぎ方
 弔いが終われば、まだ終わっていない戦いへ急ぎ復帰すべき――なのだが。
 さすがに、ちょっと、そろそろ、後回しにはできなくなってきたので。
「イシュミル……」
 誰にどう話すか迷った結果、アーマデルが頼ったのはイシュミルだった。
「どうしたの、そんな深刻な顔で」
「……『冬夜の裔』の機嫌が悪すぎる。ここまで悪いこともあまり無くて、どうしたものかと……」
「むしろ機嫌がいいことの方が珍しい気がするけど、今回のはいつから?」
 事実を言われてしまえば何も反論できないまま、アーマデルは認識できている限りの情報を伝えた。滅びの地でのカーミルとの決戦の折、『冬夜の裔』に終焉獣の対応を任せた辺りからどうにも指示以外の話を聞いてくれない、と。
「……カーミルとの戦いで。カーミルじゃなくて終焉獣の相手を」
「カーミルは『冬夜の裔』の戦い方と相性が悪かった。だから力を発揮しやすい方へ回ってもらおうと……『冬夜の裔』もそれはわかっているらしかったんだが……」
「…………」
 最近では珍しく自信なさげなアーマデルの話を聞いたイシュミルは、しばらくの沈黙の後――深く、長いため息をついた。額まで押さえて心底呆れている。
「あのね、アーマデル。それは、キミが悪いよ」
「…………」
「解せぬーって顔しないの。何が不満なのかちゃんと言わない彼も、全く非がないとは言わないけどね?」
「彼は不満らしいことは何も言わなかったんだぞ?」
 真剣に問うてくるアーマデルに嫌な予感がしつつも、イシュミルはまだ答えを躱そうとしていた。
「それは……言わなかったというか、言えなかったというか……」
「何故?」
「……」

「「…………」」

 アーマデルは本気で『冬夜の裔』の不機嫌の理由を知りたかったし、ここまで聞いただけでは何もわからないから質問を重ねている。一方で、イシュミルは何となく不機嫌の理由がわかりながらも、それを自分の口から言うのは流石に憚られたのだ。『冬夜の裔』の性格と性質をよく知るために。
 ――あと、シンプルにめんどくさいのもあったが。
「……ねえ、キミが出てこないなら私が好き勝手喋っちゃうけど。いいの?」
 当の『冬夜の裔』本人は、カーミルの埋葬を終えた後は用が済んだとばかりに霊体化している。近くにいるはずの彼へイシュミルが呼び掛けてみても、応える様子はなかった。
「命令なら聞いてやる、って感じかな。どうする?」
「『冬夜の裔』、……出てきてくれ」
 控えめながらも主に喚ばれれば、『冬夜の裔』はあくまで『使役霊』として姿を現す。俯いて跪く彼は、対等に話をしてくれそうな雰囲気ではなかった。
「私は席を外すから、後は二人で直接話し合ってみなよ。喧嘩してもいいけどほどほどにね?」
「いや、あの、席を外されると困るというか……喧嘩をするような理由もないんだが……」
 二人から離れようとしたイシュミルが、困惑するアーマデルの声を背に受けて天を仰ぐ。洗脳も解けて肉体も強くなって、伴侶まで得て、世界の滅びをかけたような戦いにも出向いていてどうか無事に戻ってきて欲しいなー、などと願っていたのが少し前のことなのである。
 ――だめだこの子。根本的なところでまだまだ全然だめだ。
「……『主』の『命令』なら彼は聞くんでしょ? 命令したらいいんじゃないの。『機嫌が悪い理由を正直に話せ』って」
「命令……で、話して欲しいのではなくて。対等に打ち明けて欲しい、というか……」
「じゃあもう殴り合うしかないんじゃない。そっちの方がうっかり本音を吐き出すタイプでしょキミ達」
「提案が雑になってきている気がする……」
 イシュミルの提案の数々に困惑するばかりで、『冬夜の裔』へなかなか指示を与えないアーマデル。すると、『冬夜の裔』はその姿を炎に包んで消えようとしていた。
「あ、待ってくれ! 用事はある、話があるんだ!」
 慌てて呼び止めれば、炎は散って再び『冬夜の裔』が姿を現す。相変わらず黙って跪いたままだが。
「立ってくれ、『冬夜の裔』。あんたの考えが知りたい」
『……何の話だ』
 ようやく返事をしたものの、『冬夜の裔』が立ち上がることはなかった。それでもよしとして、アーマデルはそのまま話を続ける。
「立場は主従の契約でも、嫌な命令なら断ってくれて構わないんだ。今までもそうだっただろう。でも、あんたはカーミルとの決戦では断らなかった。妥当だとも言っていたじゃないか」
『言葉通りの意味だが? 適材適所、負けられない戦いで実に妥当な判断だったと思うが』
「本当は、やりたいことがあったんじゃないのか」
『あったとして、今更知ってどうなる。カーミルは死んで、『七翼』は送られた。もう終わった話だ』
 取りつく島もないとはこの事だ。終わったこととしているくせに、当の本人の態度が全く割り切れていないのである。だからこそアーマデルは問いをやめられないのだが、どうにもならない事と片付けてしまいたい『冬夜の裔』は頑なに答えない。
 二人を見ていたイシュミルとしては――もう果てしなくめんどくさい。
(これ、放っておいたら何日でもこのままかなぁ……)
 この後戦線へ戻るアーマデルが、気がかりを残したままなのは良くない。その為にもこの問題は解決してしまいたい。一番手っ取り早いのはイシュミルが説明してしまうことだが、恐らくそれでは根本の解決にならない。アーマデルが聞きたいのはやはり『冬夜の裔ほんにん』の声だろうし、まかり間違って『冬夜の裔』の矛先がこちらに向かうのは絶対に避けたいイシュミルだった。
「アーマデル。ちょっと」
 相変わらず解せぬ顔で二進も三進もいかなくなっている彼へ、イシュミルが耳打ちをする。
「(……そんなのでいいのか?)」
「(それが一番誤解がないでしょキミ達は。本当に手がかかるんだから)」
「(すまない……?)」
 イシュミルが助言を終えて退くと、アーマデルはいつかの決闘の時のように指先を切ってその血を垂らした。
 『冬夜の裔』との契約を切ったのだ。
『……アーマデル?』
「これで今は主従じゃない。使役霊だから主に従う、なんてことはしなくていい。これでも何も無いって言うなら……」
『…………』
「……えっと。『冬夜の裔』のわからずやー……? いや、わかってないのは俺の方なんだよな……?」
 契約まで切っといて駄目だこいつ――――。
 「お前の入れ知恵だろ」と言いたげな視線を『冬夜の裔』から向けられたイシュミルはそっと顔を逸らした。
『……とりあえず、しょうもない理由で契約を切るな。そこまでされても、無いものは無い』
 とっとと契約を戻せと促されるが、やはりまだ声が怒っているのだ。だいぶ呆れが強くなってはいるが。
「無いはずが無いだろう。確かにあの戦いのやり直しはできない、だが不満があったなら謝りたいとは思ってる」
『……謝るだけか?』
「謝って……できる限りのことはしたい、とは……」
『そういう所だぞ。今でも無性に――お前を殺したくなるのは』
 跪いていた『冬夜の裔』がゆらりと立ち上がったかと思うと、対話の姿勢でいたアーマデルを唐突に地へ縫い付けた。
『世の中の全てが、後から埋め合わせがきくと思ってるのか? 唯一度の機会を、お前が、目の前で奪って潰したのに?』
「……俺のせいか」
 『お前のせいだアーマデル』。『冬夜の裔』を現世へ縛る強い妄執だ。それを、死後になってまた強くしてしまったらしい。
 殺意になるほどの妄執を向けられてなお、アーマデルの心はどこか落ち着いていた。無かったことにされてしまうよりはずっといいし、洗脳されていた昔に比べれば彼の妄執もいくらかは受け入れられるようになったからだ。
「あの戦いで、俺が潰した唯一の機会……まさか、カーミルを殺すことか? だが、あんたとカーミルは」
『ああ、相性は最悪だな。だからお前の命令は正しい、俺がお前だったとしても同じ命令をしただろうよ。俺の機会など一顧だにする価値はないのだから』
「…………」
 それだけは無いと、アーマデルは思う。
 彼の言葉を聞く限り、指示そのものは彼も正しいと確かに思っている。だが、それでもカーミルを殺す機会を奪われた不満が確かに残っている――矛盾、だ。
「……『師兄』は、『屍人』狩りに俺を連れていっても後ろに下がらせることが多かった。俺が素質も体力も、技術もなかったから」
 アーマデルは、敢えて『冬夜の裔』ではなく『師兄』の思い出を話した。
『突然何だ。何が言いたい。カーミルに対して俺が足手纏いだったということか?』
「そうではなくて。俺は、師兄が俺を守るために、そうしてくれたのだと思っていた。いつも気にかけてくれていたから……危険から遠ざけてくれていたのだと」
 例え、本人の本当の意思がそれとは違うところにあったとしても。アーマデルはそうして守られていたと受け取っていたから、『冬夜の裔』に対してもそうしたのだ。一度カーミルと戦って、消滅の危機に晒された彼を守るために。
『ハッ……言い訳ならもっとマシなものを用意しろ。結局は、俺ではカーミルの相手は務まらないから外した、それだけのことだろ』
「違う、俺は万が一にもあんたに消えて欲しくなかったんだ! あんたなら終焉獣を任せてもうまく捌いてくれると――」
『俺はそうやって前線から下がらされた!!』
 アーマデルの腕を握る『冬夜の裔』の手に力がこもる。妄執に燃える指が食い込んで痛いほどだ。
『お前にわかるか? わかるはずないよな? 死ぬ思いで手に入れた場所が、唯一度の失敗で奪われる絶望なんぞ……辛うじて与えられた場所さえ、お前のせいで……お前さえいなければ俺は……!』
「…………」
 剥き出しの恨み言。似たような言葉をアーマデルは昔にも向けられたことがある。あの時はその意味がよくわからなかったが、今は少しはわかる気がした。
『生きてる間は、結局何もできなかった。だが、今なら。『一翼』に使われる『英霊』として『七翼』のカーミルを倒せたら、少しは俺の命にも意味ができるはずだった……それすら、もう』
「……それができるなら、消えても構わなかったのか。あんたは」
 彼の吐露を聞くうち、気が付けばアーマデルの口からそんな言葉が出てきた。
 それは、なんだか、嫌だと感じたのだ。
「神話で『七翼』を砕いた『英霊』達は、皆相討ちになったんだぞ。あんたは死に場所にするつもりだったかもしれないが、俺は嫌だ」
『お前……』
「俺にとって、俺を導いてくれた『師兄』は一人だ。ここにいる、妄執の主で、『冬夜の裔』と呼べる縁もあんただけだ。あんた、俺の最期を見るまで消えないって言ってただろう。俺より先に消えてもよかったのか?」
 死者の安らかな眠りのために。『冬夜の裔』が満足して消えられるなら、カーミルと戦わせてやるべきだったかもしれない。それができなかったなら、償うべきだろう。
 だが、彼に望まれてもアーマデル自身の命は差し出せなかったように、彼の望みであっても彼が消えてしまうこと自体がアーマデルは嫌なのだ。それだけは叶えてやれない。
 少なくとも、今はまだ。
「俺は、嫌だ」
 もう一度、アーマデルははっきりと伝える。『冬夜の裔』はしばらく沈黙してから――軽く笑って腕を放した。
『昔みたいに大人しく謝ってたら、まだ傷付け甲斐もあるものを。わからず屋はどっちだ、子供の我儘かよ』
 その笑い方は自嘲のそれではなくて、もう少し明るいもののようにアーマデルは感じられた。しかし子供の我儘と言われれば、アーマデルの記憶と少しばかり齟齬がある。
「昔は意思らしい意思を持たなかったから……我儘を言った覚えは……?」
『あ? 巫山戯てんのか? お前にどれだけ手を焼かされたか今ここで並べ立ててやれるが?』
「はいはい、そこまで。せっかく血を流さずに片付きそうなんだからやめようねー」
 『冬夜の裔』が片手にナックルナイフを出現させたところで、イシュミルが止めに入る。
「まあ、手を焼いた数なら私もキミに負ける気はしないけどね?」
『お前と張り合う気はない』
 言い返しながら『冬夜の裔』が立ち上がり、アーマデルから離れる。完全に解放されたアーマデルは、やっと立ち上がることができた。
「何だかその、すまない」
「フフ。でもこれで、満足に戦えそう?」
 イシュミルから悪戯っぽく笑みを向けられる。
 アーマデルは――彼と、『冬夜の裔』とを見て、確かに頷いた。
「戻ったら、昔の苦労話も聞かせてくれるか。迷惑をかけた事実は変えられないが、認識することはできる」
「多すぎて覚えてないからいいよ。誰かさんはいちいち覚えてるかもだけど」
『俺は妄執の英霊だぞ。当然だが?』

 ――だから、行ってこいおいで

 彼らそれぞれの答えを背に送り出される。
 因縁の更に先、世界の存亡をかけた決戦へと――。

おまけSS『あわよくば死に場所として』

●最初で最期の機会
 襲撃は突然だった。
 領地の一角から突然終焉獣が湧き出したのだ。
「カジキマグロ達はどうなって……いや、それより数が多いな、弾正にも知らせて応援を頼むか」
『そんなレベルで収まると思うか』
 ひとまず戦闘力を持つアーマデルと『冬夜の裔』が対応したが、倒して消える数より増える速さの方が圧倒的に上だ。この領地には過去の依頼で匿ったオンネリネンの子供達もいる。彼らを危険に晒すわけにはいかない。
「彼女達は私が避難させるよ。アーマデルはローレットに応援を急いで」
「だが、終焉獣は――」
 イシュミルにそこまで言いかけて、アーマデルは得体の知れない感覚に襲われた。

 久しく感じたことのなかった、寒気のような、恐怖のような感覚。
 逃げろ、離れろと内から強く訴えるものがあって、足が勝手に後ずさり、とうの昔に完治したはずの腕が疼いた。

『……気付いたか、お前も』
「『冬夜の裔』、あんたもわかるのか?」
あいつ・・・は昔から別格だった。忘れるものかよ』
 その身を構成する『妄執』の炎を猛らせて、『冬夜の裔』はアーマデルに背を向ける。
『俺が引き受ける。お前はローレットへ急げ』
「でも、あんた一人じゃ流石に」
『お前一人がいたところで足りないって言ってんだ!』
「……っ!」
 そう言われては、アーマデルがこの場に残る理由がない。
 誰も失いたくない。叶うなら自分が守りたい。だが、自分だけではどうあっても足りないのなら――。
「……すぐに応援を連れて戻る。だが、俺は誰も諦めないからな。イシュミルも子供達も、あんたもだ! 誰も犠牲にはしないから……『必ず生き残れ』!」
 『守れ』でも『倒せ』でもなく、『生き残れ』と命令を残して、アーマデルは駆け出していった。

「霊の使い方が上手くなったねぇ、彼」
『命令でも難しいモンはあるんだがな』
「……キミ、まさか」
 自分も子供達の避難へ向かおうとしたイシュミルが、思わず立ち止まった。
『お前はわからないのか。群れの向こうにカーミルがいる』
「カーミル……え、何で? 彼、行方不明だったよね?」
『お前達とは違う時期にこっちへ飛ばされたんだろうよ。詳しいことは知らんが、俺の不完全な素質でも感じる。強い……いや。強すぎる・・・・『七翼』だ』
 素質の差は、ある程度までは努力で幾らか埋めることができても、それではどうにもならない部分もある。『冬夜の裔』――生前のナージーとカーミルの間には、決して埋まらない実力差があった。
 更に、この時の二人は知るべくもないが、この場に現れたカーミルは暗殺者の少年カーミル・アル・アーヒルではなくその器を乗っ取った真性『七翼』の欠片だったのだ。『冬夜の裔』が一人で押さえきれる相手ではない。
 相手が真性であることを知らなくとも、アーマデルの命令を守るのが非常に難しいであろうことはこの時点で彼自身が一番理解していたのだ。
『ああ……でも、何故だろうな。気分はこの上なくいい。こんな機会があるなら、『一翼』の使役霊として目覚めたのも無駄じゃなかった』
「……一応聞くけど。キミはそれでいいの、『ナージー』」
 不機嫌なことが多かった彼の声が妙に清々しい。気味が悪いほどに。
 イシュミルが背中越しに尋ねると、少しの間の後に『冬夜の裔』が笑った。
『心配御無用だ、簡単に消されてたまるかよ。相手があいつなら、尚更……腕の一本じゃ済まない傷を刻んでやる』
「そう。じゃあ、そっちは……任せるよ」
 もしかしたら、これが最期になるかもしれないけれど。
 もしかしたら、全てうまく行って、間に合うかもしれないから。
 イシュミルはいつも通り、ただ任せて走った。
 『冬夜の裔』もいつも通り、終焉獣の足止めと殲滅と――その先のカーミルへと向かった。

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