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追憶の幻

登場人物一覧

銀城 黒羽(p3p000505)
銀城 黒羽の関係者
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 記憶とは時に不可解なものだ。ある時は、何度も確かめて間違いなく憶えたはずのものが、どう頭を捻っても出てこなくなってしまう。かと思えば別の時には、すっかり忘却の彼方に置いてきてしまったとばかり信じて諦めていたものが、全くもって脈絡のない、それどころでない時に限ってぽろっと零れ出てきたりする。
 さる賢者曰く。人は真実を希求するものゆえに、真実と人の記憶とは似たものである……求めれば遠く、背けば近く、時にはすっかり似て非なるものが、蜃気楼のようにすぐそこに佇んでいる。
 だとすれば今、銀城 黒羽が目の当たりにした光景が、そのような、人間の精神が産み落とした白昼夢ではなかったなどと、はたして彼自身胸を張って言えただろうか? 何故ならそれは、あまりにも現実味というものを感じさせてくれない、甘美な夢まぼろしであったのだから……かつて不幸な遭遇の結果として、全ての記憶を失った男にとっての。

 黒羽と彼女の“初めて”の出会いは、喧騒ざわめく日暮れ後の街角、それも仕事にあぶれた半グレの若者がたむろするような、お世辞にも治安のいいとは言えぬ界隈での出来事だった。広い通りに幾つもの露店が立ち並んでいるにもかかわらず、どことなく不穏で殺伐とした雰囲気が漂うダウンタウン。いっそのこと誰かが突然殴りかかってきてくれたなら、黒羽は彼らの遣る瀬ない鬱憤を一身に受け止めて、それから飯にでも誘ってやって、ささやかな幸福くらいはもたらしてやれたのかもしれぬというのに。
 けれども住民たちの鬱屈は、わざわざ護衛用らしき自動人形まで連れてやって来た男にまで、無意味に向けられたりはしなかった。向くのは自分たちよりもさらに弱そうな相手――たとえば、こんな場所でもここがまるでのどかな田園であるかのように自然体に振舞う、ひとりの場違いそうな女性などだ。
 女性を取り囲む屈強な男らの放つ剣呑な雰囲気に、その時、黒羽は眉を顰めたものだ。ならば次の瞬間、体が動いて、男たちと女の間に割り込んでいたのは彼にとっては自然なことだったろう。
「余所者が俺らの町で余計な首を突っ込むんじゃねぇ!」
 顎を捉えるチンピラの拳。黒羽がもんどり打って倒れれば、彼らは女のことなんてすっかり忘れて嘲笑い、寄って集って暴行を加える。ああ――気が済むまで続ければいいさ。黒羽も自嘲気味に哂い返すが、気になるのは彼の顔を見て、驚いたように佇んでばかりの女のことだ。
 どうした? 今のうちにとっとと逃げてしまってくれればいいのに。
 魔種や化け物どもさえ相手に殴られ、斬られ、刺され、焼かれた黒羽にとっては、この程度の暴力など暴行のうちにも入らない。けれども……彼の側は幾らでも付き合ってやれたとしても、相手の根気が続くかは別だ。彼らはきっとどこかで飽きて、その前に何をしようとしていたのかを思い出すだろう。だというのに彼女は立ち去りもせず、驚いたような、悲しんでいるような、それでいてどこか安堵したような表情を浮かべたままで、じっと黒羽のことを見つめている――幸いにもチンピラどもが退屈し矛先を変えるより早くメイドロボの橘さんの堪忍袋の緒が切れて、主人護衛モードで大暴れし彼らを追い払い終えるまで。

「格好の悪いところを見せたな」
 立ち上がった黒羽は服の砂埃を掃い、そのまま立ち去ってしまうつもりだった。
「待って」
 女が呼び止める。感謝の言葉でも告げるつもりだろうか? が、他人のために身を投げ出していながらも、それが自分のエゴであることを彼は知っている。ただ我が身で人を救えれば、それで十分なのだ……感謝されるようなことをしているわけじゃない。
 ……けれども。
 彼女が黒羽に発した言葉は、彼には思いも寄らないものだった。
「私の闘気が移っちゃったんだね。ごめんね、黒羽君……」

「おい待て、アンタは俺を知ってるのか!?」
 思わず女の両肩に掴みかかろうとして、途中で固まったように動きを止める黒羽。それで彼はたった今自分が、危うく、儚げな彼女を毀しそうなほど必死になっていたのだと気付く。
「済まん……どうやらアンタは俺を知ってるようだが、生憎、俺はアンタを知らん。俺は旅人ウォーカーだったはずだが、こっちの世界に来た後で記憶を食われちまったらしくてな……」
 ばつの悪そうな顔をした時には既に、固まった腕は再び動き出すようになっていた。
 頭を掻く。その時、そっか、じゃあ私のことも、と小さく囁かれた声が、どうにもむず痒く耳の奥に残り続ける。
 悪いが、アンタのことを教えてくれ、と尋ねてみる。が……彼女はどこか母の慈愛にも似た優しげな微笑みを湛えたままで、懐かしそうに黒羽を眺めるままなのだ。
 ふと気付く。彼女は、大切な人だったのではなかろうか? その『大切』というのがどの程度のものなのか――友人なのか、恋人なのか、それとももっと別の関係なのかまではさっぱり判らぬが、こうして彼女を思い出せぬままでいることは、ひどい罪悪なのではあるまいか……?

 慈愛の眼差しを決して絶やさぬ彼女の唇からは、今、どうしてるの、という他愛もない世間話のきっかけだけが零れ出た。
「見ての通り、自分を傷つけてばかりの殴られ屋家業さ」
 彼女があまりにも旧知の相手に訊くように尋ねてくるから、半ば自罰に近い言葉で返す。
「謙遜でしょう?」
 見透かしたかのようにさらに戻ってくる言葉。おまけに、こんな洞察までついてくる。
「別に、傷つけられたがってるようには見えないもの。それよりは、もっと別の信念を持ってるように見える……たとえば、誰も傷つけたくない、なんてね」
 ああ、どうして知っているんだ。
 その通りだと正直に答えることくらいしか、黒羽にできることはない。この世に生を受けた者、全てに幸あれと願っているのは確かなんだから。誰かが傷つく様子は見ていたくないし、誰も傷つけずに済むならそれに越したことはない。
 目の前の女は気付くだろうか、とふと思う。だというのに黒羽自身はそのために、自らが傷つくことすら厭わずにいる矛盾に。
「辛くない?」
 矢継ぎ早の、彼女の心配そうな声。全く辛くないなんて言ったらそりゃあ嘘になる。そりゃあ誰かを傷つけぬという理想に殉じることを、甘美な栄誉として受け容れれば別だ……けれども理性がそれを律してしまう。それは殉教者としての自分に酔うことだぞと。愉しめば、お前の信念は地に堕ちてしまうだろうと。

 きっとその理性の警鐘は真実ではあるけれど、一方で昔と比べれば、自身が傷つくことに苦痛を感じなくなってきたことも事実ではあった。そのことに対する当惑を――見知らぬ他者に洩らす類のものではない心の動揺を、しかし気付けばこの目の前の女性に吐露してしまったのははたしてどういうことだろう?
「それでいいんじゃないのかな。黒羽君、他人には悟らせないようにしてただけで、昔から根性だけはあったんだもの……きっと、それが馴染んできただけなんだと思うよ」
 黒羽を、女は受け止めてくれる。すると不思議にもその分、心が軽くなる。過去の自分のことなど彼にはさっぱり解らないけれど、少なくとも今の自分の遣り方を、彼女に後押しして貰ったように思えて。
 ……だから。
「例えば、どんな相手と向き合ってきたの?」
 そう彼女に問われた後に思い返せば、様々な相手の姿が瞼の裏へと浮かんだ。盗賊たちだって相手にしたし、動物や怪物の類も多かった。魔種だっていればあの“魂食み”――黒羽自身から過去を奪った、あの存在だっていた。
「中には、命を救ってやることのできない奴だっていたさ……俺だけがどんなに望んだところで、世界がそれを許さない――俺が傷つけなくても誰かがやらなくちゃ、集まるはずのパンドラは世界から零れ落ちていって、結局は誰も彼もが幸せを奪われちまうんだからよ!」
 そんなこと、頭では理解できても、納得なんてして堪るか。ああそうだ、それが今の生き方を選んだ自分にとって、きっと最も辛いことなのだと改めて自覚する。
「だとしても、俺はせめてものことをしてやれたと信じたいのさ。あいつらは確かに死なねばならないとされたかもしれないが、生きてきた意味だけは決して無駄じゃなかったと俺は信じさせてやれたんだ、と。世界に憎しみを向けられたと思った奴は、その憎しみのせいで自分は殺されると恐れたかもしれないが、俺だけはそいつらを、そいつらが世界に向ける絶望や憎しみまで含めて愛してやれると信じさせてやることができたんだ、とな……」

 そこまで語ったところでまたばつの悪そうな顔をして、しまった、語りすぎてしまったかもしれないと、黒羽は女の顔色を覗った。けれども彼の心配とは裏腹に、女はどこか安心したような笑みを浮かべたままで、満足そうに頷いている。
「……ちとばかり自分語りが過ぎちまったな、姿こそ知り合いかも知れないが別人同然の俺が自分のことを語っても、アンタとしても気味の悪いだけだろう?」
 そう尋ねてみれば彼女はむしろ良かったと答え、さらに何事かを聞き出そうとした。待ってくれ、とお手上げのポーズをしてみせる黒羽。
「随分と長く話しちまったが、昔の俺を知るアンタから見て今の俺はどうなんだ? 昔の俺だったら今の俺をどう評してくれそうだ? 昔の俺は今の俺を見て、幸せにしてくれると思ってくれるんだろうか――」

 けれどもそんな黒羽の疑問は、突如として遠くから響いてきた声に妨げられたのだった。
「アニキ! あいつですぜ俺らを邪魔した余所者は!」
「どうれ、この町でのルールってやつを教えてやらねえとなぁ?」
 すると彼女は、これ以上は迷惑かけられないからと囁いて、すり抜けるように黒羽の許から零れ落ちてゆく。
 幻のように現れて、夢のように黒羽を追憶の世界へと招き寄せた彼女の後姿は、再び蜃気楼のようにどこか遠いところへと消えていった。

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