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3月_日
登場人物一覧
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沈んでいく。
沈んでいく。
真っ赤な海の中を、沈んでいく。
苦しくはない。むしろ、心地よい。
知らない場所なのに、理解している。いいや、理解し始めている。思い出し始めている。
沈んでいく。
沈んでいく。
ごぽりと、口から空気が漏れた。
誰にも伝わらない言葉を吐き出したのだ。
嗚呼、またここか。
ぱしゃりと水が跳ねたような音と共に目を覚ました。
覚醒したと言うには妙に頭が冴えている。今しがたまで金床を叩いていたみたいに、なんの靄もかかっていないのだ。
自分の体を見回すが、おかしなところはない。先程まで水の中に居たような気もしたのだが、体の何処も濡れては居なかった。
「ここは……?」
奇妙な感覚だ。頭ははっきりとしているのに、それまでの記憶がない。目を開けば知らない場所に居たというのに、それまで意識を失っていたという感覚がないのだ。
不思議な脈絡のなさは、まさにこれが夢であるように思わせた。
夢と言うには、いやに現実感の強いものだが。
「まったくさあ、いい加減にしてくれないかな」
違和感に戸惑っている内、背後から声をかけられた。いいや、それは声をかけられたと言うより、聞こえるように口に出した独り言のようであった。
「カレシの次はフィアンセか。全く悲恋の呪いを纏った武器がいいご身分だな。呆れて声も出ないよ」
振り向くと、そこには自分が居た。自分のようだと錯覚する何かが居た。
「少しぐらい自覚したっていいんじゃないかい。毎度、説教を垂れるこっちの身にもなって欲しいね」
「何を……」
「何をじゃあないよ。指摘するほうだって恥ずかしいんだ。わかっているのかい? まるで思春期の自己分析みたいじゃあないか。妄想だけならまだしも、実体験となると赤面するね」
何を言っているのか。そう言おうとして、思わず目をそらせた。この自分そっくりなそいつの言うことに、心当たりがあったからだ。
思い返せばそういうようなことはここのところ続いていたように思える。なるほど、確かに我が事となれば恥ずかしくもある。このような状況にも関わらず、顔が熱くなるのを感じていた。
「呪いへの対抗策を進めていることは知っているよ。だけど、レリックインゴット。あれは高すぎて数が揃えられない。一介の鍛冶屋には手が余る」
「それは……」
「それに、万が一、揃えられたとして。コアをどうするつもりだい。自分じゃあどうにもならないじゃないか。命を、核を、顔も知らない他人に預けなきゃいけないって。そんなの、できっこないんだろ?」
こちらを馬鹿にしたような態度を取りながらも、目の前の自分の言うことは聞き分けのない子供を諭すかのようだ。優しく、ゆっくりと、説き伏せてくるようだった。
「それに……いいや、今回はこんなところか。ほら、構えなよ。少しはやるようになったんだろうね?」
そう言って、細剣を構え、切っ先をこちらに向けてくる。溢れ出す敵意。突き動かされるように己の分身である大鎌を構えられたのは、これまで蓄積されてきた経験によるものだろう。
突きこまれる刃。鎌の刃で受け止めるが、レイピアの刺突とは思えない剣圧が全身を震わせる。
二度、三度、四度。連続して繰り出される刺突は殺意を隠そうともしない。眼球、喉、心臓。守らねば致命となりうる箇所を容赦なく狙ってくる。
「くそっ、鎖は、やっぱりでないか……!」
「学習しなよ。ここじゃあそれは使えない!」
後ろに下がろうとしてバランスを崩した。見れば、軸足の裏が地面に張り付いている。局地的に表面を凍化させたのだろう。バランスを取ろうと上半身を傾けるが、それは決定的な隙でもあった。
「金もない、腕も立たない。どうしようもないな、なまく――なんだ!?」
喉を狙った突込。しかし、その必殺は突如二人の間に現れた壁によって阻まれた。
刺突の勢いに耐えることはできず、砕ける壁。しかし、間違いなく呪いの細剣は届くこと無く、その瞬間を大鎌が見逃すはずもなかった。
ゼロから億へ。飛び跳ねるように、押し込めたバネを解放するように、静動の境目を限りなく縮めた急を持って距離を詰める。
呪いの顔は未だ驚愕のそれ。混乱から立ち直る前に、戦いの終着を狙う。
振りかぶる大上段。渾身を込めて振り下ろされる大鎌。流石にすんなりと開きになってくれるわけもなく、大ぶりのクリティカルヒットはしかし細剣によって阻まれる。
しかし如何な剛剣を備えていようと、獲物の重量差を覆しうるものではない。受けきれず、体勢を崩した呪いに向けて、先程のお返しとばかりに刃を差し向ける。
防がれようが構わない。防ぐ細刃ごと折ってしまえばいい。砕いてしまえばいい。一度、二度。足りない。三度、四度。もっと。五度、六度、幾度にも、振るい、切り裂き、ぶち当て、へこませ、何度も、何度も――
「――負の思いが宿った糸よ、縛れ」
その一言で、サイズの体は、糸によって拘束されていた。
「これ、この色は……!?」
ピンク色の糸。力を込めても切れる様子はない。無理に引きちぎろうとすれば、こちらの皮膚が裂けてしまいそうだ。そしてサイズはこの糸に見覚えがあった。
「ハァッ、ハァッ……くそっ」
荒い息を吐く、自分そっくりなそいつ。しかしこちらが動けないのをいいことに、そいつは悠然と呼吸と整えると、ゆったりとした動きでこちらに向き直った。
「まったく、見せつけてくれるよね。無自覚に惚気けているのかい? こっちは若干うんざりしてきたよ」
やや吐き捨てるように、語気は強く。
しかしそうしている間にもなんとか糸から逃れようと試みる。ゆっくりと姿勢を変えれば傷つかず放れることもできそうだが、果たしてそれを待ってくれる相手かどうか。
「一手足りなかったな。だけどそれが――」
こちらの思惑を理解しているのだるう。自分の顔をしたそいつは再び細剣を構えると、こちらがしたように渾身の一撃を見舞うべく、弓の弦のようにその身をきりきりと引き絞り、勢いよく絶死の刺突が飛んでくる。
「――致命的だな!!」
目を見開いた。剣の軌道を見切るためではない。これから自分がすることに、覚悟を決めるためだった。
「借り物の糸を悪用された状態で倒されるわけにはいかない!」
身を捩る。糸から強引に体を逃がす。裂けてもいい。切れてしまってもいい。あたりをつけて、しかし間違いなく覚悟を決めて、糸から逃れ、絶対の一撃を回避する。
距離を取り、思わず膝をついた。
強烈な疲労感。極一時的にも驚異的な精度と集中力を持って絡みつく糸から逃れた結果、時間と反比例するように労力の負担がのしかかってきたのだろう。
ごっそりと何かを持っていかれた錯覚が全身を苛んでいた。
頬に軽い痛み。糸に触れたのだろう。手を当てれば、ぱっくりと裂けていた。他にも、服の何箇所かが裂けてしまっている。
しかし、これで逃れられたのなら奇跡的と言ってもいいのかもしれない。
立ち上がる際に、足元に転がっていた、壁の欠片を拾い上げる。
茶色く、硬いようで脆い、甘い香りの、それは――
「――チョコレート?」
かじってみれば、確かに期待通りの甘い味が脳を満たしていく。
奇妙なほどの幸福感。その一口だけで、もう負けることはないのでは無いかと感じる。その一口だけで、合切無敵であるかのように思われた。
自然と笑みが溢れる。鎌を持つ手が軽い。今なら負けやしない。目の前の相手とまた切り結ぼうと――
「いや、もういいよ」
自分の顔をした相手がため息を付いていた。なんだか呆れているような、諦めてしまったような、そんな顔をしている。
「何で食べるまで気づかないんだか。この状況で心に入り込み、守ってくれるものなんてわかりきっているだろうに」
もう一度ため息をつかれた。
なんだろう、なんだかよくわからないが責められている気分だ。
「自覚が薄いから、こんな状況に陥っているのか? じゃあ必要なのは情操教育? 誰がやるんだよそれ……え、僕?」
ぶつぶつと、急な独り言を始めてしまった。
正直なところ隙だらけであるのだが、なんとなく、だからといって攻撃していいものではないと、理由はわからないがそいつの次を待つことにする。
「ハァ……まあ、いいや、今回はここまでだ」
そいつが指をぱちんと鳴らすと、足元が急に液体に変わっていた。重力の多分に漏れること無く、体は急速に沈み込む。
溺れてしまうのではないかともがいたのも束の間。そこではなぜか呼吸ができて、苦しくも辛くもない。
むしろ、温かい。
包まれているような安心感に、疲労感からの眠気が強く圧しかかる。
微睡みながら、微睡みながら、速度は緩やかになり、ゆったりと落ちていく。
いいや、沈んでいっているのだ。
沈んでいく、沈んでいく。
真っ赤な海を、優しいと感じながら。
沈んでいく、沈んでいく。
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「…………またやった」
ベッドから体を起こして、サイズがまず行ったのは頭を抱えることだった。
ちゅんちゅんと、外からは朝を告げる爽やかな音が聞こえてくるが、心の中は憂鬱だ。
見回して、すっかり赤くなってしまったその部屋を、自分が無意識の内に操作したのだろう血液にまみれてスプラッタなその部屋をこれから片付けるのかと思うと。
朝から盛大に、心の底から思いっきり、ため息を付いたのだった。