SS詳細
3月_日(追記)
登場人物一覧
●余談、あるいは
「……どうしようか、これ」
血まみれになった自室を見て、大きくため息をついた。
大怪我を負ったわけではない。襲撃者を追い払ったわけでもない。それでも間違いなく、この散らばった赤は自分が原因と言えるものだった。
寝ぼけ眼をこすり、ぼうっとした頭を抱えて唸る。染み込んだ血液は、水洗い程度でそうそう落ちてくれるものではない。壁紙を張替え、家具を塗り直し、臭いを消し去る。そういった今後の行動を考えると、手間に寄る面倒さとかかるであろう費用に頭痛がする思いだ。
上半身を起こした姿勢のまま、前に倒れ込む。ぽすんと掛け布団に顔面が収まり、心地より睡魔がまた首をもたげてきた。海に浮かんだような浮遊感。このまま微睡みに任せて二度寝と洒落込みたいが、悠長にしていていいわけではない。
善は急げと言うだろう。いや、部屋中の血を拭き取るという作業は、字面だけでは到底、善と呼べはしなかったが。
「とりあえず、無事な家具の確認だよな……」
もう一度深くため息をついてから顔を上げる。
そこは、赤と黒でできた世界だった。
「――――え?」
「いや、戻ってくるのが早すぎるよ。ていうか呼んでないんだけど」
強烈な疲労感を覚えて、頭を振った。視線をやれば、そこには自分そっくりの誰かがいる。
自分の呪いを、そのものを体現したような誰かが。
「何か未練でもあったかい? それとも、繋がりを持てるような……あったね」
その誰かが先程の自分とそっくりそのままなため息をついて、こちらに向かってくる。友好的な相手ではない。逃げ出すか、構えるか。しかし行動を起こそうとしたその身は、激烈な気だるさのせいか、上手く動かすことができなかった。
そうしている間にも、そいつは手を伸ばせば触れられるだけの距離まで近づいてきている。
「縁が酷く希薄だけど、それでもお前の問題には関わっている。今のところは枷でしかないね。僕が預かっておいてやるよ」
そいつの手のひらが頭に触れる。そうしてずぶずぶと埋め込まれていく。得体のしれなさに対する気持ちの悪さはあったが、肉体的な不快さや苦痛は感じなかった。
何秒か、何分か。ようやっと頭から離れたとき、そいつの手には糸巻きのようなものが握られていた。そいつはそれを、天に翳すようにしながらまじまじと眺めている。
手をのばす。それを返して欲しいと思う。よくわからないが、それを失ったことで、胸のどこかに穴が空いたような心持ちであるのだ。一体全体、それが何であるのかを思い出せないが、そうであることが、酷く苦痛であるように感じられるのだ。
懸命に手を伸ばす。だが、それでもまとわりついた疲労感は身を動かすことを許さず、自分とそっくりなそいつのところまでたどり着くことはなかった。
「あ……」
そいつの手の中で、糸巻きが消えていく。どうしてもそれが何であるのかを思い出せないというのに、そうされたことはとても悲しいことであった気がした。それがとても、大切なものである気がした。
なのに。
「安心していいよ。重しになりすぎないように封印するだけさ。なくなったわけじゃない。いつかまた出会えたなら、返してやるさ」
きっとそんな日は来ないだろうけどと、そいつは付け加えた。出会う度、どこか嘲笑うような、聞き分けのない子供の愚鈍さに呆れるような、そんな態度であったそいつが、その時はどうしてだろう、優しく見えた。
ひどいことをされた気になっているのに、そいつの行動は、紛れもなく優しさから来てるように見えた。
だから、それ以上、返してほしいと喚くことはしなかった。それが失われることは、どうしてだかとても悲しいことであるはずなのに。失われていくことを、受け入れている自分もまた存在している。
「できることはここまでかな。あとは僕も、見守るしかない。大丈夫。覚えちゃいないさ。覚えていないから、きっと辛くもない。だから今度こそ、平穏で、穏便に生きておくれよ?」
額に突きつけられた指先。それが軽く自分を押しやると、また深く深く赤い水の中を沈んでいく。寝ぼけ眼。胸の中の空虚。微睡み。瞼が重い。目を瞑る。ゆったりと。
目を開いたら、掛け布団に突っ伏している自分が居た。
どうやら、本当に二度寝を―――なんだろう。
何かが足りない気がする。何かをなくしたような気がする。
つんとくる血の匂い。赤いものに塗れてはいるが、いつもの部屋。いつもの自室。怪我ひとつない自分。それでも、何かが足りないのだ。
それはまるで思い出せはしなかったけれど。ひとつとして心に引っかかるものはなかったけれど。
自分の中にある、温かいものの一部がぽっかりと穴空いてしまったようで。
苦しくて。締め付けられるようで。
涙を流すことは出来ず、ただ無音の慟哭を持って泣きはらした。