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思いひとひら
登場人物一覧
久し振りに訪れた『廃墟』に響くヨハンナの靴音。
所々崩れたその場所は、ヨハンナにとっての住処であった。
最近では手入れも儘ならないから、雑草が至る事所に生えている。
寝室へと向かったヨハンナは広いベッドへと腰を下ろした。
ふと、ベッドの下に落ちていた包帯を見つけ拾い上げるヨハンナ。
「これは……」
赤い血がついた包帯は、かつてメリーノに剥ぎ取られたもの。
胸に僅かに燻った焔にヨハンナはその包帯をぎゅっと握り締める。
それはヨハンナが首に烙印を刻まれた時に巻いていたものだった。
――――
――
「どうしたの? その首の包帯!」
メリーノの声が寝室の壁に反響する。ベッドの上でメリーノはヨハンナの襟首を掴んだ。
「いや、これは……その依頼で怪我したンよ」
確かに血が滲んでいるけれど、それは何処か上から塗りつけたような広がりを見せている。
メリーノのじとっとした目がヨハンナを射貫いた。
その瞳を真っ直ぐに見つめて居られなくて、ヨハンナは視線を逸らす。
「ぜーったいうそ! よーちゃんは嘘をつくとき目を逸らすのよ! だいたいそんな所怪我して無事なわけないでしょう。見せなさぁい!」
ヨハンナをベッドに押し倒し、馬乗りになったメリーノはヨハンナの首に巻かれた包帯を剥ぎ取る。
白い首筋には紅い烙印が刻まれていた。メリーノはその烙印を指でなぞる。
「なぁに? これは」
「何でも無い。ただの怪我だ」
「本当に? こんなカタチの怪我があるもんですか。どういうことかちゃんと説明して。じゃないとこのままちゅーするわよ。唇を噛んで血もあげるから」
烙印を押された者は強い吸血衝動に駆られる。元が吸血鬼であるヨハンナにとってメリーノの血を見るだけで貪りたくなるものである。されど、それは犯してはならない罪だ。
メリーノが大切な人であるからこそ、暴力のままに血を吸うことがあってはならない。
顔を近づけてくるメリーノの肩を掴んで押し返すヨハンナ。
「わかった……から、今は離れて」
顔を逸らしながら観念したようにヨハンナはメリーノと少し距離を取ってベッドの縁に座る。
「この前の戦いで……これ着けられちまって、血を見ると吸いたくなるから」
「吸えばいいじゃない?」
「いやだ。吸いたくない。めーちゃんの血だから吸いたくない」
今でも耐え難い吸血衝動に襲われているのだ。それを抑えようと拳を握り締める。爪が食い込み掌に痛みが走った。けれど、その痛みにより一瞬でも衝動を忘れられる。掌から溢れる血の代わりに花弁がベッドの上に落ちた。
「その花弁も……その烙印の影響なのね」
花弁を拾い上げたメリーノはそのまま、まじまじと見つめるように指先を動かす。
手で顔を覆い隠すヨハンナを横目に、メリーノはその辺にあったガラス片で左の掌を切り裂いた。
「な……何してンだよ!」
「だって、よーちゃんこうでもしないと血を吸わないでしょ? でも、よーちゃんは吸血鬼でそれが必要なのよ。だったら別に私の血を吸っても構わないとおもうのよね」
メリーノの掌から赤い血がぽたりと落ちる。
途端に湧き上がる衝動にヨハンナは口を覆い隠し耐えていた。
「やめ……て、くれ」
ヨハンナは口を押さえながら涙を浮かべる。
大切な人が零す血はそれだけで極上の香りとなるのだ。
それを口にすれば何れだけの至福が得られるだろう。
――吸いたい。吸いたい。吸いたい。
ヨハンナの思考が吸血衝動に塗り替えられる。
「だーめ。そんな顔をしてたら身体に悪いわ。ほら、よーちゃん?」
口元を覆っている手を無理矢理剥がし、ヨハンナの口に指を突っ込むメリーノ。
「ぅぐっ……!」
口の中に広がる指の異物感と、それに纏わり付く濃厚な血の味。
ずっとこのまま吸い続けていたいような、至福の時間がヨハンナを支配した。
「そうよ。そのままよ。よーちゃん」
メリーノはヨハンナの舌を撫でる様に、血を彼女の口へと流し込む。
ヨハンナが罪悪感を感じてしまうことは無いのだ。
血など好きなだけ吸えばいい。何を躊躇うことがあるというのだろうか。
飢えた身体は血を欲する。ヨハンナは水晶の涙をぽろぽろと零した。
「この水晶も、烙印の影響なの?」
右手で摘まみ上げたヨハンナの涙。揺らめく灯りに反射してキラキラと輝く。
もし、この水晶を妹に見せてあげることができれば喜ぶだろうか。
メリーノは睡眠を取らない。同じベッドで寝ていてもヨハンナの隣で寝たふりをしている。
ヨハンナが深い眠りについたあとこっそりと抜けだし、ぼんやりと外を眺めている。
彼女の痛覚は鈍く、ガラス片で切った左の掌もあまり痛くはないのだ。
だから、ヨハンナが心配して涙を零す必要など何処にも無い。
血を吸いたいなら吸えばいいだけの話しなのだ。
ヨハンナがメリーノを傷つけたくないのは、彼女に依存しているからだろう。
メリーノの性格からして、手を離せば何処かへ消えてしまいそうな雰囲気がある。
だからこそ、追い求めてしまうのかもしれないとヨハンナは血を含みながら思った。
流れ往く涙も、おおよそ初めて見せるものだ。
大切な人が自分の『罪』のせいで傷付いているなんて耐えられなかった。
ヨハンナの吸血への強い拒否は『復讐すべき男』の血を与えられ吸血鬼にされた事への忌避だ。
憎き男に化け物へと変えられてしまった。同じものへと堕とされてしまった。
「そんなに泣かなくてもいいのよ。よーちゃんは泣き虫なのね?」
「……」
違うと言いたかったけれど、舌を弄ばれている状況では喋られない。
きっと、メリーノもそれが分かっているのだ。
依存しているとヨハンナも自覚がある。
メリーノが居なくなってしまえば自分はどうなってしまうのだろうか。
考えるだけでも、底の無い恐怖が襲ってくるようだ。
吸血衝動とそれを拒否する気持ち、メリーノへの罪悪感でヨハンナは精神的に疲労していた。
戦いの疲れもあったのだろう。血を吸いながら、ヨハンナはメリーノに倒れ込む。
「あら、よーちゃん寝ちゃったの?」
ヨハンナの口から指を抜いたメリーノは、その辺のシーツで彼女の口元を吹く。
そのままベッドに寝かせ、ヨハンナの寝顔をじっと見つめた。
メリーノはヨハンナの唇を指先でなぞる。
「マズルガードが必要かしらぁ?」
誰に烙印をつけられたのかなど興味もない。
ただ、ヨハンナの精神がすり減ってしまうのは可哀想である。
根無し草のメリーノへ好意を示してくれた相手だ。多少なりとも、可愛げを感じている。
もし、自分という存在を御し得るのであれば、ひとときの夢を見せてあげてもいいと思っていた。
メリーノは柔らかな言葉の裏に、確固たる目的を持っている。
それを邪魔されない限り、傍に寄りそうことは有り得るだろう。
「ふふ、これからどうなるのか、楽しみねぇ」
未来がどうなろうとも、いまこの時はきっと幸せであるのだから。
「ねえ、よーちゃん?」
話しかけたメリーノを夢現のまま引き寄せるヨハンナ。
――――
――
そんな、記憶に思い馳せ。ヨハンナは包帯を焔へと変えた。
小さく燃えた焔はやがて跡形も無く消える。
ゆっくりと立ち上がったヨハンナは、かつての住処だった廃墟を後にした。