PandoraPartyProject

SS詳細

揺れるグラスのニコラシカ

登場人物一覧

ショウ(p3n000005)
黒猫の
杜里 ちぐさ(p3p010035)
明日を希う猫又情報屋

 幼い頃ならば抱き締めてと素直に言えた。一緒に寝ようと手を繋げばあやすように頭を撫でてくれた。
 骨張った大きな手が好きだった。長い指先が頬を撫でてくれるそれだけで安心してられた。その腕の中に居れば、世界の中心は彼だけだったと思えたのに。

 背がぐんと伸びだした頃に、幼い子供の様な口調を止めたのは過去との決別だった。
 精神的な成長を表わすようにやけに大人びてしまったのだと周りは笑うけれど、これの自身にとって惜しむべき過去に別れを告げた事を表わすのだから好意的に受け止めて欲しかった。
 微睡みの淵で子猫のように転た寝をして居る時間は過ぎ去って、ちぐさも幼い子供から、青年に近付きつつあった。
 まだ幼い身の上であるかのように思えた姿は情報屋としては十分に役には立ったのだ。それでも、身に起きた変化が彼の働き方にも大きな影響を及ぼした。
 幼いからこそ人の心の柔らかい所に潜り込み情報をかすめ取る、だなんて。そんな難しい仕事をやってのけられていたちぐさは今は居ない。
「ちぐさ」
 ローレットのカウンター越しに呼び掛けられてから「はい」とちぐさははっきりとした返事を返した。黒い猫の耳に、すらりとした長身の男は「この仕事を頼めるかい?」と振り返る。
「勿論! 少しだけ待って貰っても大丈夫?」
「ああ、それは勿論。ちぐさの書類整理は丁寧だから助かるよ」
「ショウが教えてくれたからだよ。僕だけじゃ全然」
 頚をふるふると振ったちぐさにショウはにこりと微笑んだ。気付けば周りからは親子のように見て取られることが多くなった。
 彼の影響を受けたような口調も、振る舞いも。ショウ、ショウ、と呼んでその傍を歩き回っていた時間が自身にそうした変化を及ぼしてくれたというならば喜ばしい。
 最初の頃はと言えば皆が幼かったちぐさを惜しんだり、子供であった頃と同じような扱いをしていたが、それも今はなくなった。
 周囲に慣れてくれと願い出ることになったのは少しばかり愉快だったが――
「ちぐさ」
 一番最初に慣れてくれたのは、彼だったのは皮肉な事だった。
 今は危険な仕事であろうとも「ちぐさならできるさ」なんて、送り出してくれる。心配が信頼に変わったのは嬉しくて、寂しかった。
 抱き締めて欲しいと言えば抱き締めてくれた彼も、次第にそうはしなくなった。大人になれば、そうした接触は減っていくのだとちぐさは知った。
 一緒に寝ようと声を掛けたときに彼は少しだけ困ったような顔をした。眠れないのかと抱き締めてくれる事は無くなって、優しく頭を撫でてくれるのだ。
 彼から向けられる変化が、ずっとずっと、苦しくなった。彼は自分を大人として扱ってくれているだけなのに、それでも。
(今まで、ショウはお父さんみたいだったのに……今は、違うのかな。
 僕が大きくなったから、ショウは僕を一人前の大人として扱ってくれるけど、けれど――)
 父親のような存在が、そうでなくなった事が寂しいのではないのかも知れない。親離れの出来ない子供じゃないのかもしれない。
 これはもっと、根幹で。
 ちぐさは書類を整理しながらショウのことを目で追った。忙しない日々を送る彼が此方に気付いて笑ってくれる。その笑みがちぐさは大好きだ。
 それでも、子供を見るような視線がどうにもむず痒くなってしまった。違う。彼に向けられるのはもっと、もっと。
「ちぐさ?」
「ううん、これでいいかな」
「ああ、ありがとう」
 書類を受け取った彼の指先だけをじっと見ていた。その指先に触れられることが好きだから、どうしても目で追ってしまう。
 最近は可笑しいことばかりだ。ショウの行動が気になって、彼の姿を見れば、その手に触れることを、その眸に映ることだけを考えてしまう。
 体が大きく変化したら、どうしたって彼の中で幼くて目を離せない男の子ではなくなってしまうから。
(僕は、欲張りになったのかな)
 ショウが好きだという気持ちは変わっていないのに。何かが変化してしまった。
 彼が他の誰かと話しているだけで、胸がきゅっと締め付けられるのだ。当たり前の様に話して居る筈なのに、何かが物足りなくて。
 その視線の先を追いかける。彼の考えて居ることを全部が全部知りたかった。
「教えて」と告げたならば彼は困ったように応じてくれるだろうか。それでも、きっと無理矢理だ。素直な彼の言葉を聞けるわけではないのだから。
 ちぐさと呼んでくれた声音に背筋が痺れるような感覚を覚えた。締め付けられるような思いだけを抱くのは苦しくて、その感情に名前が無い事がどうしたって、辛かった。
 お父さんではなくなった。むしろ、お父さんで居て欲しくなくなった。
 そうした扱いをしないで欲しいと、そういう態度を見せたのは自分の側だったのだから。

 ――でも、誰か他の人を見るのには耐えられなかった。

「ショウ」
「ん……?」
「あのね、仕事が済んだら少し話せる?」
 俯きがちのちぐさにショウは「勿論」と頷いた。いつだって、この人は何かがあれば優先してくれることを知っていた。
 ちぐさが怪我をしたならば手当てをしてくれるし、風邪だ、病だとなればつきっきりでの看病をしてくれる。危険地帯には頑張れとは声を掛けるが、それでも本当に危険であると彼が認識する場所まではちぐさを送り込むことはない。
 守られているという実感がある。彼と過ごしてきたことで、彼の大切な存在になれたという自負もあった。それでも、それは家族のようなものとして、だ。
 共に過ごしていてショウには家族が居ないことを知った。ユリーカやプルーが家族と言えばそうだったのだろうけれど、一人きりで寂しそうだった彼の傍にちぐさはずっと佇んできた。
 この気持ちの行く末を理解出来なかった。けれど、偶然耳にした少女達の会話に想うところがあったのだ。
 気がついたら目で追っている。何時だって、その人の事ばかりを考えて居る。一緒に居る事が出来ればと、そう願ってしまう。他の誰かのものになるのが耐えられない。
 それは、何と呼ぶべき感情なのだろう。少女の苦しげな表情を見て、ちぐさはまるで自分事のようにも感じられていた。
 その相談事に耳を傾けていた少女はそれって恋だよと当たり前の様に応えたのだ。ちぐさは頭の上から大きな岩で殴られたような衝撃を受けた。
 天に嘶く雷が身を打ち付けたならばこんな感覚がするのだろうか――?
 恋。それは最も自分に遠い筈であった概念だった。親子で良い。家族で良い。傍に居る事が出来たら其れで良かったはずなのに。
 だからこそ、確かめようと思ったのだ。
 仕事が終った後、ちぐさを待ってくれていたショウの隣を歩きながら、ふと、揺れる掌を眺めて居た。
 幼かった頃はその手をぎゅっと握り締めて「早く行くにゃ」なんて言っていた。小さな子猫のような言葉遣いも、甘えた幼い子供の様な振る舞いだって止めてしまった。
 今は、大人になった。
 ――だから、あの掌が遠くて仕方が無い。
「ん?」
「……ううん」
 手を繋ごうとも言えないままに、宙ぶらりんな掌を眺めて居た。
 あの温もりが何時もより遠くに感じられて胸がきゅうと締め付けられているばかりだった。
 ちぐさの家へとやってきて食材を置きに行くショウに「それより先に、話がしたいんだ」とちぐさは震える声音で告げた。ショウは僅かに眉を吊り上げてから「どうかした?」と問うた。
 思い詰めているように見えてしまうだろうか。苦し紛れに笑った事も屹度悪かった。
 ソファーに座るように促されてからちぐさはちらりとショウを見る。変わってしまった自分たちの関係はぴったりと張付いていられるような距離でもなくなった。
「……ショウ、あのね」
「うん」
「大きくなった僕は、昔と変わってしまったよね?」
「そうだね、君はうんと大人になった」
「それでも、僕はショウが好きなんだ」
 ちぐさにショウは微笑んだ。ああ、そうだろう、受け入れてくれる。これは親子のような親愛で、きっと、恋愛じゃ無かったから。
「ショウ」
「……うん」
「僕はもっと、欲張りになったんだ。さっきだって、ショウと手を繋いで歩きたかった。けど、子供がお父さんに手を引いて歩いて貰うようなものはイヤだった。
 ショウがローレットで依頼者の話を聞くときに、相手の人がショウに向ける視線だけでも僕は嫌になっちゃう。
 ……僕はショウを独り占めしたくって、欲深くなってしまったんだって想った」
「ああ」
「……僕にとっての、はじめてなんだ。この気持ちはどういうものなのか、ずっとずっと分からなくって、苦しくって」
 張り裂けそうな気持ちを曝け出そうとしたちぐさの唇にショウの指先がそっと添えられた。思わず黙りこくったままちらりと彼を見る。
 優しい瞳が揺らいでいる。彼の眸は何時だって心を見透かすようにも思えたから、ざわつく気持ちを静められなくてちぐさはごくりと息を呑んだ。
「ずっとちぐさの事を子供だと思っていた。それじゃあ、きっとダメなんだろうね」
「僕は、ショウにとってずっと子供?」
「今はね」
 優しい声音にちぐさの唇は震えた。「僕は、ショウの一番になれない?」と問い掛けるその声音にショウはじいとちぐさを見てからその唇を親指で撫でた。
「ちぐさはこれからもっと広い世界を見るだろう。他の誰かを好きになるかも知れないよ」
「そんなことないよ」
「たら、ればの世界だ。未来がどうなるかなんて分からない。けれど――もしも、ちぐさがオレの所へと戻って来てくれるのならば……改めて、伝えさせて欲しい」
 優しい指先にちぐさは何も言えないままで唇を噤んだ。
 きっと、彼の事だけを好きになる。そんなこと分かりきっているのに。
「約束して欲しいんだ。もしも、僕がもっともっと大人になってショウの事を好きだったら」
 その時は口づけを。
 震える声音に応えるように彼は額へと口づけを落し今は此れだけと囁いた。


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