SS詳細
The Word of Paradise
登場人物一覧
意識を取り戻したソアが最初にやったことは、ぼんやりとした記憶を手繰り寄せることであった。
ソアの鋭敏な嗅覚は、篭った鉄と土石の匂いを感じ取っている。物言わぬ鉄格子の向こうにはカビのような陰鬱な暗闇が広がり、ひたひたと、ぬるい温度でソアの身体を温めていた。
(ボク、どうしたんだっけ)
貧民街で子供を見た。そこからの記憶が曖昧だ。
無視できないほどの鈍痛が全身を苛んでいる。身体の裡に封印の楔でも打ち込まれているのかと、確かめようとして諦めた。身体を起こすどころか散漫となる思考を維持することすら億劫だ。
「おきた?」
かろうじて視線を動かせば、鉄格子の向こうに小さな足が見えた。
青白い裸足、襤褸を纏った骨のような体躯。
乱雑に切られた短い黒髪から覗いているのは人間の耳で悪魔の羽根ではない。その事にソアは幾分の安堵と落胆を覚えた。
「やっと、あえた」
誰かの面影を宿す、けれども見知らぬ少年の瞳が慈愛を帯びてソアを見つめている。熱を帯びた少年の視線からソアは目を背けた。
「ずっと貴女
「その名前をどこで……」
「ある人にね、教えてもらったんだ。貴女は森の王だったのに悪魔の誘惑を受けて堕落したんだって。どうして森を捨てたの?」
「ボクは、ただ……」
マルベート・トゥールーズとよく似た顔と声で自分の弱さを責められる苦痛は茨の棘のようにソアを苛んだ。
様々な人間を助け、苦しめた自覚はある。
そして、今は何もかもがどうでも良かった。
やはり自分は弱くなったのだ。
人間に憧れ、人間になろうと努力し、獣の自分を否定してきた結果が今の自分だ。
子供だからと手が止まり、やせ衰えているから何もできないと判断を誤った。
マルベートに似た少年を見つけた瞬間、自分は確かに動揺したのだ。
「むりに動かないで。胸の肉種は血管に根をはっている。下手に抜こうとすると死んじゃうよ」
獣であった頃なら躊躇なく爪で檻と子供を切り裂き、柔らかな血肉を食物として胃の腑に収めただろう。
何を言われようとも平気だった。自分の在り方はマルベートが肯定してくれるだけで良かった。
君は正しい。
ボクは正しい。
いまは、もう、自分で選んだ在り方に自信が持てない。
諦念が精神を零へと塗り潰していく。
ソアに出来る事と言ったら力なく放り出された腕や足の先をぼんやりと見つめることだけだ。昂った感情の名残か、見開かれた目から涙が溢れ出す。
「貴女を助けに悪魔がやってきたら、二人とも同じところに送ってあげるね」
「……マルベートさんなら、こない、よ」
この場所に囚われてから、初めてソアの感情が零れた。枯れきった瘡蓋のような声だった。
「ボクに、救われるような価値なんて残ってないから。だって、弱く、なっちゃったから」
幻滅された。見限られた。
自分の思考に傷つきながら熱に浮かされたようにソアは呟く。
「だから……こないよ……」
「いいや」
暗闇の奥より、ソアの告解を否定する者がいた。
規則正しく近づいてくる足音をソアが聞き違えるはずもない。瞬きした拍子に零れ落ちた雫が床を叩く。
「私がソアを見捨てるなんてこと、ありえない」
暗闇よりもなお昏い黒が、輪郭を象る。
愉快そうに、けれども僅かに怒りの色を滲ませた真紅の瞳が炯々と浮かび上がった。
「マルベート、さん?」
「迎えが遅くなってごめんね、ソア」
ぼんやりと燭台の薄明りに照らされた悪魔はいつもの、誰もが人好きする笑顔を浮かべて立っていた。学校帰りに校門で待ち合わせするかのような、気軽な雰囲気すら纏わせている。
「助けに来たよ」
「そんな、だって、ボクはっ」
乾いた拍手が二人の会話を遮った。マルベートは静かに子供へと視線を移す。
「素敵な招待状をくれたのは君かな。随分と見覚えのある顔をしているようだけれど」
「よく出来てるでしょう?」
「何故ソアが捕まったのか、理解できる程度にはね」
僅かな苛立ちをこめてマルベートは口の端を歪める。
「約束通り、何も持ってきてないよね」
見せつけるように何も持っていない両手を挙げる。降参と呼ばれる体勢のままマルベートは視線を子供から逸らさなかった。真紅の視線が探るように子供を凝視する。
「約束は守った。ソアを返してくれ」
「うん。いいよ」
明るさすら感じる子供の首肯を合図に空気に澱みが混じり始める。刺激臭と死臭を帯びた水滴が石壁から滲んでいた。
「でも、二人とも溶けてからね」
酸に焼かれた子供の肌から煙があがっている。
マルベートの表情が微かに動く。
先ほどから、子供の言葉には殺意が無い。
ソアと自分を見つめる妄執めいた眼差しは本物だが、それ以外は空っぽだ。
四方へ感覚を奔らせれば石壁越しに蠢く気配が徐々に数を増していく。
マルベートとソアが嬲られる姿を一目見ようと用意された座席には果たして何人が座っているのだろうか。
「ちょっとした興味なんだけれど、君が私達を狙う理由を教えてくれないかな」
「貴女たちが僕のパパを食べちゃったからだよ」
「……っ」
小さく動揺したソアを隠すようにマルベートはさりげなく身体の位置をずらす。
「それは申し訳ないことをしたね。恨まれるのも当然だ」
「僕のパパは恰好良かった、筈なんだけどね。僕が思い出せるのは泣きながら命乞いして貴女たちに喰べられてる姿だけなんだ。だから貴女達を恨めと、僕を育ててくれた人が教えてくれた」
少年は焦がれるような視線をソアとマルベートへ向けた。
「成程ね。子育てとは難しいものだ」
マルベートは腕を組んで唸った。芝居がかった、わざとらしい動きだった。
「ソアにも思春期が来た。いや多少は戸惑ったが、成長した子は遅かれ早かれ何れ親に幻滅して反抗するものさ。だって見上げていた存在が、いつの間にか自分の隣に並んでいるのだからね。落胆もするだろう。だがそれは世の摂理で、子の精神が健全に成長している証に他ならない。だから親に言われた通りに、盲目的に従う子をみると思う所がある」
思春期。自分がマルベートに対して行ってきたことは、思春期という言葉で納めて良いものなのだろうかとソアは疑問に思う。
そんなソアにマルベートは片目を瞑ってみせた。冗長なお喋りはただの時間稼ぎだと教える、普段通りの表情で。
「だけどね。どんなにお互い衝突したって、そんな子供の成長を喜ばない保護者はいないんだよ。だろう、ソア?」
ソアは頷いた。眩暈の残る身体を起こして露わとなった白い胸元へと手を当てる。
「そうだね、マルベートさんっ」
枝を伸ばした紫苑が奔る。黒く焼け焦げ、落ちた肉種をソアは獰猛で壮絶な笑みを浮かべたまま踏み潰す。
「何もできないでしょう? 森の王は檻の中だし悪魔は武器を持っていない――……」
言葉を遮る破壊音は、ソアとマルベートを阻む鉄格子が歪んだ音であった。
見ていた
「どういうことだっ、何も見えぬでは無いぎゃッ」
一人の貴族が声をあげて立ち上がり、そのまま首がずれ落ちた。
「石壁の裏側が騒がしいと思ったら、こんなに隠れていただなんて」
長く伸びた五指と紅玉の鋭い爪、黒狼の毛に覆われた四肢を戒めるように緋色の革帯が巻き付いている。
豊満な肉体を惜しげもなく晒し、地獄の冥色と蒼白い燐光を宿したマルベートの巨大な翼膜がずるりと空気を舐めた。
「どうしてッ」
「私が双槍を持っているのは手加減をするためでね。この手だと挽肉になってしまうから普段は使わないんだ」
「四肢の獣化だと?」
驚愕し怯える奴隷商の傍らで暗殺者が駆けた。
「狼狽えるな。虎の精霊種ほどの剛力は無いはずだ」
勝ち誇った笑みを浮かべる魔術師がいた。
「試してみようか」
赤子を抱きかかえるようにそっと柔らかな胸で包まれた瞬間、彼らの頭は卵のように破裂した。
「弱体化の魔術壁はどうしたぁ!?」
「壊したよ」
ふんわりとした長閑な声と共に血飛沫が上がる。
悪魔の加護を受けた紫電が、石壁を、張り巡らされた防御陣を粉砕していく。
「おかえし、だよ」
瞳孔が縦に裂けたソアの双眸に人懐こさは無く、隣に並ぶマルベートに憐憫の情は無い。ただただ自然の化身として、降り注ぐ雷を朝露のように浴びながら蹂躙を成し続ける。
止まらない二匹の獣が奮うは純粋な暴力。双爪は岩を切り裂き、魔なる楔を引き千切り、謀略など介在する余地も無く、縦横無尽に迅雷が荒れ狂う。
遊戯でも捕食でもなく眼前の生命を壊し続ける天災は或る意味では傲慢な人間の愚かさによって呼び起こされた人災だ。最後の生命が消えても止まることのない破壊の舞踏には八つ当たり、ストレス解消、苛立ちの発散の意味もあったのだろう。
「ここ、地下だったんだ」
崩れた天井越しに二匹の獣は夜の天蓋を見上げた。必要以上に星は鮮やかで、月は鮮血に濡れそぼった二人の肌を真白に照らしている。
「これからどうするんだい、ソア。私達は自分の種を変えられない。変えられない以上は今日のような日が繰り返されるよ」
「マルベートさん、ボクね。こんなことがあっても……やっぱり人間が好きなんだ」
二人の足元には屍の山が築かれている。紅潮した頬のままソアは微笑んでいた。
「ボクは獣で、人間とは違う
「こんな事があっても?」
「こんな事があっても」
悪意と善意。人間という種を否定しない覚悟を決めた精霊は悪魔へ答えを示した。
「なら私は、それを応援するよ――……人生の、先輩としてね」
悪魔は嘘を吐かない。
時として人間よりも純粋な悪魔は精霊の成長を祝福した。
ほんの少しの、寂寥と共に。
おまけSS『天秤臨海』
「マルベートさん。此処はどこなの」
雷の雨に打たれ、黒々とした焦土と化した地を見た瞬間、ソアはびくりと身体を震わせた。
「私の領地のなかだよ。お陰ですぐにソアを迎えに行けた」
「来てくれてありがとう。それにしてもマルベートさんの近くでこんなことしようと計画するなんて……無謀なこと考える人たちもいるんだね」
嬉し気にマルベートの手を取ったソアの虎の耳と尻尾がぴこぴこと揺れている。それは癇癪を起す気配は微塵もない無い。いつもの、マルベートのよく知るソアの姿だ。
「私にもソアにも隙があったからね。チャンスだと思ったんだろう。纏めて炙り出せたから良かったものの、本当に心配したんだよ?」
「うぅっ、ごめんなさい」
先ほどまで天地を自由に駆けていたとは思えないほど恐縮しきりのソアをふわりと温かい何かが包み込む。
「無事でよかった」
血に濡れたソアをマルベートは抱きしめた。
マルベートの領地に仕掛けを施すなど、悪魔の食卓どころか腹のなかで勝負を挑むようなものだ。
ソアの無事を感じ取ってはいたものの、メッセージを見た瞬間に燃え盛った暗い激情は本物だ。
何事もなくて良かったとマルベートは安堵する。
「それじゃあ戻ろうか」
「うんっ」
落ち葉を踏みつけるように軽々と、二人は躯の山を踏み越え歩く。
「領地の見回りを忘れていたせいか、思ったより不穏分子が紛れ込んでいたね。幻想も、いよいよキナ臭くなってきたなあ」
「……あの子も」
「ん?」
「あの子も、ボクたちのせいで不幸になっちゃったのかな」
ソアが言うところの「あの子」についてマルベートは思考を巡らせた。
「ボクたちにパパを食べられたって言ってた」
「そうだね。私たちが人を食べた過去は変えられない。もしあの子がソアを殺していたとしたら、私は躊躇いなく確実にあの子を殺していた。そうしたら次はあの子供の育ての親が私達を殺しに来たかもしれない。悪意の堂々巡りだね」
「あの子、どこ行っちゃったんだろ」
あの時。壁裏の有象無象を攻撃対象と定めたソアとは違い、マルベートは目の前の子供を最優先の処分対象として狙った。
しかし本気で爪を振り降ろしたにも関わらず見えない何かに阻まれるように爪が弾かれたのだ。
マルベートからの援護を受け、本気のソアが奮った雷のなかですら、少年は熱の篭った視線で二人を見ていた。それが少年を認識した最後だ。
「さあ、気づいたらいなくなってたから分からないな」
「無事、かな」
ソアは少年が死者を寄せ集めた存在であったことに気がついていない。あれだけ強烈な死臭であったにも関わらず、だ。
「そういえばソアに寄生していた、あの種。どこから持ってきたんだろうね」
今は少年の正体について言及しない方が良いとマルベートは判断し、話をはぐらかすことにした。
二人とも、疲弊している。どちらかと言えば精神的に。此れ以上、悩みの種は増やさない方が良い。
「んー、あれ、前にもどこかで見たことがあるんだよね。どこだったかなあ。ひさしぶりに寄生されて疲れちゃった」
肩をまわすソアの身体を蝕んでいた戯儡の肉種は、黒睡蓮のように限られた場所でしか採れないものだ。少なくともマルベートの領内では栽培が出来ない。
例えばかつてソアの住んでいた森の近くであれば――……。
「マルベートさん。皆が来たよ」
なんだか疲れてるみたい、と付け加えたソアの声にぱちりとマルベートは正面を向いた。
血の匂いに興奮したのか、それとも荒々しく飛び出した主人を案じてのことか。黒色の一群が駆けてくる。
幸い眷属を労うための餌は豊富にある。塊肉は少ないが、幸いにして量はあるから行き届くだろう。
マルベートは一度だけ背後を振り返った。
「マルベートさん?」
「何でも無いよ」
変わらないものもあれば、変わるものもある。
「行こう、ソア」