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空だった器と移ろう日々
登場人物一覧
それは幻想の外れにある借家。南向きの窓からは柔らかな日差しが入り込み、住民をどうにも微睡みへ誘い込む。
ヴィクトール=エルステッド=アラステア (p3p007791)は「うぅん、」と小さく唸り、目元へかかった日差しに眉を寄せた。
眠たい目をぱちぱちと瞬かせるが、目元のクマは中々に強敵だ。いくら寝ても消える気配すら見せない。ヴィクトールはまだ眠れそうな様子で窓際の小さなサボテンと外の空を見た。
今日もちゃんと覚えているまま起きられた。けれどいつか、寝すぎてまた記憶を失ってしまうかもしれない。
彼の記憶は空中庭園から。眠ったまま召喚された彼は、それ以前の記憶を失っている。名前も出自もなにもかも。
だからこそ心のどこかではいつもそうやって気にしているのだけれど──寝ないわけにはいかないし、出来ることと言えば日記を書くことくらい。
そんな彼が『ヴィクトール』である1日が今日も始まる……には少々、日が登りすぎていた。
「……寝過ごしたのです」
むくりと起き上がるヴィクトール。何か予定があったわけではないけれど、それこそ1日中寝ていても文句は言われないけれど。でも、そんなに寝ていたらやっぱり忘れてしまうかも。
窓際でうんと伸びをした彼は、そこでようやく『昨夜は夢を見なかった』と気づいた。
最近は夢見が悪いことも多く、胸がつかえたような苦しさに目を覚ます。淀んだ湖、柘榴の実った島での戦い。他にもあるかもしれないが、それらに影響されているのだろう。
しかし今朝はその苦しさがない。これが毎日続けば良いのだが……期待通りとはいかないだろう。それが現実である。
顔を洗って、外に出てもまあ差し支えない程度の服装へ着替え。外に出ると冷たい風がぴゅうと吹く。まだまだ寒い空気に小さく息を吐き、ヴィクトールは歩き出した。
目的地は特にない。ただブラブラと、気の向くままに歩くだけ。
ふと視線を滑らせると、蕾をつけた木々や草花が視界に入る。その蕾が以前より大きく見えるのはきっと気のせいではないだろう。
(たまに、暖かい日もありますし……)
少しずつ、けれど確実に。冬から春へと季節が移ろっている。もう少しもすれば鮮やかで色取り取りな花を咲かせるはずだ。
「待てー!!」
「やなこった!!」
「わわっ、」
不意に後ろから子どもたちが駆け抜けていき、その風にヴィクトールは煽られる。たたらを踏んで、顔を上げればすでに彼らの姿は小さい。
「元気、ですね……」
子どもは植物と違って、元気な者はいつだって元気が良い。覚えていないけれど、自分はどうだったのだろう。
(……どう、でしょう)
もしかしたら今とは違ってあの子らのように元気いっぱいだったかもしれない。でも昔からこうやっておどおどしていたかも。どちらかと言うと後者の方だろうか、とヴィクトールは思った。
だって、そんな自分が思い浮かばないから。
そのあともブラブラと当てなく歩いて、たまに気が向いたら店へ立ち寄ってみる。飲食を不要としないけれど、それができないわけでもない。ちょっと足を休めるためにも座って、適当に注文したドリンクの水面を見つめて。
──あの日も、たまたまふらりと酒場を訪れただけだった。
1枚の写真にいたのは仏頂面の少女と、自分によく似た者。その少女は酒場の店主の曽祖母だったというが、自分によく似た者は、もしかして。
(そんな、わけが……でも、)
あの時仄かに感じた懐かしさ。仮に自分の祖父や曽祖父がとても似た人で、あそこに写っていたのがその人たちかもしれないとしたら……自分が感じたそれは何だというのか。
気のせい。まやかし。そんな言葉で片付けてはいけないような気がして。
「……あ、」
気がつけば随分と時間が経っていた。周りに座る客が一変していて、頼んだドリンクは温かいものだったというのにすっかり冷めてしまっている。
その冷めたドリンクを飲み干して、ヴィクトールは再び外へ。日は傾いてきたけれどまだ夜の帳が下りるにはまだ早く、寒さも鉄騎種である彼の体をもってすれば体調にさし障るほどでもない。
ヴィクトールはふと足を向けた公園に子どもが1人きりでいるのを見つけた。先程駆けっこをしていた子たちの1人ではないようだ。
後ろ姿は何故だか、とても寂しげで。ヴィクトールはその背中にそっと近づいた。
「……あ、あの」
「わぁっ!?」
「わっ……!?」
あまりにも気配がなかったのか──子どもがビクッと大きく肩を跳ねさせ、それにヴィクトールは驚いて声を上げる。お互いに勢いよく距離を取り、暫し沈黙が辺りを満たした。
「……あ、あの。大丈夫です……?」
その沈黙を破ったのはヴィクトール。子どもはその言葉に目を丸くすると、ぶっきらぼうに大丈夫と答えた。
(どうみても、大丈夫そうには……見えませんね)
その様子にヴィクトールは元より下がった眉尻をさらに下げる。けれど話してくれなければわからない。
──ならばきっと、無理にわかる必要はないのだろう。
「それじゃあ……ボクと、お話ししませんか」
「にーちゃんと?」
子どもが何だこいつと言わんばかりの目でヴィクトールを見る。けれども彼がベンチに座ると、小さな息を吐いてその隣に座った。
「君は、よくここにいるのです?」
「……ナイショ」
「ボクは……初めて、ここに来ました」
空を見上げると、白い雲がゆるく動いている。少し肌寒いが、日差しを阻んでいるわけでもないので耐えられないというわけでもない。
ゆっくりとした時間はローレットや幻想王都の中心部にはないもので。ああ、また微睡んでしまいそう。
「にーちゃん、こんなとこで寝るなよ」
「え……? ね、寝ないのです」
「寝そうな顔してた」
一体どんな顔だろう、とペタペタ頬に触れるヴィクトール。その様子に子どもは思わず吹き出した。
「え? ……ご、ごめんなさい、変なことした、でしょうか」
オロオロとする彼の姿まで、子どもはただただ面白かったようで。腹を押さえた子どもが少しばかり笑いを収めるまで十分な時間を要する。
「僕こそごめん。にーちゃん、変な人だ」
「へ、変な人……」
「そう。でもさ、それ見てちょっと元気になった」
母親と喧嘩したのだと子どもは言った。遊ぶ気分にもなれなくて、でも1人でいると時間が長くて。
ポツポツと始まった言葉のキャッチボールは、いつしか茜色の空になるまで続いた。
「そろそろ帰んないと。暗くなったらまたかーちゃんに怒られる」
ベンチからひょいと降りた子どもは、ヴィクトールに「またな!」と言って去っていく。その後ろ姿を見送ったヴィクトールもまた、ベンチから立ち上がると帰路へ着いた。
今日は大きくなった蕾を見て、カフェに入って、子どもと話して。
召喚当時は空の器みたいに何もなかったヴィクトールは、そんな1日が積み重なって今に至る。
昨日までも、明日からも、変化はあれど続いてきたし続いていく。色を重ねるように移ろいゆく毎日は、やがてヴィクトールという器を満たしていくのだろう。
──どうかこの先も、空っぽになってしまいませんように。