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ルビー色の言葉は軽やかに
登場人物一覧
「同じの、もう一杯」
空になったワイングラスを掲げて、何度目かのそのセリフを告げる。カウンター向こうの恰幅のいい男は、待っていたと言わんばかりに素早く新しいグラスに手を伸ばすと、木樽のレバーを下げグラスにルビー色の液体を満たしていく。
飲み干したグラスと入れ替えに差し出された一杯。口に含めば、すぐに心地よい重さの渋みが広がり――喉を潤した後、ふわりと葡萄の香りが鼻腔を抜けた。
決して高級品ではないありふれたワイン、時折声を大きくあげなければ注文すら出来ない雑多なこの喧噪。
一人カウンターのスツールに腰掛ける男――グレン・ロジャースはこの『どこにでもある』日常に根付いた大衆酒場の空気が好きだった。静かで高級な店で飲む何十年物のワインが嫌いなわけではない。だが、この酒場中に溢れた活気と、その喧噪を肴に飲むワインの方が芳醇に感じられるだけのこと。
その夜も、グレンは一人賑わう店内でワインを傾け――空いた手で伸ばした指先に、求めていた感触がないのに気付く。
(ん? ああ、もう全部食べちまったのか)
少し前まで、指先が触れるのは滑らかな皿ではなくチーズだったはず。どこぞの赤い酒飲みの友人程ではないにせよ、酒に弱くはない自負はある。故にこのままワインだけを楽しむのも一興なのだが。
(もう少し、食べたい気分なんだよな――おっ)
頬杖をつき目を店の奥にやれば、グレンの目に両手で空いたジョッキを皿を持ち歩く店員の女性が留まる。長い赤毛のポニーテールを揺らしテーブルの間を練り歩く彼女は――ノってくれるだろうか。軽く手を挙げると、両手が塞がったままの彼女が小走りでグレンの元にやってくる。
「注文? 見ての通り手が塞がっちゃってるから、大量なら置いて戻ってくるわよ?」
「いや、大丈夫。チーズの盛り合わせを一つ」
人差し指を立てグレンが微笑めば、オッケーと軽い返事が返ってくる。そのまま厨房へと向かおうとする彼女に「なぁ」と声をかけ――立ち止まったそのエプロンのポケットに、コインを一枚滑らせる。
「俺、チーズ好きなんだ――だから、頼むぜ?」
「……! 善処するわ!」
唇の端をにぃ、と上げ足取り軽く消えた店員。そうしてしばらく後に戻ってきた彼女の手元の皿には、何割増しかのチーズが置かれていて――
「イイ仕事するでしょ?」
そう笑う店員に、グレンも「最高だぜ」と快活な笑みを返した。
「なぁ、名前は?」
混雑の盛りは過ぎたのか、先程より幾分か落ち着いた店内で、先程の店員は店内を見渡そうと足を止めていた。
「マリーよ。貴方は?」
「グレンだ。さっきから見てて思ったが――マリー、随分働き者なんだな」
「あら、ありがとう! 褒めてももう何も出ないわよ?」
ひらりと手を振り、なんてねと躱すマリー。
「オイオイ、マジだぜ? 一人で飲んでると、暇を持て余して周りを眺めるわけだ。そうしたら花に目が行くのも自然だろ?」
言葉の合間に山盛りのチーズを摘まみながら、グレンの口はワインの流れに押されて軽やかさを増すばかり。
「奇麗な髪だよな、手入れも大変だろ?」
そっと赤毛に手を伸ばしても、マリーは拒否する素振りも見せずその手つきを無言で眺め、受け入れるのだった。
――そうしてしばらく、グレンがマリーとの会話を挟みながらワインを飲み進めた頃。
お代わりを、とグレンがカウンター内の男に声をかければ、マリーもその男にそっと耳打ちをし。
(お、増量サービスでもしてくれるか?)
今日はツイている。そう心の中で口笛を吹いたグレンの目の前に出されたのは――氷の入ったジョッキになみなみと注がれた、赤ワイン。
(グラスを洗うのが追いつかない――わけじゃないか)
カウンターの中には、乾いたワイングラスがいくつも並んでいる。弱くないといえど、グラスを片手以上空けてきたグレンの思考には靄がかかり。その意味を測りかねるままジョッキを手に取る。
「貴方はきっと、洒落たグラスより――格好つけずにこんな風に飲むのが似合うんじゃない?」
「――!」
グレンが危うく手を滑らせる寸前、踏み止まりマリィを見れば。
彼女は今日一番の笑顔で笑っていた。
「……いつから?」
気付いていたのか、の言葉は濁して。
実際の所、グレンは気障で軟派な――こうやって女性に声をかけるのが本性ではない。
二枚目を気取っているだけの、熱い心を持ち、誰かを護るべきことで強くなる――そんな真っ直ぐな男であり、こうやって声をかけるのは『そういうフリ』なのだった。
よほど情けない顔をしていたのだろうか、マリーは耐えきれず吹き出すと「だって、髪に触れる手つきが慣れてないのよ!」と笑い――貴方はそれでいいと思う、と付け足した。
(ああ、全く――)
客に呼ばれるマリーの背中を眺め、ジョッキで飲むワインはやけに沁みて。
グレンはただ、酒にも女性にも、まだまだ修行が必要だと思うばかりだった――。