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雪曇りの散佚
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- ヴァールウェルの関係者
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許さない、という強い言葉が、あの方の声で発せられた事に驚いた。吹雪いて白く曇る不明瞭な視界の中、重く沈んでいく意識が歯痒い。――何という、失態。これでは呆れられても、許されなくても道理であると、諦念と深い失望が、微かに残った意識を黒く昏く塗り潰していった。
ほと、ほと。不規則に立つ小さな音に鼓膜を優しく刺激され、迅香はゆっくりと瞼を開いた。見慣れた木目の天井。だが自室ではない。庭園を臨む縁側の程近く、一組だけぽつんと敷かれた布団の上に迅香は寝かされていた。ほつほつと立つ音は、屋根から雪が落ちては、庭園に積もった白雪の中に埋没していくささやかなそれだった。
じ、と、しんしんと音もなく積もっていく降雪のさまを見て、起き上がろうとするも叶わなかった。どうにも力を入れた腹が痛んで仕方ない。そも自分は何故このような場所で呑気に寝ているのだったか。寝起きの思考は遅々として答えを運んではこない。勢いは強くはないものの降り止む気配のない雪の所為で時刻も知れない。だが灯りがなくとも辺りを見渡せる光量がある事から、夜ではないのだろう。ならば尚更、自分はこんなところで寝転んでいる場合ではない。仕えるべき御仁の為、働いておらねばならぬ筈なのに。そんな焦りは、先に起き上がろうとした際にも感じた腹の痛みに阻害される。ふと触れてみれば、寝間着の帯の下に固い感触がある。何重にも布を巻きつけられているような感覚だ。まさか腹巻きでもなかろうし、怪我などいつしたのだったか。そんな事をぼうやりと考えようとして、迅香は畳に布の擦れる音を聞き、寝姿のままぴしりと居住まいを正した。
「起きましたか、迅香」
「……ヴァールウェル、様」
何故だか、主君の名を舌に乗せるのに一瞬躊躇った。いつも微笑みを絶やさぬ柔和な彼が、その刹那表情を失っていたように見えたからか。しかし僅かな緊張も、常の柔らかな笑顔で見つめられれば霧散していく。気付けば彼はいつも通りの笑顔で其処に立っていて、迅香は先からままならぬ自らの思考の方をこそ疑問視した。
「このような状態で、大変失礼を」
「いいえ、そのまま。貴方は気にせず、横になっていなさい」
柔い口調の中に、有無を言わせぬ何かが含まれていたように感じたのは気の所為だったか。どちらにせよ、不敬ながら碌に起き上がれもせぬ体では、主の言う通りにする他はなかったが。
「目が覚めたのなら、食事にしましょう。食べられそうですか?」
「それは……はい、しかし――」
「では、決まりですね」
本当に、珍しい。それは自分の仕事だからと、けれど動きの鈍い体では言い淀まざるを得なかった迅香の言葉を最後まで聞かずに。ヴァールウェルはそのままくるりと踵を返して元来た道を戻っていってしまった。
残された迅香は布団を被り直して細く息を吐く。寝起きで混濁した意識、覚えのない体の不自由、主の違和感。此処でこうして目覚める前、自分は一体何をしたのだったか。してしまったのだったか。いつも通りとはいかぬ小さなひずみがじくじくと胸を刺す。どうにもすっぽりと抜け落ちているらしい記憶を辿ろうとするも上手くいかない。厳重に布を巻きつけられた胸やら腹やらがやけに痛む。主の得意とする医療技術をもってしてもこれ程までかと、他人事のように考えて寝間着の上から自身の体に触れる。丁寧に戒められた体は恐らく主の処置の賜物なのだろう。それがこそばゆいような、申し訳ないような、複雑な気持ちで迅香はそっと瞳を閉じた。
「はい、あーん」
「……あの、ヴァールウェル様」
「あーん、ですよ」
「いえ、それには及びませ――」
「迅香?」
「……」
「あーん」
「……。……あー……」
ふふふ、と笑った主が、うん、よろしい、と上機嫌に頷く。匙に乗った粥はほこほこと湯気を立てて、くったりと煮えた米粒がてらりと光っていた。あーん、という掛け声と共に主から差し出された粥の乗った匙を、迅香は大きく口を開いて口内に迎える。噛まずとも円滑に喉を通っていく粥は水分が多く、米も殆ど形を保っていない。薄い塩味に刻んだ梅のさっぱりとした酸味が、すうっと体に染み渡っていくようだった。
小さな時分にだってされた事のない、手ずから食事を食べさせてもらうという、まるで甘やかされてでもいるような処遇に迅香はどう反応して良いものか戸惑っていた。両親の記憶は朧気だが、親にしてもらうならともかく、仕えるべき主にこんな事をさせているという現状が上手く呑み込めない。幾ら遠慮しようとしても今日に限ってやたらと押しの強い主は頑として譲らない様子であったし、大人しく従えば嬉しそうに表情を綻ばせるので無下にも出来ない。
ふう、ふう、と、匙で粥を掬うたび、主は唇を窄ませて念入りに息を吹きかける。伏し目は長い睫毛が影を作り、息を吹くたびにふわりと持ち上がる前髪が迅香の目前でちかちかと輝く。匙を迅香の口まで運ぶという動作の為に自然と寄った主の体は、至近の所為で冴えた空気越しに温みまで伝わってくるような気さえする。ぱちりと合った視線は近すぎて、思わず数度の瞬きののちに逸らしてしまった程だった。口に含んだ粥は、入念に冷まされすぎた所為か、ぬるいのを通り越して端がひんやりと冷たくなっていた。
深皿に盛られた粥を全て平らげると、痛み止めだと言って粉末の薬を白湯で飲まされる。具合はどうですか、と静かに尋ねる主に、何と答えるのが正解なのか。再び布団に横たえられた迅香は測りかねていた。
「……ヴァールウェル様」
「何ですか? 迅香」
盆を下げに立ち上がろうとした主を見ていられず、迅香が彼を呼び止める。再び床に座り直した主は、優しい眼差しでこちらを見下ろしていた。それにぐっと躊躇う気持ちが押し寄せるも、これ以上甘える訳にはいかないと迅香は理解していた。――思い出してしまったからには。
「……このような怪我をして、最後まで貴方様をお守りする事が出来ず――」
邸宅の近隣の村から、凶暴化した魔物の被害が相次いでいる故、退治してほしいと依頼されたのが発端だった。大型の魔物が一体のみという話だったので、他に協力者を募る必要もあるまいとヴァールウェルと迅香の二人のみで討伐に当たった。それが間違いだったとは思っていない。実際魔物は情報通り一体きりだったし、二人で十分に撃退出来るものだった。足りなかったのは注意力、そして迅香個人の力量だ。
「そればかりかお手を煩わせてしまった事、大変申し訳ありません」
その時はある程度勢いのある降雪状態で、視界が著しく悪かった。虫の息となった魔物が俊足にて、一瞬迅香の視界から消えた。魔物は前線で攻撃を仕掛ける迅香相手では勝ち目がないと思ったのか、後方支援に徹していたヴァールウェルに飛び掛かろうとしたのだ。野生の魔物一匹、多少攻撃を受けたとて命に関わる事はなかっただろう。それでも尊き主に、自分の目の前で怪我を負わせる訳にはいかなかった。手に掛けた魔物は勿論、それを看過した自分を許せなくなってしまう。高く跳躍した魔物を追い、主を庇ってその爪の突き刺さる痛みに耐えた。必死で躍り出たものだから、防御などは一切考慮していない。丸腰で一撃を受けたのが良くなかったのだろう。思いの外深々と体を抉る痛みに、迅香はぐらりと呆気なく意識を奪われてしまった。視界が、思考が闇に沈むほんの少し前、「許さない」という主のらしからぬ重い一言だけが、強く迅香の脳を揺さぶったのを覚えている。
「……許されなくても仕方のない事をしたと、思っています」
恐らく自分は、魔物を仕留めきれてもいなかったのだろうと迅香は思う。瀕死の状態とはいえ、敵性体と守るべき主を残して意識を失ってしまうなど、許されざる失態だ。だから、主から常にない厳しい態度で接されても文句は言えないし、食事を用意してもらい、剰え食べさせてもらうなど本来言語道断なのだ。横たわったままの懺悔など失礼極まりないが、それでも思い出してしまったから言わずにはいられなかった。
「……本気で言っているのですか、迅香」
しじまに響く、主の聞いた事のない音。迅香は目を見開いてその顔を見上げた。
「僕が許さないと言ったのは……怒っているのは、そんな事にではありませんよ」
「貴方が僕の目の前で、僕を庇って倒れた時。……僕は生きた心地がしませんでした」
柔和で朗らかな彼が表情を苦渋に歪め、痛みを伴うかの如く切々と言葉を吐き出す。その内容は迅香にとって驚きの連続ではあったが、慈悲深い主だからこそ納得出来る事でもあった。
「身を挺して僕を助けてくれた事には感謝しています。でも、もうあんな危険な事はしてほしくない。言ったでしょう。『僕を残して逝くなんて
断片的に聞いていた言葉の正しい意味を改めて知って、迅香は大きく瞳を瞬かせる。身に余る言葉だ。
「約束してください、迅香。自分の命を擲つような事はしないと。僕は貴方の命と引き換えに生き長らえる事なんて望んでいません」
他ならぬ主の願いならば袖にする道理もない。――けれど迅香には、主の盾となった瞬間に感じた充足も確かに存在したのだ。魔物を、恐らくは自らの力で仕留めきれなかった事は不甲斐なく、悔いるべき汚点だった。だが、自分の体一つで、主の体の、命の無事が保たれたのだ。天秤に掛けるまでもない。
「……貴方様に仕え、御身を守る事が、私の務めだと思っています」
痛む体を、いつまでも横たえてはいられなかった。上体を起こして座り込み、重々しく口を開いた迅香に察するものがあったのか。主の表情は依然として曇ったままだった。
「自分のした事が間違いだったとも、私は思っておりません」
あの時、回復を得意とする主ではなく自分が怪我を負ったからこそ、どちらもが甚大な被害を被る事なくいられたのだろう。否、それよりも何よりも、目の前でみすみす主を傷つけられたとあっては、迅香自身が自分を許せない。
「主の命に背くのは大変に恐れ多い事ですが。……そのお約束は、私には出来かねます」
自分の命程度で貴方を救う事が出来るのなら、幾らでも。それはヴァールウェルに深い忠誠を誓った日から、迅香の変わらぬ思いだった。
「身命を賭して貴方様をお守りするのが、私の使命と心得ております故」
堅い口調は、幼き頃より揺るがぬ決意の表れであり、反論の余地をなくす為の頑なでもあったのかもしれない。そうでもしなければ、優しい主の言葉に寄り添いたくなってしまうから。ぐっと布団の下で両拳を握り、主の頭を見下ろす。目線の変化で眼下に見る主の姿は、妙に小さく感じた。
「……貴方と共に生きたいと思う事が」
華奢な体から発せられる、細く小さな、頼りなげな声。
「そんなに悪い事ですか」
瞬間、息を呑む。痛ましく伏せられた瞳。微笑みを絶やさぬ彼の、沈鬱な表情。それが他でもない自分によって引き起こされて、自分に向けられている。ぎしりと軋む胸が痛むのは、怪我の所為ではないだろう。ずくりと腹奥が疼くのは、血の不足の所為なのか。細い肩が小さく震えていた。怒りか、悲しみか、どちらにせよ明るい感情によって起こされたものでない事だけは確かだ。主に、あたたかで慈愛に満ちた彼に、自分がそんな感情を起こさせている。心臓が煩いくらいに跳ねていた。何か言わなくてはと思うのに、頭は有益な言葉を見繕ってはくれない。
そんな事を、思ってくれているなんて。胸が張り裂けそうなくらいに嬉しいのに、その思いに応えるには自らの矜持を捨てねばならない。それは同時に主を裏切る事にもなる故に、絶対に違える事は出来ない。力強く握られていた両の手が解かれて、持ち上がった先で何が出来たというのだろう。頭の片隅を掠めた不敬に、ぎりと奥歯を噛み締める。
「……また、話しましょう。今はゆっくりと休んでください」
肩を落として、落胆を隠しきれぬ声色で。けれど主はにっこりと笑み顔を見せて言った。それに返した自分の顔は、どれ程惨めなものであったのか。盆を持って去っていく主の背中を追う事も出来ずに、迅香は両手で顔を覆い、声にならない苦悶を噛み殺し続けた。
- 雪曇りの散佚完了
- NM名杜ノ門
- 種別SS
- 納品日2023年12月31日
- テーマ『蒼雪の舞う空へ』
・ヴァールウェル(p3p008565)
・ヴァールウェルの関係者