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ベルリオ・トーティスの劇場。或いは、空から雪が舞い落ちる…。

登場人物一覧

イズマ・トーティス(p3p009471)
青き鋼の音色
イズマ・トーティスの関係者
→ イラスト
イズマ・トーティスの関係者
→ イラスト

●雪の気配
 冬の寒さが身に染みる。
 シンと静まり返った廊下に佇んだまま、ヴァインカルは瞳を閉じた。
 浅い溜め息を1つ零して、ふるりと肩を震わせる。
 海洋のとある街にある劇場の廊下だ。古い劇場であるためか、空気は酷く冷えていた。断熱、保温のための素材が壁面に組み込まれていないせいだろう。
「…………」
 無言のまま、ヴァインカルは壁に手を触れた。冷たい大理石の温度が、指先に伝わる。
「こういう街並みだったのね」
 そう呟いて、窓の外へ視線を向ける。
 しばらく前まで、街全体が濃い霧に覆われていたのだが、今はそれもすっかり晴れていた。時刻は夕時。徐々に夜の帳が降って来る頃合い。昼と夜の境界線。
 窓から見える静かな街の景色を見つめ、ヴァインカルは窓に映った扉の縁を指でなぞった。扉の向こうにあるのは舞台と客席……つまりはホールだ。
 さっきまで彼女や、彼女の仲間はそこにいた。
 今はいない。
 今、ホールにいるのは青い髪をした2人の音楽家だけである。
「……何に巻き込まれたのやら」
 なんて。
 そんなことを呟いて、しばらく窓から見える景色を眺めていると、背後でピアノの音色が鳴った。
 扉の向こう、ホールで誰かがピアノの演奏を始めたのだろう。
 くぐもった微かな音に耳を澄ませるために、ヴァインカルは瞳を閉じた。長いまつ毛が微かに振るえる。半開きになった唇から、音を立てずに吐息を零した。
 ピアノの音はくぐもっている。
 だが、くぐもった音からでもヴァインカルは……孤独な蛮族と称されるピアニストの耳であれば、幾らかの情報も拾えるものだ。
 例えば、その演奏技術。ピアノを専門としている風では無いが、それでも技術は十分に高い。
 強いて言うなら、右手の音が少々、硬い点が気になる。
 イズマ・トーティス (p3p009471)の演奏だろうか。どういった経緯かは知らないし、まったくもって興味も無いが、彼の右腕は鋼鉄の義手だ。
 どうしても、皮膚に覆われた生身の手で弾く演奏に比べて、鍵盤を叩いた際の音が硬くなるのだ。もっとも、義手で弾いた音が、生身の手で弾いた音に劣ると言うわけではないし、そもそもの話、ヴァインカルのようなピアニストか、格別に耳の良い者でなければ気付かない程度の音の差である。
「もう1人のあの男性……彼の演奏ではないわね」
 ピアノを演奏しているのがイズマであると看破して、ヴァインカルは窓に触れていた手を離す。耳朶を擽るこの楽曲は、確か『イライザ』と言っただろうか。
 知らない曲だ。
 少なくとも、ヴァインカルが所有している大量の楽譜の中に『イライザ』と言う題名の楽曲は存在しなかった。
「でも、この旋律はどこかで……?」
 だが、ヴァインカルは『イライザ』の旋律に覚えがある。
 その曲の題名は『イライザ』では無かったし、全体の構成もまったく違うものであったことは確かだ。けれど、所々の旋律が『イライザ』に似ている……或いは、『イライザ』の影響を受けているであろう曲をヴァインカルは知っていた。
 その曲は、なんと言っただろうか。
 いつ、どこで聴いたのだったか。
 微かな記憶を思い出そうと、思考の海に手を伸ばす。
 けれど、幽かな記憶の残滓をヴァインカルが拾うより先に、扉の向こうで演奏が終わった。
 音が途切れると同時に、ヴァインカルの意識も現実に引き戻される。
 冷たい空気の中に、ほんの僅かな曲の余韻が漂っているように思われ、ヴァインカルはそっと虚空を手で掻いた。
 その手の、指の動きは例えば、見えない鍵盤を叩くのにも似ていて。
「あぁ、分かった」
 どこかで耳にした覚えのある旋律が、例えばきっとこれから先の長い歴史の中でさえ“名曲”として残り続ける楽曲のすべてに共通しているものであることを理解した。

●魔人の賞賛
 演奏を終えたイズマの頬を汗が伝った。
 精魂尽き果て、すっかり脱力したイズマの耳に、数度の拍手の音が届いた。
 拍手を送ったのはベルリオ・トーティス。
 その姓が示す通り、イズマの血縁者……正しくは、祖先にあたる人物だ。
「いい腕だ。トーティス家が今なお音楽の道にいることを嬉しく思う」
 淡々とした声。
 降り始めたばかりのような疎らな拍手。
 光の灯らぬ暗い瞳に、感情の乗らぬ賞賛の言葉。
 青き魔人は、用事は終わりだ、と言わんばかりに席を立つと、少し乱れた衣服の裾を手で整える。
 それが、イズマには屈辱だった。
「いい腕……か」
 零れた声は震えていた。
 “いい腕”という言葉は、まぎれもなく賞賛であり、きっとベルリオの本心だろう。彼が真にイズマの祖先であるならば、こと音楽や演奏技術に対してお世辞の類を口にすることは無いはずだ。
 それと同時に、その言葉はイズマのプライドを傷つけた。
 理解していても、イズマのプライドは深く抉られた。
 ベルリオの賞賛は、イズマの演奏技能に対して向けられたものだ。例えば、ヴァインカルなどの演奏であれば、きっとベルリオはさらに上の言葉でそれを称賛しただろう。
 つまり、それだけなのだ。
 つまり、『イライザ』という曲の完成度について、ベルリオは何も言っていない。感想の1つも口にしなかったし、感情の欠片も揺らさなかった。
 イズマの演奏した『イライザ』を、ベルリオは『イライザ』という曲として聴いていなかったということだ。ただ、ピアノ演奏の技法を評価するためだけの課題曲か、或いは、単なる音の集合体のようにしか聴かれていなかったということだ。
 その事実に気付いたから、イズマは屈辱に震えているのだ。
「俺は『イライザ』を弾いたんだ」
「……イズマと言ったか」
 イズマの方を振り返らぬまま、ベルリオは言う。
「君は『イライザ』を弾いていないし、君にはきっと『イライザ』は弾けない。もはや、この私にさえも……」
 最後の言葉は、きっと独白だったのだろう。
 コツコツと暗闇の中に足音が消えていく。その足音も、ほんの数秒で闇に溶けるみたいに聞こえなくなった。

「……はぁ?」
 イズマの問いに……「『イライザ』という曲についてどう思う?」という、ひどく曖昧な質問に対してのヴァインカルの返答がこれである。
 胡乱なものを見るような目で、すっかり疲弊しているイズマをじぃと眺めた。
 時刻はすっかり夜になっている。
 イズマとヴァインカルがいるのは、大きな窓のある劇場の1室。その壁際だ。
 白い小さなテーブルと、テーブルを挟んで椅子が2脚。
 テーブルの上では、イズマが用意した紅茶が湯気を燻らせていた。
「疲れているのね。そんなわけの分からない問いを口にするなんて」
 紅茶を啜って、ヴァインカルは呆れたように肩を竦めた。
 たしかにイズマは疲弊している。日中は霧の中を駆け回り、それから楽団の指揮をして、ついさっきまでベルリオの前で『イライザ』を演奏していたのだから。
 今日という1日は、客観的に見ても非常に忙しなく、疲労が蓄積するのも当然なものだっただろう。
「わけが分からないということは無いだろう」
 劇場ホールでベルリオと交わした会話の内容は、既にヴァインカルにも伝えている。
 その上で、ベルリオから告げられた言葉の意味を……「君は『イライザ』を弾いていないし、君にはきっと『イライザ』は弾けない。」という言葉の意味を理解するための一助とするべく、ヴァインカルに質問したのだ。
「じゃあ聞くけれど、貴方は『イライザ』という曲についてどう思う?」
「……質問しているのは俺なんだけど」
「いいから。答えて」
 有無を言わさぬ、という強い意思を感じる。
 精神的蛮族特有の、物理的な暴力を伴わずして、他者を黙らせるにたる威圧感があった。
「不協和音が目立つ陰鬱で難解なピアノ曲。後は、演奏するには魔術的な素養が必要なのだろうと思う……曲名からして“誰かのこと”か“誰かに向けて”か、そのような意図のもとで作曲されたんだろうな」
 それがどうかしたか?
 イズマは視線だけで、ヴァインカルに問い返した。
 ヴァインカルはこれ見よがしに溜め息を零す。
「えぇ、そうね。私もまったく同意見。私以外のピアニストに聞いてもきっと同じことを言うわ」
「……それは、まぁ」
「歯切れの悪い返事ね。つまり、その質問に意味は無いのよ」
 言うまでもないことだけれど。
 そう前置きして、ヴァインカルは言葉を続ける。
「確かに私たち音楽家は、楽譜から音符以外にも多様な情報を拾うわ。何のために、何を思って、誰に向けて、どのような意図で、どのような人物が作った曲であるかを知ることもできるでしょう」
 紅茶のカップをテーブルに置いた。
 空いた右手を、イズマの手元へ……『イライザ』の楽譜へと突きつけて、ヴァインカルは告げる。
「それだけよ。それ以上は拾えない。見いだせない。いかに優れた演奏技法を有していても、作曲者で無い私たちには、作曲者本人の演奏を超えることは出来ない」
「その通りだ。俺だって、そんなことは理解している」
「理解しているのに、あんな質問をして……だから、疲れているのね、と言ったわ」
 休むべきだ。
 そう告げられて、イズマは紅茶に手を伸ばす。
 すっかり温くなった紅茶を口に含んで、初めてイズマは自分の喉が渇いていたことを知ったのだった。

 泥の底に沈むような、最悪の眠りだ。
 身体は重く、手足は思うように動かず、視界は暗く、脳味噌さえも満足に仕事をしていない。ただ、息苦しさと不自由さを抱えて、藻掻くことも許されないまま、どこか深いところへ沈んでいくのが分かる。
 夢を見ていた。
 それを夢と言うのなら、あまりにも退屈に過ぎるけれど。
 何しろ、そこには暗闇しか無いのだ。
 身体も、手足も、思考も、何も満足に動かせないのだ。
『俺の知らない夢だ……だけど、いずれこうなる“予感”がする』
 不快極まる不思議な夢は、けれど不思議とよく馴染んだ。
 まるで我が身にいずれ降りかかる現実であるかのように感じられた。
 暗い泥の中に沈んでいく。
 否、沈んでいるのか、それとも既に底にいるのかも分からない。
『……音が聴こえる』
 泥の中で、音が聴こえた。
 くぐもって、ぼやけた、不愉快な音だ。羽虫の群れがそこにいるかのようなノイズが、イズマの脳を揺さぶった。
 頭痛がする。
 だが、音楽としての性には逆らえなかった。
イズマはノイズの中から音を拾う。イズマの耳が拾い上げたのは、ピアノの旋律だった。
 聴いた覚えのある旋律。
 こうして暗闇の中で耳を澄ませば、世界中に存在する名だたる楽曲の多くはこの旋律に大なり小なりの影響を受けていることが理解出来た。
 『イライザ』。
 ベルリオ・トーティスが作曲し、そしておそらく未だに未完成であるピアノ曲。
 遠く、近く、音は鳴りやまない。
『あぁ、なるほど……』
 つまり、この夢はベルリオ・トーティスの心象風景であるのだろう。

 目覚めは最悪だった。
 さらに言うなら、昨夜から、夢の中、そして今に至るまで最悪の気分は継続している。
「だが、進展はあった」
 汗に塗れた髪を荒く掻き上げて、イズマはそう呟いた。

 早朝のうちに、イズマは再び劇場を訪れた。
 静かな劇場に、イズマの足音だけが響いている。
 コツコツ、コツコツ。
 反響する足音は途絶えない。イズマの意思は、その足は、まっすぐに劇場の奥へ……最上階にある最奥の部屋へと向かっていた。
 重厚な扉に手を触れる。
 カチ、と音がして鍵が開いた。
 イズマの魔力……或いは、トーティスの血に反応したのだ。
 暗い部屋だ。
 静かな部屋だ。
 カンテラを掲げ、部屋の中を照らし出す。窓は無い。壁全体にはコルク板がびっしりと張り付けられている。
 かつて、ある小説家は、光も、音も遮断された暗い部屋で幸福だった過去を想起し、物語を綴った。頼りにしたのは、暖かなミルクとビスケットの香りと味だけ。
 家族と一緒に食べた思い出の味。
 この暗い部屋は、音も遮る泥沼の底のような部屋はそれに似ていた。
「インクの匂いがするな……あれか」
 部屋の奥には、古びたピアノと作業机がある。机の上には、山積みになった紙の束。
 紙の1枚を手に取れば、およそ予想していた通り、それは楽譜だった。
『イライザ』……だろうか。
イズマが持っている『イライザ』とは所々が違っている。『イライザ』の原型……その1つと言う方が正しいかも知れない。
「全部、そうなのか……」
 積まれた紙の束は悠に1000枚は超えているだろう。
 これが全て『イライザ』であるとすれば、果たして彼は……ベルリオは、どれだけの時間を『イライザ』の作曲に費やしたのか。
 きっと、1年や2年じゃないはずだ。
 5年か、10年か……それ以上か。気が狂いそうになるほどの長い時間を作曲に費やしたに違いない。或いは、既に狂っていたからこその所業か。
 ともかく、正しく異常であった。それだけは確かだ。
「それに、写真……いや、肖像画か」
 ピアノの上に、作業机の前の壁に、幾つもの肖像画が置かれている。
 描かれているのは、ベルリオと、1人の女性の姿。
 仲睦まじい様子の2人。幸福の一幕を切り取ったかのような、暖かな絵。
「彼女が“イライザ”……なのか」
 『イライザ』という楽曲、その原点を前にしてイズマの背筋は自然と伸びた。
 敬意を。
 そして、感謝を。
 それと同時に恐怖した。
「彼は地獄の中にいるんだ」
 魔種へと転じて、なお抜け出せない地獄の中に。
 そして、きっと。
 イズマもまた、何かを1歩だけ間違えてしまえば、ベルリオの歩む地獄の底へあっさりと落ちてしまうのだ。

●『イライザ』
「彼女は……霧の中を彷徨っていた彼女は、何だったんだ?」
 劇場のホール。
 スポットライトに照らされたステージの上にイズマはいた。
 暗闇の中へ、観客席へと声を投げる。
 誰もいなかったはずの観客席に、影の中から滲むようにしてベルリオが姿を現した。
「余計なことを知りたがる」
「性なんだ。彼女はきっと、音楽に殉じたんだろう? 俺はその生き様に敬意を評するし、偉大な先達の行いを知りたいと思う」
「……なるほど」
 わずかだが、ベルリオは笑った気がする。
 それから、彼はごく短い話だけを口にした。
「彼女は私に教えを請うた。才能のある歌手だったからな……私は彼女を指導した。彼女はより一層、音楽に傾倒し、執心し、やがて『イライザ』を練習するようになった」
「…………歌えた、のか」
 ベルリオは静かに首を横に振る。
「歌えなかったのだ。だから、狂った。ある日を境に劇場から飛び出し、荒れ狂う海に身を投げた。それでも音楽に心は囚われたまま、どこにもいけずに街を彷徨い続けていたのだろう」
 それが、霧の中を彷徨う女の顛末。
 なんてことない、音楽に身も心も捧げた者の末路。
 よくある話だ。
「なぜ、彼女を止めなかった? 彼女なら『イライザ』を歌えると思ったのか?」
 イズマの問いに、ベルリオは少しだけ逡巡するような素振りをみせた。
「彼女には魔術の素養があったからな。『イライザ』を完成させられる可能性はあった。私にはもう、完成させることは出来ないのだから、他者に賭ける他に術はなかった」
「今も、そうしているのか?」
「いいや。彼女の姿を見ただろう? あぁなって以来、彼女にはもう、私の声が届かなかった」
 だから、ベルリオは「彼女のような存在を増やすべきではない」とそう言ったのだ。
 『イライザ』に……或いは、ベルリオ自身に関わるべきではないと、そう考えて劇場に住み着き、外に出ることを拒んでいるのだ。
 思えば、この港町の名前さえ、この港町への道行さえ不明であるという異常事態は、ベルリオの力で成されたものだったのだろう。
「どうやったら、『イライザ』は完成する? 俺に『イライザ』を弾くことは出来ないか?」
 イズマはさらに問いを重ねる。
 ベルリオは、困ったような顔をして、わざとらしく溜め息を零した。
「私にも分からない。あの曲は、亡き妻のために作った曲だ。終ぞ完成しなかったのは、我妻が、イライザが、もはやこの世にいないからだろうな」
 その曲を聴かせたい者は、もはやこの世に存在しない。
 だから、『イライザ』という曲は完成しない。
「魔術的な素養が必要なのは……」
「冥界にまで『イライザ』を響かせるためだ。冥界などと言う場所が実在するかも定かではないがな」
 そう言って、ベルリオが席を立つ。
 ゆっくりと、ステージへと上がる。
 1歩ずつ、床を踏み締めるようにしてピアノの傍へと近づくと、その鍵盤に指を置いた。
 ピアノの音色が、暗い劇場に鳴り響く。
 音が連なり、重なって。
 奏でられる曲の名は『イライザ』。
 踊るように、跳ねるように、流れるように、旋律が響く。
 イズマの演奏技術など比べものにならないほどに、情緒的な旋律が。
 ヴァインカルよりも、数段上の演奏技術で。
 奏でられる『イライザ』は、けれどどこか“欠けて”いた。
「聴く者のいない曲とは、こんなに空虚なものなんだな」
 演奏を最後まで聞くことなく、イズマは思わずそう呟いた。
 
 劇場を出たイズマの前に、ヴァインカルが立っている。
 吐く息が白い。
 空から雪が降っていた。
 降り積もった雪が、音を吸い込むようだった。
「……帰るの?」
「今は。だが、またいずれ戻って来る」
 差し出した手の平に雪の粒を受けながら、イズマはそう呟いた。


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