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小さすぎて見えない
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最近、本を読んでいると何かの視線を感じることが多くなった。
見られているという感覚があるだけで、何をしてくるわけでもないのだが、それでも相応に気の休まらない話ではあった。
何より、こちらは読書に集中したいのだ。それをちらちらと刺さるような、時折ねっとりと絡みつくような形で纏わりつかれると、迷惑この上ない。
試しに呼びかけてみたのだが、なんら反応というものが帰ってくることはなかった。もしかしたら直接的なものではないのかもしれないと、監視カメラや盗聴器、使い魔の類まで探してみたのだが、それらしいものは見つからなかった。とはいえ、この蔵書量ではすべての死角を明かすことなど到底不可能では有るのだが。
ぐるりと自分を囲む大きな本棚。ぎっしりと詰め込まれた書物は整然としており、片付けられず山と平積みにされたものは見当たらない。
巻順、ジャンル、ABCオーダー。まるで表計算ソフトで整列させたかのような正確さで並んだそれらは、家主の几帳面さを表しているようで、感心し、端から読んでいこうと決めていた。
ここまでは読んで、ここからは読んでいない。読み終えた本はきちんと元の場所へ。そうしてその隣の書物を抜き取って、また安楽椅子に腰掛け、一頁目から読み始める。歴史、思想、文学。どれも不可思議で常識に囚われず、興味を惹くものばかりだ。
それらにずっと読み耽ることは幸福であったが、あったのだが、どうにもこの視線が気に食わない。幸せな時間を邪魔されて、喜ぶ者もおるまいが。
同居人に心当たりはないかと問うてみたところ、けらけらと笑うばかりだった。知っているのか、知らないのか。それともこれに辟易する自分を面白く思っているばかりであるのか。判断はつかず、そしてこういう時はたいてい、聞いても答えてはくれないのだ。
諦めて頁を追う幸福に戻ることにする。しかし二行も進まぬ内にまたあの視線を感じ、思わず大きなため息をついた。
億劫になって空を見上げる。緑色の空は美しく、本日も晴天だ。時折瞬きをしているが、読書にはなんら影響がない。
視線の元をなんとかしなければならない。ガリガリと苛立たしく後頭部を掻いて、足を踏み鳴らしながら立ち上がった。
「いやァ、おもしれぇナ。どうしてわからねぇんダ?」
すべてを理解しているというふうで、同居人は言う。
何をわかっているというのだろう。これだけ探して、隠れているネズミ一匹見つからないというのに。
「こんなにもはっきりとしてるってのニ、なんで気づかねえかナ。サイズが違いすぎるト、脳が理解を拒むのカ?」
視線の元が小さすぎると言いたいのだろうか。確かに肉眼で見えないレベルの極小生物を知覚することは出来ない。それらとはスケールが違いすぎるためだ。向こうだって同じだろう。補助器具をなくして、互いを認識することなどできないのだ。
できないようにしているのだ。そんなものなどないと、心を守っているのだ。
「いいサ、ここにも飽きてきたところダ。どうなるか知れねえガ、ヒントをやるヨ」
ようやっと、この視線の正体を教えてくれる気になったらしい。こちらは読書の邪魔をされて嫌になっているのだ。同居人というのなら、家主の安寧にも貢献して欲しい。
「してたんだヨ。まあいいサ。なア、お前、いつから本を読んでいるんダ?」
意図のわからない質問をする同居人。いつから、とはどういうことだろう。ずっとここで本を読んでいるじゃないか。内容が面白く、興味を惹くものばかりであるから、じっくりと読んでいて、今は七冊目。
…………七冊目?
まだ、七冊目。一冊にどれだけ時間をかけたところで、せいぜい数時間というところ。それがたった、七冊目。ずっとこうしているのに、ずっとこの部屋にいるのに。その前は何をしていたっけ。その前は何を読んでいたっけ。その前ってなんだっけ。ここはどこだっけ。自分はどうしてここにいるんだっけ。
空を見上げる。本棚が積まれ、安楽椅子が置かれ、出口のない、しかし突き抜けるような空がある。緑色の、時々瞬きをする、時々まだたきを――――誰だお前。
凸レンズ越しのような湾曲の空。ずっと見られている。ずっとずっと見られている。どうして。知りたいからだ。相手のことを見るのは、知りたいからに他ならない。何故ならお互いに、補助器具をなくして認識することなどできないからだ。スケールが違いすぎて、小さすぎるものを知覚することが難しいからだ。
目があった。それは勘違いだ。向こうはこちらの視線なんてものまで認識できていない。こちらだって、向こうの全貌など掴めようもない。
しかしそういうものがいる。そういうものがいると知ってしまった。自分よりも遥かに大きく、遥かに大きく、遥かに大きい存在がいると知ってしまった。彼らには既に気づかれていて、つぶさに見られていると知ってしまったのだ。
思い切り、水をかけられたような錯覚に陥った。何もかもが冷え切って、しかし脳は今も混乱の只中にいる。嗚呼きっと、きっとこの思い込みは正しい。この勘違いは正しい。顕微鏡とプレパラート。どちらがそうであるのかは言うまでもない。
逃げ出さなくてはならない。しかしどこから逃げ出せばよいのだ。本棚で囲まれていて、出入り口すら無いというのに。有るのは本棚ばかり。嗚呼そうだ、これを登れば――
「いいのカ? そんな目立つことしテ、すぐにバレちまうだロ」
棚にかけていた手が止まる。そうだ、ずっと見られているのだった。考えろ。もしも顕微鏡の先の微生物が異常な行動を取り始めたらどうするだろう。特殊行動のサンプルとして保管するか、奇行を見咎めて処分してしまうのではなかろうか。自分もきっとそうされる。抗うことなど出来ない。出来ない。出来やしない。
どうすればいい。そうだ、他の観察対象と何ら変わらないと思わせるしか無い。本を手に取り、椅子に座り、また頁をめくり始めた。
しかし、内容など入ってくるはずもない。この先の未来が不安でたまらない。使い終えたプレパラートはどうするだろう。水で洗い流してしまう。人間ならそうする。そこに罪悪感や善悪の観念はない。
だって見えていないのだから。知覚できないほど、それは小さいのだから。
頁をめくる。アトランダムに、熱中しているかのように。頁をめくる。機会を伺っている。逃げ出せる機会を伺っている。やることはさっきまでと変わらない。視線を感じながら、頁をめくり、読み終えたら、また棚に戻すのだ。
これまでもやってきた。これからも同じことだ。ひとつだけ違うのは、感じる視線の主を見つけたということだけ。
頁を捲る指先が震えている。がちがちと何かがうるさい。がちがち。がちがち。気づかれたらどうするんだ。気づいていると、気づかれたらどうするんだ。がちがち。がちがち。五月蝿い。頼むから誰かこの歯の根を止める方法を教えてくれ。
あれから。
あれから。
どれだけ経ったろう。何秒か、何日か、何年か。
今もずっと、安楽椅子に座り、本を手に取り、その頁を捲り続けている。
知らなければよかったと、ずっとずっと震えながら。
空は碧く、時折瞬いている。