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Paradise Lost
登場人物一覧
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マルベート・トゥールーズは樹々の間を駆け抜ける。
散りながら逃げていた小型の害獣はすでに群れの形に纏め上げた。あとは檻のなかへ追い込むだけだ。
「この私が牧羊犬の真似をする日が来るだなんてね」
「あははっ。ネズミちゃんたちがいっぱいだあ」
やれやれとマルベートが頭を振った、そんな時だった。
幼さを感じさせる笑い声がマルベートの頭上から聞こえたのは。
「ソア?」
張り出した枝に座ったソアが、にんまりとマルベートを見下ろしていた。肩から流れたブロンドが木漏れ日を反射して一際強い光を放つ。
「どうして此処にいるんだい。檻の方は?」
「知らなーーい」
軽やかな跳躍で枝の上から飛び降りたソアは害獣の群れにむかって着地した。突如として現れた強者の姿に、マルベートが集めた害獣たちは混乱し、再び森の中へと散らばっていく。
「あぁ、もう、まったく……こんなの優雅な狩りとは言えないじゃないか」
思わずマルベートは疲労感を表情に出してしまった。
ただの害獣駆除にどうして此処まで手こずるのだろうか。
「ソア、さっきのはどう云うことだい」
マルベートは腕を組み、ソアの視界を遮るように立った。人差し指は苛立たしげに二の腕を叩き続け、機嫌の悪さを隠していない。
「決めたはずだよ。私が害獣を追い込むから、ソアはタイミングを見て檻の扉を閉めるって」
「そうだったっけ?」
ソアは薄く笑っていた。その表情を見て「またか」とマルベートは眉間の皺を深くする。
「蒸し返すようで悪いけれど、この前の依頼も勝手に動いたよね」
「あれはマルベートさんの作戦が悪かったんだよ。ボクのせいじゃないもん」
そっぽを向くソアはまるで聞き分けのない幼子だ。それだけならば可愛げがあるものだが、ここ最近、ソアの我が儘はどんどん酷くなっている。
「……ソア、いい加減にしてくれないか。私にも我慢の限界がある」
温厚なマルベートが怒気を露わにすることは少ない。それが妹のように可愛がっているソア相手なら猶更だ。
――けれどもあの日から、全てが変わってしまった。
人間になりたいソアがマルベートに「弱さ」に対しての答えを求めた日から、二人の歯車は少しずつ嚙み合わなくなっていった。
ぎくしゃくとした関係はソアがマルベートの私生活を荒らす形で悪化していった。
館の壁紙やシャンデリアを壊されても、咲き乱れる黒睡蓮を荒らされてもマルベートは笑って許した。
ソアの悪戯に巻き込まれた眷属たちがほうほうの体でマルベートのところに逃げ込めば苦笑交じりに注意した。
非常識な時間にマルベートの元へ押しかけては都合も予定も関係なしに連れ出して、今回の依頼のように好き勝手な行動をとることなど、もう数えるのもバカバカしくなるくらいの回数になってしまった。
「あ」
先に我に返ったのはマルベートだった。自分でも何を言ったのか信じられないといった表情で顔を上げると、目の前で立ち尽くしているソアを見て、驚きに目を見開いた。
ソアもまた、マルベートを見つめていた。
両手をだらりと落とし、酷く傷ついた顔で呆然としていた。
マルベートは、ソアのこんなに弱々しい姿を見るのは初めてだった。満月のような大きな瞳は潤み、桃色の唇を血が出るほど噛みしめている。
「ソア」
マルベートはソアを抱きしめようと両手を伸ばした。けれども、その手がソアに触れることは無い。マルベートに背を向けたソアが一目散に走り出したからだ。
「ソアッ」
走り続けるソアの耳には、マルベートが自分の名を呼ぶ声が、悪魔の呪いのように纏わりついていた。
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あれから何日が経っただろうか。
ソアは幻想の街をぼんやりと歩いていた。
虚ろ。今のソアの表情を現すのに、此れ以上の言葉はないだろう。快活な笑顔は曇り、好奇心に輝いていた瞳に力は無い。
「マルベートさん、怒ってるかな。怒ってるよね。あれだけ迷惑かけちゃったんだもん。当然だよね」
隣には誰もいない。
ソアから誰かに声をかけることも、かけられることも無くなった。
誰が隣を歩いていてもマルベートの笑顔を思い出すばかり。その度に罪悪感と不安で胸が苦しくなる。
「ボク、なにしてるんだろ」
今のソアは迷子のようなものだ。縋っていたものを無くし、糸のきれた凧のように自暴自棄に彷徨っている。
マルベートに我が儘を言い、癇癪を起して愛情を試すような行動を取り続けたのは不安だったからだ。
けれども結局、マルベートを怒らせる結果になってしまった。
対人関係について今までソアは考えたこともなかった。何も考えずとも、全てが上手くいくものだと思っていた。
未熟、の二文字が脳裏に浮かぶ。
迷い、不安になった自分のとった行動は良くないものだ。けれども、あの時、自分はどうすれば良かったのだろう。一人で考えても気持ちや心は散らかるばかり。
「マルベートさんに、会いたいな……」
恋しかった。話をしたかった。
けれども今のソアにはマルベートを姉と呼ぶ資格など、もう無いのかもしれない。そう思うたびに酷く胸が痛んだ。
立ち止まり項垂れる。
ソアは結局マルベートが望んでいた「獣」にはなれない。なりたくないのだ。
けれどもマルベートは「獣にならないソア」を望まない。
「これからどうすれば良いんだろう」
ソアを導いてくれる相手は、もういない。
「ん?」
ソアの耳に子供が泣く声が聞こえたのは、そんな時だった。
「こんなところに子供? 迷子かな」
ソアが立ち止まっていたのは貧民街のなかでも特に治安の悪い場所の入り口だ。昼間だというのに薄暗く視界も悪い。崩れかけた壁や土には血や糞尿の匂いが染みついている。
「早く見つけてあげなくっちゃ」
建物のなかから強い視線を感じたが、慣れたものだとソアは気にもしない。子供の安全だけを考え、ソアは臆する事なく奥の
浮浪者や貧民であってもこの区画に女性や子供が近づくことはない。立ち入れば最後、五体満足では出られないからだ。
「このあたりかな」
普段のソアであれば、休みなく一定の音量で繰り返し泣き続ける生き物の存在を怪しんだであろう。
やけに静まり返った周囲の不自然さを感じ取ったであろう。
けれども、今のソアは精彩を欠いていた。
マルベートとのすれ違いや、これからの事で頭がいっぱいだった。
白い手を伸ばしてゴミ箱の蓋を開ければ、膝をかかえた幼い子供がソアを見上げていた。
「おねえちゃんは、だあれ?」
この場所には似つかわしくない、薔薇色の頬をした子供だった。黒髪の下にある紅茶色の眼は光の加減で赤にも見える。その上品な幼い面立ちがマルベートと重なり、ソアは一瞬、言葉を失った。
「……ボクはソア。ローレットの冒険者なんだ。冒険者って分かるかな」
幼い子供でも安心できる言葉を選びながらソアは名乗った。
「ここは危ない場所だからはやく離れよう」
「うん。ありがとう」
子供はソアに向かって両手を伸ばす。子供を抱きかかえたソアは微かな違和感を覚えた。
――子供って、こんな歪んだ臭いがする存在だっけ。
「ソアのこと、しってるよ。でもいまは、とってもよわっているみたいだね」
本能が腕の中の何かを殺せと叫ぶ。
理性が腕の中の子供を殺すなと叫ぶ。
どっちが正しいんだっけ。
「あいたかったよ、森の王」
暗転する視界を最後に、ソアは意識を失った。
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ソアからの連絡が、ない。
マルベートはグラスに葡萄酒を注ぎながらぼんやりとした思考を廻しはじめる。
ソアがいなくてもマルベートの毎日は変わらない。
ローレットからの依頼をこなし領地を確認する。
昼は外出、夜には館に戻ってベッドで眠る。
隣にソアが居ない事を除けば、驚くほど普段通りの生活を過ごしていた。
変わった部分を強いて挙げるなら、ここ最近、酒瓶が空になる頻度が増えたくらいだろうか。
グラスのなかにある赤い水面を鏡代わりに、逆像に問いかける。
マルベートはソアには獣としての快楽を余す事なく教えて来たが、それは間違いだったのでは無いだろうか。
――お姉さまは、ボクが弱かったら、好きじゃない?
あの日見たソアの顔が忘れられなかった。
別れた日の泣き顔も。
人間になればソアは幸せになるのだろうか?
咀嚼するように考える。
そして私は、この先の長い生を共に歩む同胞を失う事になるのだろうか?
反芻するように考える。
解はいつも同じ。
ソアが人間になることは、マルベートの幸せに反している。
ソアは純粋だ。今からでも獣へと堕とし切ってやるべきだろうか。それがあの子のためにもなる。
しかしそれでソアは幸せになれるのだろうか。
獣になった彼女は心からの笑顔を向けてくれるだろうか。
私を赦して、くれるのだろうか。
「……ふふっ」
そこまで考えて、マルベートは自嘲に染まった瞳で天井を仰ぐ。
「どうして私は自分以外の存在の幸福について、こんなにも真剣に悩んでいるのだろうね?」
悪魔は誰もいない席にむかって杯を傾け、液体に酸素を含ませた。
「私はもっと利己的な存在であるはずなのに」
誰からの返事もない独り言。そのはずだった。
突如として静電気にも似た見知らぬ
暖炉の炎が一際激しく燃え上がる。
「おや」
炎の軌跡は翡翠色の火文字となり空中にマルベートの名前を記した。
悪魔へと告ぐ
仲間の命が惜しければ空手で来い
消えた文字の代わりに、絨毯の上に落とされたのは見慣れた黄金の髪。乱雑に切り取られた一房をマルベートは恭しく掌に乗せた。
「何処へ消えたのかと思えば、まったく」
家族を想う優しい赤の微笑みが伏せられた黒い睫毛に隠される。
「……世話のかかる妹だ」
そうして目蓋の奥から現れた瞳は、炯々とした紅蓮の緋に染まっていた。