もう大丈夫

登場人物一覧

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　ぽっかりぽっかり、大きな穴があきました。
　暗くて果てがなくて、ニルはのぞきこむのがこわくなりました。
　大きな黒い穴は冷たい風がビューと吹いていて、こわいです。
『足りない』はかなしいです。
　みんなみんな、ニルをおいていかないで。
　ずっといっしょにいてくれないと、ニルはいやです。

　こわくて、かなしくて。手が届いたことがうれしくて。
　うれしいからこそ、『また』があったらと思うとこわくて。
　早く帰ろうと皆を促して神の国を脱したあの日。雨泽はまず、練達の病院へと運ばれた。技術者の集うその国の医療技術は混沌一。輸血技術が確立していない豊穣へとすぐに帰す訳にはいかないという判断から送られた病院の廊下で、ニルは手を組んで祈った。
　――どうか、雨泽様が無事でありますように。
　ニルを案じたのであろう。迎えにきてくれたナヴァンが『大丈夫だ』と言ってくれたから、ニルは彼の言葉を信じ、練達の技術力を信じ、雨泽の生命力を信じた。きっとまた美味しいものを食べに行こうと、『おいしい』を教えてくれるはずだ、と。
　輸血と処置を終え、雨泽は豊穣へと連れて行かれた。ニルが最後に見たのは幼い姿の雨泽で、頬はやや青白いものの眠っている姿だった。
　眠っているだけ。だから、大丈夫。


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　雨泽様へ

　こんにちは、雨泽様。少し冷え込むようになりましたね。
　体調はよくなりましたか？　ニルはとっても元気です。
　先日先にお届けしたアドベントカレンダーは見ていただけましたか？
　お手紙に書き忘れてしまったのですが、12月になってから開けてくださいね。

　ニルは雨泽様にお会いしたいです。
　お会いできる日には、雨泽様が元気になれるようなたべものも用意したいです。
　甘い甘い玉子酒や、見た目も元気になれそうなプリン・ア・ラ・モード。
　雨泽様はどちらが好きですか？

　早く元気になれるよう、毎日お祈りしています。
　from.NIL
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　心優しき神使様へ

　雨泽に代わり筆を執っております、鹿紫雲・陽紅――あの子の姉にあたる者です。
　代筆をさせて頂いておりますが、『よめないときはおとなのひとによんでもらってね』と注意書きを平仮名で書けと横から口を出すほどに元気ですので、案じる必要はありません。返事をと筆を握ってみたところ常よりも汚い字となったため、私に代筆を願い出てきたのです。今も余計なことを書くなと煩くしておりますので、どうぞお気遣いなさらぬよう。

　さて、来訪の件ですが、歓迎致します。
　今暫くは横になっているよう告げてはいるのですが、当人は既に復調していると言い張っており大変手を焼いております。まだ安静にするようにと釘を刺して頂けますと幸いです。
　食べ物は甘味の方が好きなようですが、面妖な事に体が子供のものとなっておりますので、玉子酒ではない方が良いかも知れませんね。厨（くりや）を空けておきますので、宜しければあの子の好きな物を共に作りませんか？
　ぷりんなる甘味は此方で用意する事が難しいので、ご持参頂けますと幸いです。

　あの子を気にかけてくださってありがとうございます。
　それでは豊穣にて、来訪心よりお待ちしております。
　鹿紫雲・陽紅
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「陽紅（ひいろ）様、ありがとうございます」
「いいえ。あの子のためにお越しくださってありがとう存じます」
　より丁寧な言葉で返されたニルが目をパチパチと瞬かせて固まったから、陽紅は「早く持っていかねば冷めてしまいますよ」と笑った。
　柿色よりも紅の色が強い角持つその人は、雨泽の実姉だ。雨泽とよく似た顔立ちの切れ長の瞳の美人だが、ニルへと向けられる笑みは子を慈しむようでとても柔らかだ。雨泽とよく似ているからだろうか、ニルもすぐに打ち解けて、先刻までふたりで『蕪のあんかけ』を作っていた。
「はい。温かい内に『おいしい』をお届けします！」
　湯気たつ土鍋と小皿、プリンが乗った盆を持ち、ニルはとたとたと廊下に足音を響かせ歩き出す。陽紅は二歩ほど前を歩いて先導し、雨泽が寝ている部屋まで連れて行ってくれた。
「雨泽様」
　足音で誰か来ることを察していた雨泽は、既に布団に身を起こしている。辺りには書物や巻物らしきものが散らばっているから、居ない間の報告書等を読んでいたようだ。
「ニル、来てくれ……え。くりやに行ってたの？」
「はい、陽紅様がすすめてくださって」
「客人に調理をさせるなんて、姉上……」
　両手が塞がっているニルの代わりに襖を空けてくれた陽紅は、既に退散している。
「ニルが、雨泽様が元気になれるようなたべものを用意したかったのです」
　料理も教えてもらえたし、この蕪のあんかけも雨泽の『おいしい』だと知れて、ニルはとても嬉しい。
「雨泽様、あたたかい内にどうぞ」
「……ニルが用意してくれたんだもん、そうする」
　枕元に盆を置き、土鍋から小皿へ蕪を掬って差し出せば、雨泽が受け取った。
　いただきますと告げた雨泽が、ふうふうと匙へ息を吹きかけてから口へ運ぶのを見守った。あんには蟹のほぐし身も使われており、ちょうどよい塩気ととろみ、そして柔らかな蕪は飲み込みやすいし整腸作用も優れている。
「……おいしい、ですか？」
　切り方や味付けは陽紅に教えられた通りにしたから大丈夫なはず。けれど自身で作ったものを食べてもらう時はいつだって少しドキドキしてしまう。
「うん、おいしい」
　ふっくらとした頬はいつもよりずっと幼いが、美味しいねと笑う時の表情はいつもどおり。温かな物を食べたからか赤みもさして健康的で、ニルは嬉しくなった。
　いつもみたいにパクパクと食べれはしないけれど、小さい口で少しずつ食べ、小皿が綺麗になればおかわりもする。食欲があるのは元気な証拠で、ちゃんと美味しいと感じてくれている証。
「雨泽様が元気でほっとしました」
　沢山沢山言いたいことはあったけれど、食べる横顔を見てそんな言葉が溢れた。
「雨泽様が帰ってきてくれて、ニルはとてもうれしいです」
「ニル……」
　匙を置いて『ちょっと待ってね』を手で示して、もぐもぐごっくん。
「俺……僕もまた君に会えてうれしい。……悲しい思いをさせちゃってごめんね」
　連れ去られたあの日、雨泽が意識を手放す前に最後に目にしたのは、ニルが氷聖へ跪く姿だった。
　小皿を横へ置き、ニルの手へと手を伸ばす。
「こわかった、よね。ごめんね、そばにいられなくて」
　ニルがごめんなさいという気持ちと同じくらい、雨泽自身もニルへ申し訳なく思っている。雨泽の方が大人で自身が原因であるから、それ以上かもしれない。
「ニルは、大丈夫、です」
「それなら僕も大丈夫だよ」
　悲しい気持ちを思い出して瞳に浮かんだ涙を、雨泽の指が渫っていく。
「あ、あと、その」
　残りの蕪も食べてしまうねとまた雨泽が食べだして。そうして食べ終えそうとなった頃、言いづらかったことを切り出した。
「雨泽様の落とし物を……」
「うん？」
　蕪を平らげ、一度プリンへと行った視線をニルへと戻して首を傾げた。
「ごめんなさい！」
　ニルは鞄から取り出した手帳を両手で持って、震えながら頭を下げた。「えっ」と雨泽が驚いている。
「ニルは、中を見てしまいました。こういうのは、勝手に見てはいけないって、わかっていた、のです。でも、見てしまって。他の人にも見せてしまって。だから……」
「ニル、ニル。顔を上げて。持ち主がわからないのだから、僕だって落ちてたら見ると思うよ。それにいなくなった人の持ち物で……それにほら、あの人のこと書いてあるかも？　って思ったら見せてってなるでしょ？」
　慌てる雨泽が早口でそう言って、ね？　ね？　とニルの顔を覗き込もうとする。
「拾ってくれてありがとう、ニル。ニルが届けてくれて、僕はとてもうれしいよ」
「雨泽様……」
「あっ、でも、他の人にはないしょにしてね。ほら、だって……なんかちょっと弱音も書いてあったでしょ？　ニルと……えっと」
「支佐手様に」
「わ、彼かぁ。僕悪口書いてたかも……じゃなくて。カッコ悪いことだけど、ニルが僕の弱いところも知ってくれていたらうれしいなぁって、そう思うよ」
　完璧で頼りになる大人じゃないってガッカリしないでくれる？
　首を傾げた雨泽へ、ニルはこくこくと頷いた。
「ニルは、雨泽様が大好きです」
「僕もニルが大好き」
　手帳には、日々雨泽が思ったことが取り留めなく記載されていた。ニルたちと依頼をこなしたことや、プーレルジールでクッキーを作ったこと、一緒に栗きんとんを作って食べたこと。それからショックを受けて悩んでいたことも。雨泽の想いにひとつひとつ触れては、うれしくて、あたたかくて……さみしくて、かなしくて。……けれども最後には『帰る場所』が記してあったから、ニルは何度もその文字を指で辿って信じた。――信じていたけど、怖かった。
「ニル」
　雨泽が手を伸ばしてニルの手に触れれば、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
「ありがとう。……信じていてくれて」
　止められなかったと思い詰めてひとりで何とかしようとしなかったことも嬉しいし、心配してくれていたことも嬉しいし、ちゃんと信じて日常を過ごしてくれたことも嬉しい。
「君が元気でいてくれてよかった」
「ニルの元気がないと雨泽様はかなしい、ですか？」
「うん。元気なニルとおいしいものを食べたい」
「……ニルは来年は、食べ比べしてみたいです」
「栗きんとん？」
　ニルが頷く。手帳につぶつぶの栗のことが書いてあったのだ。
「そうだね、来年は二種類作ろう」
「来年、も……ニルにたくさんたくさん、教えてください」
　来年の話をすると鬼が笑うと言うけれどと鬼人種の雨泽が笑って、「約束」そっと指を絡めた。
「でも今は、プリンの美味しいをわけっこしたいな。一緒に食べてくれる？」
　ニルの答えが解っているからと悪戯な猫のように目を細める雨泽へ、ニルは元気に「はい！」と頷いた。