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不知心
登場人物一覧
爽やかな風吹くプーレルジールに女は一人で立っていた。否、正確に言えば『彼女』は女性として分類すべき存在ではない。
彼女は生殖機能と性別を有さず、肉体だけを女性に似通って作られた人形に過ぎない。それでも、生きるが為に与えられた
人間に憧れていたわけではないのだろう。だが、人間めいて来たというのは、人形にとって大きな変化である。
人の形をとるわけではない。生き物として歩む術を漸く見付けたと言わしめることが出来るのだ。だからこそ、グリーフ・ロスは思考する。
――ラトラナジュ。
呼ぶ。その名を口腔に含めれば何とも言葉にする事も出来ないほどの惑いや苦さが沸き立ってくる。
彼女と過ごした期間は決して長くはなかった。グリーフのこれまでと、これからを鑑みれば瞬きの様な一瞬。
擦れ違うように去って行く。時計の秒針が戸惑うことなく規則正しく刻まれるのと同じように。当たり前の様に彼女は隣にいて、そして過ぎ去った。
それでも、その時間で愛を知った。
愛とは何か。平坦な言葉に代えて理解しようとばかりしていたそれはどうにも難解なものだった。解けないパズルでしかなかったのだが。
それでも――それが大切なものであることを識った。愛する事がまるで生きる意義のようにさえ感じられたのだ。
(ラトラナジュ……だからこそ、私は彼女がいた世界を、彼女が護ったものを、守りたいと願い今を生きている)
……ああ、けれど、プーレルジールは何れは滅ぶ。そうして、滅びを蓄えてからそれを彼女の護った世界へと運ぶというのだ。
滅びを蓄えた方舟となった異世界は混沌世界へと吸収されてその全て混沌世界へ――彼女の守った場所のある世界へと蔓延してゆくという。
グリーフはセフィロトの言を思い出してから許せることではないと頭を振った。
勿論、頭は酷い熱を帯びているわけではない。『心赴くままに』とは行かず、グリーフは冷静に現況の理解に努めていたのだ。
(冠位魔種やパウルさん。竜種。混沌世界には私一人では、抗うことなど難しい存在はたくさんいました。
シュペルさんのように、まるで次元の違う方も。……『セフィロト』さんもおそらく、そちら側。
抗うことの出来ない存在と直面してしまったときに、私が成せることがあるのかも分からない)
グリーフはそっと胸に手を遣った。コアは何時までも光を帯びて、生きていることを教えてくれている。
このコアが砕けるまで何れだけ肉体が損傷しようとも動き続け抗う事が出来ると自負している。それでも、自信は無かった。
(もし――もし、この身に滅びを詰め込まれるというのなら)
己を壊して欲しいと叫ぶべきなのだろうか。グリーフはさあさあと吹く風に煽られた髪を押さえてから遠く話し込んでいる勇者達の姿を見た。
何が美味しいだとか、あれは食べれそうだから捕まえようだとか。そんな話に花を咲かせて、時には下らないことで笑い合っている。
(あの人達の生きる世界は滅びに面している。
そして、この世界に……ドクター、貴方がいる)
グリーフは酷く落ち着かない心地ではあった。
アイオンやマナセが楽しげに生きている様子を見れば、この世界を守り抜く事も必要だと思いながらも何処か冷めた己がいた。
セフィロトにとって『混沌世界』が脅かされると聞いてからその身体は突き動かされた。酷く恐ろしい事が起きるという事を察したからだ。
吾亦紅の傍で楽しそうに走り回る魔法使いを小さな栗鼠が追掛けている。その背中に付いてくるようにと言われたのだろうか。慌てた様子の秘宝種の少女が走っていた。
クレカさん、とその名前を呼んでからグリーフは俯いた。柔草を踏み付けた魔法使いの少女の柔らかな肢体と比べれば、追掛ける秘宝種の少女は作り物めいた皮膚をしているだろう。
マナセが転んで血を滲ませればそれは人体の瑕疵となる。だが、クレカが転んでも傷が残るのみで血は滲まない。
圧倒的な差が其処にあるからこそグリーフは自らが何かを自問自答しながら、『人手はない己』として常に世界を眺めてきた。
だからこそ、天秤は傾ぐのだ。一歩引いた場所から命を紡ぐことの出来ない自分が世界を俯瞰しておくべきではないのか、と。
(私は、抗えるのか――私は……)
抗うことは、生きとし生ける物を害し、その芽を摘むことだ。芽吹いたばかりの若枝を千切り目を踏み潰すような行為そのもの。
人として生まれ、母の腕に抱かれ育った者達を容易く殺す事は『非生殖』たる己が為して良いことであるかの惑いさえ存在した。
その大義名分のように『大切な人の世界を守る』という題目がこてんと首を擡げて「ここは違う」と言ってのけたならば――
そこまで考えてから同胞が犠牲になる可能性にはたと行き当たった。ゼロ・クールが滅びを腹に蓄えて混沌に送られる。それだけは看過できるものではない。
それに、そうだ。グリーフは数々の可能性だって目にしてきたのだ。
(ああ、そうだ。
天義のネロさんのように、終焉獣であっても滅びをもたらさず共存できる人もいる。
ステラさんのように、元々は滅びの使徒であっても、変わることが出来る。
そして――クリスチアンさんのように。滅びのアークを燃やし、擬似的にPPPを発動し、あのパウルさんをも跳ね返すことが出来る)
奇跡とは眩く、共存とは可能性で有り、変化とは恐らく『ゼロ・クール』にも起こり得るもの。
それでもそれは命によって為されるものである。生命の最後の煌めきが奇跡と呼ばれる可能性を呼び起こしているのかと。
いざともなれば、グリーフは一つだけ可能性がある気がしてならなかったのだ。
「……私は秘宝種。非生殖の作り物。命を紡ぐことは出来ない存在。
……けれど。最期に願ってはダメでしょうか。
私が滅びを受け止めて混沌の、ラトラナジュがいた世界の滅びを防ぎたいと。
滅びであっても、それを集め、ひとつの命を産み出すことは出来ないかと。
そして、残り少ないパンドラで。滅びを集めて生まれたその命が、混沌へと渡り、滅びの使徒としてではなく、ヒトとして認められますように、と。
滅びの奇跡。そんなものを願えたらと」
其処まで口にしてからラトラナジュがどこか困った顔をして居る気がしてグリーフは首を振った。
彼女はプレールジールに渡ってくることはなく、この地の土を踏むことはないけれど。
それでも、教えることが出来たならば異界の風景も混沌と変わりなく長閑で美しかったと教えてやることが出来るだろうか。
だから守りたいのだと言えばラトラナジュはどんな表情をするのだろうか。
「……ダメですね。鏡にもし自分の感情が写るなら、私は今、何色なのでしょうね。
……大丈夫。私も、貴女が守ってくれたもののひとつ。最後まで生きるから、ラトラナジュ」
呟いたグリーフの姿に気付いたのだろう。追いかけっこをしていた魔法使いが「ねえ、あそこにグリーフが居るわ」と指差した。
「グリーフ、こっちだよ」
手を振ったクレカに気付いてからグリーフは何時も通りの表情で「今、行きます」とだけ返した。
燦々と太陽の降り注ぐ秋の野を転げるように走り回っていた小さな彼女達の願いを支えられることだけを今は願って――