SS詳細
眩い秋灯
登場人物一覧
空――宙――フォマルハウトがおどる時、招かれざるお客さんは反吐を散らかした。アレが嗤っている。アレが嘲っている。哄笑する為だけに黒の書を開き、名を記そうと試みていた。度し難い所業だ。赦し難い企てだ。必ずや阻止しなければならない。
――寒櫻院・史之。
――冬宮・寒櫻院・睦月。
頁、混沌の筆を、抹消しなければならない。仔を生贄とし盲目白痴との接触へ導くなど決して在ってはならないのだ。騒がしい人面鼠……。
――ええ。僕の夫さんは僕が思っていた以上に、ずるいお人なのです。僕がシアエナガを探そうと張り切っているのを知っていたクセに、それなのに、僕をとんぼにしてしまったのです。あれは九月の末の事でした。一生懸命、一所懸命に、真っ黄色な幸せを追い求めていたと謂うのに、夫さんは僕の目玉を、かたつむりを、頭の中を執拗に掻き混ぜてくれたのです。思い出すだけで、思い込むだけで、約一か月が経ったとわかっているのに、世界が回転していてたまらなくなってきます。なので、今回は僕が夫さんをぐるぐるにしてやろうと考えています。これで仕返しも完遂出来ると謂うものです――ちなみに、この頭の中のぐるぐるはさっき起きた事であって、実際は夫さんの方から誘って来たのですが……。やっぱり良い街だと思いませんか? 僕はずっと咀嚼しています。旧き良き再現性アーカム、誰も彼もが故郷だと、神の意思なのだと錯覚するほどの、美しい――。
何か妻さんがロクでもない事を思いついた様子だ。俺にだってそのくらいの事はわかる。理解し、判断し、その上で乗っかる事だって容易なものだ。まるでドンペリ二リットルを摂取したような――勿論、妻さんは未成年なのでザクロ・ジュースなのだが――貌のニヤケ具合だ。いや、さては、あの面構えはシアエナガ探しの時に曝け出した混沌とやらではないか。いやいや、それこそ真逆なおはなし、確かに此処は再現性アーカムだけれども、動物園はさっき通り過ぎたし水族館もお休みだ。今日はおとなしく秋の囁きを全身に浴びて季節外れのアイスクリームを嗜むのが最適解。おじさん、バニラとチョコレート、二段重ねでお願い。すっかり人気者ではなくなった屋台も空いていると考えれば嬉しいものだ。ヒュウと笑ってくれた風の冷たさがバニラの馥郁を天へと流していく。それで、妻さんのお顔は如何かと謂うと……数秒前よりも歪んでいた。アイスクリーム頭痛だろうか、或いは、正気がかき氷の如くに削れていくサマだろうか。まあ、何方にしても甘味にとっては些細な沙汰。ねえ、カンちゃん、そろそろ予約したホテルにでも行かない? 俺さ、久々に領地から出て疲れたんだよ。嘘である。本音をこぼしてしまうと飽きたのだ。食肉加工の工場見学なんぞ挟まなければ良かったとほんのり後悔をしている……。わかったよ、しーちゃん。それでさ、今日お泊りする場所ってなんて名前? 魔女の家だったかな?
ホテルだってさ。ホテル。ホテルなんて洒落た言葉使ってるけどさ、しーちゃん、これ、評判の悪い下宿だよね。えっと、あの新聞、なんとかタイザーってので読んだ記憶があるよ。お金を持ってない人が泊まるような場所だよね。ほら、外観からちょっと嫌な臭いがするもん。え、気の所為ですって? いやいや、これでも僕はしっかりとした正気の持ち主なんだから、少しは僕の意見も聞いてくれないかな。むぅ。この時間から予約が取れそうなのが此処だけだった? ……あのさ、しーちゃん、いつも慎重派なしーちゃんがこんなふうに適当になるのってどっかの誰かさんの所為だよね? もしかして疲れたのも『おっかけ』やってた所為じゃないの? あー! ゆるさない。ゆるしてやんない。僕だって神様みたいなもんだし、しーちゃんから崇拝されたいな、なんてね。まあ、今回だけは聞かなかった事にしてあげる。だから、僕が神様だとかのくだりも忘れてしまってね。ギシギシと鳴いている床とやらを踏みながら、三階へと、導かれるように。
ホテル――違った――下宿を選んだのは失敗だったのかもしれない。妻さんに旅行の前日まで『おっかけ』をしていた事がバレてしまった。ちゃんと許可を貰うつもりではあったのだがこのご時世だ。歴史修復やら魔王と勇者やら、アイドル様も忙しない様子。だから、お会い出来ると聞いて、つい、雀躍としてしまったのだ。いけない、いけない。このまま呆けていると俺が紅葉の色に染まってしまいそうだ。……そんな事になったら、俺は割腹するのかもしれない。ああ、カンちゃん、急いで階段を上ると危ないよ。もしかしたら転んで、ひっくり返って、いつかのトンボみたいになってしまう。背中を支えるようにして一歩一歩、前に進んでいく。……如何やら泊まる部屋の隣は埋まっていたようだ。人の気配がする。一泊二日の即席プランだから遭遇する事はないだろうが、こんなボロ下宿の客、極力関わらないように過ごそう――喧嘩になっても特異運命座標な俺達からすれば赤子にもならないだろうけどね。戸を開ける。中は……期待していた通り、埃に塗れていた。俺の掃除スキルが試されそうだ。カンちゃん、ちょっと廊下で待ってて、すぐに済ませるから……。
夫さんのゴチックメヱド力は凄まじいものであった。僕の部屋まで勝手に綺麗にしてくれる、至れり尽くせりな現実に甘えたがるのは仕方のない事でしょう。アッと謂う間に埃の山が拭われていく、やっつけられていく。僕が咳をしないのも夫さんなりの気遣いがあっての事。足を向けて寝られないとは、頭を預ける事が出来るとは、この時を示すのか。ねえ、しーちゃん、いつもありがとう。僕のような人間の出来損ないを愛でてくれてありがとう。聞こえているのか聞こえていないのか、夫さんの唇が果肉のように潤っていた。そろそろ良いかな? うん、良いよカンちゃん、こっちに来てくれる? あんよがお上手な酩酊者みたいに、フワフワと、部屋の中へと誘われる――あれ? ちょっと待って。なんだか、また、僕がぐるぐるしてないかな。心を掻っ攫われそうになった。本当に、僕は旦那様が大好きなのだなぁ。ひとつしか用意されていないベッドに二人仲良くお座り。此処は保健室ほど居心地良くはないが、取り敢えず、改めての仕返しの場所には丁度良い……。
……不意に妻さんが俺の目と目の間、鼻のちょっと上くらいに人差し指を伸ばしてきた。ハハァ、さては妻さん、俺に仕返し出来なかったのがちょっとだけ悔しいのか。黄色いモフモフを探し始めないよう、いい感じに調整したって謂うのに、またしてもヤンマ捕りに挑戦したいのか。じゃあ、俺も反撃したって構わないよね。ダメだよ、しーちゃん。僕なんて、しーちゃんの指先にかかれば、一分もしないでクラクラだよ。予想はしていたさ。じぃっと妻さんの指先を見つめていると、どうも世界が、ちっぽけな部屋が未曾有の空間に思えてくる。これがアノマロカリスの視界ってやつかな。おっ。人差し指が動き始めた。右だったか左だったかわからないけど、これで、俺もヤンマのお友達……。
おもしろい。とてもおもしろい。クールで素敵な旦那様が、僕の指先たったひとつに蹂躙されている。真っ赤な瞳が、それこそ、キャンディみたいにぐるぐるぐるぐる、愉快そうに回っていた。どう、ヤンマになった気分は。僕はね、ずっとこれがやりたかったんだよ、しーちゃん。ぐるぐるぐるぐる。夫さんのおめめがぐるぐるぐるぐるぐるぐる……。アハハ! カンちゃん、俺の目玉に釣られたのかな。あ、あうぅ……。ち、違うよしーちゃん。これは、その、うん、疲れたの。僕も疲れただけ……うぅん、ぐるぐる。チカチカと、ぐにゃぐにゃと、旋回しているのは自分なのか部屋なのか。アッハッハ! 愉しいね、カンちゃん! 俺、こんなに嗤ったのは久しぶりだよ。そ、そう、良かった。たぶん僕だって嗤っているんだ。足し算に引き算に掛け算に割り算に……!
――随分と目を回していた様子だけど、大丈夫かい? 愉快そうに、愉悦そうに嗤っていたならたぶん大丈夫だとは思うけどね。誰かって? 振盪している状態じゃ正体なんてわかりゃしないよ。いやあ、僕の家に遊びに来るなんて中々に度胸があるよね。それとも、既に正気じゃないって謂いたいのかい? ヤグサハ、ぐるぐる大笑いして、気分を悪くして、二人仲良くゴミ箱の虜だなんて、ホントお似合いだよね君達は! ところでさ、そんなデロデロな無様さで計算なんて出来ないだろ? ……あ。まずいね。如何やら招かれざるお客さんが来たみたいだ。巻き込まれないよう外に出しとくから、もう少し目を回していてくれ――これは気絶って意味ね。それじゃ。
――魔法をかけられた。
――魔術だったのかもしれない。
――めまいが治まるのはずっと後の事だろう。
食欲の秋、読書の秋――動揺病から、意識朦朧から解放されたのは数時間後の事であった。だとしても、おかしい。目の玉をイッパイに開いても尚、揺れて歪み続ける世界の橙色――それにしても、秋だと謂うのにひどく熱っぽくはないか。ねえ、しーちゃん、あれ……。おいおい、俺達が目を回している内に何が起きたって謂うんだ。燃えていたのだ。魔女の家が、先程まで泊まっていただろう、下宿が薪と見做されていたのだ。そもそも、部屋を出た記憶すらもない。頭の中に残っているのは紐解く事も出来ない、支離滅裂な数字の大渦巻き。……いや、再現性アーカムならこんなこと日常茶飯事……違うな。非日常茶飯事か。仕方がない。カンちゃん、日帰り旅行にしておこうか。うん、そうだね。なんだかオツムが転覆してるみたいだけど、きっと気の所為だよね。
燃え盛るような紅葉が風に呑まれ、蒼白している君達を見ていた。
膨々と、劫々と猛っている背後、ころりと。
――オコサマの頭蓋骨が遊ばれていた。
おまけSS『ロールケーキ』
――しーちゃんの方がぐるぐるしてたよ?
――いいや、結局、カンちゃんの方がぐったりだったじゃないか。
――ずるい。なんか記憶が曖昧だけど、たぶん、何かがあった所為なんだから!
――じゃあ如何するの?
――お口なおしに羊羹ちょうだい。
――ふふ。
――今笑ったでしょ? 僕のこと笑ったでしょ!!!
――わかったよ睦月、とびきりのヤツを作ってやるから。
――おねがいね。