SS詳細
Lost word
登場人物一覧
●crescendo
マルベート・トゥールーズはパーティーが嫌いではない。
絢爛豪華な調度品に贅を尽くした料理の数々。見かけだけは華やかな参加者たちの会話をつまみに、蜘蛛の巣めいた人間関係を観察する。
それらはいつだって、ふれあい動物園を訪れた時の高揚感をマルベートに齎してくれた。
幻想の民がマルベートの名で最初に連想するものと言えば「ローレットの思慮深き冒険者」や「黒睡蓮の館に住まう女領主」である。
品もあり華もあるマルベートは賓客として相応しい。彼女が訪れれば、そのパーティーには箔がつく。
故にパーティーの主催者側からしてもマルベートの存在はありがたいものだと認識され、パーティーの誘いが途切れることはない。
宴とは名ばかりの腐敗した精神の卸売市場に招待されることもあったが、マルベートは速やかに治外法権を確立し、観察者としての立場を崩さなかった。
今でこそ一貴族として認識されているマルベートだが、そこに至るまでには地道な積み重ねがあった。
パーティーにはドレスコードがある。つまり正式な晩餐会等に参加するためには窮屈な作法や滑稽な礼儀を学ぶ必要があった。
幸いにもマルベートは学ぶことが苦にならない性格だ。
付け焼刃の挙動を良しとせず、智識、礼儀、作法、話術、風習といった貴族の振る舞いを徹底的に身につけた。
一度覚えてしまえば人間社会でこれほど役に立つ装飾品は無い。慣れてしまえばコルセットよりも美しく人を形作ってくれる。
マルベートの流麗な所作と気品は有象無象を寄せ付けず、今夜も現在進行形で効果を発揮していた。
「い、如何ですか?」
人の波が落ち着いた頃を見計らってパーティーの主催者たる男がマルベートへと近づいた。
歳の頃は五十ほどだろう。たるんだ頬には愛想の良い笑みを浮かべている。しかし異常なほどの卑屈さを秘めた眼差しは隠しきれていない。
マルベートが男を一瞥すると男はハンカチを額に当てながら引きつった笑い声をあげた。
己の娘ほどの年頃に見えるマルベートに男が恐怖を抱く理由はこの場に居る人間の数ほどあったが、それを口に出すほど愚かでは無い。
「今夜の宴は貴方様のお気に召していただけましたでしょうか」
マルベートはふいと視線を男から外す。パーティーの会場の様子を再び見るためだ。ほっと安堵する主催者のことなど気にした様子もなく、繊月のように笑う。
「うん、オーダー通りだね。お手本みたいで実に良いパーティーだ」
簡潔に、けれどもはっきりとマルベートは感想を口にする。
前回この男によって差配されたパーティーが酷かった訳では無い。マルベートの個人的な趣味嗜好と照らし合わせると、むしろ正解に近いと言えただろう。
けれども、それはマルベートの望むところでは無かった。
人間の欲望を学ぶ場としては最適だったが「正しい
「うんうん、君もやればできるじゃないか」
目を細め、柔らかな聲を耳殻に流し込む。まるで母が子供の頭を撫でるかのように優しく、真綿で包み込んでやるかのように温かく、心を絡めとる。
「あ、ありがとうございます……ッ」
男は頬を紅潮させると、恍惚とした表情を浮かべてマルベートを見あげた。目は潤み、まるで赤子のようだ。
だがハッと意識を取り戻したかのように視線を左右に投げる。
「い、いつものお連れ様はいらっしゃらないのですか?」
その顔には僅かに恐怖の色が浮かんでいる。
その質問を受けたマルベートは笑っていた。にこりと音がするくらい、はっきりと深い笑みを浮かべていた。
「そんなに気になるかい? いま、ソアが、どこに居るのか」
徐々に近づいてくるその表情に迫力を感じたのか、男は蒼褪め後ずさる。
「めめめ、滅相もございませんっ」
「そっか。なら、もう行っていいよ。ご苦労様」
「失礼いたしましたァ!!」
飽きた玩具を放り投げるようにげれば、主催者はバネ人形のように素早くその場から立ち去っていった。そこにメフ・メフィート郊外の女衒屋であった頃の面影は無い。主人に心酔する下僕として、時には食事の材料を調達する係として彼は生きている。
今宵は誰もが目元を隠す仮面をつけていた。
ファントムナイトが近づくと貴族や商人の間では仮面舞踏会の開催が増えるのだ。
今日はマルベートも紫紺の仮面で美しい貌の上半分を覆っている。髪の色と同じ深い夜色のマーメイドドレスを纏い、ルージュの塗られた唇がフルートグラスに触れた。
燦然と輝く液体を口に含めばシルクのような舌ざわりとパチパチとした葡萄味の気泡が舌の上で弾ける。
本来はワイン派のマルベートであるが開幕の礼儀は弁えている。それに、と仮面の奥で蠱惑的な紅玉が輝いた。
「ふふふっ、今日もすぐそばにいるのにねぇ?」
誰ともなしにマルベートは呟いた。
優雅な弦楽器の調べが流れる円形ホールには一際客が集まっている。その話題の中心にいる人物を見て、マルベートは満足げな笑みを口の端にのせた。
視線を感じたのか。気品高い輝きが振り返る。
それは純白の仮面とナイトドレスに身を包んだ、目を瞠るほど美しい淑女だった。
微笑んだ拍子に上質な黄金を思わせる美しい髪が揺れ、エメラルドや真珠のついた髪飾りが清廉な音を奏でる。
何重にも重ねられた薄布とレースを押し上げるほどの曲線美を持ち合わせていながら無邪気に笑う姿は幼気な少女のようでもあり、同時に全てを赦す母のような深さも持ちあわせていた。
――まるで天上の女神だ。
そのような囁きが波紋のように会場へと広がる中、彼女は静かな足取りでマルベートの元へと近づいていった。
「お姉様」
穏やかに笑う淑女にマルベートは妖しげな視線を向けた。
「如何でしょう。わたくし、皆さまのなかに溶け込めていたかしら」
「溶け込めていたかという問いに対しての答えは否だよ。君の美しさは際立っているからね。目立たないようにと気を使っているのなら、そこは諦めたほうがいい。なにせ路傍の石の中に本物の黄金が混じっているようなものなんだから」
それから、とシャンパンのグラスを傾けたマルベートは言葉を切る。そして今の会話を味わうように飲み下した。
「会話についてだね。私は傍から聞いているだけだったけど、美しいアクセントの歓談に聞こえたよ。それに話題の選択や視線の動かし方、声の出し方に詮索好きの回避方法も申し分なし」
「お姉様にそこまでお褒めの言葉を頂けるなんて、恐縮です」
星の囁きほどの声で、互いの耳元で言葉を交わす。秘め事のように寄り添いながら、震える空気がくすぐったいと僅かに笑い合う。
「合格だよソア。教えた私も鼻が高いな」
「もうっ、お姉様ったら。今宵は名を伏せる決まりなのに」
余所行き用に作った顔をソアはふんわりと緩ませた。ミルクのような頬に手を添え、マルベートは宥めるようにソアの額を寄せる。
「ごめんね。ソアがあんまり愛らしいものだから、つい名前を呼びたくなってしまった」
「ボクだって、お姉さまの名前が呼びたいのに、狡いなぁ」
「おやそれは嬉しいね」
マルベートはにんまりと、企みを含んだ笑顔で再びソアの耳元に顔を寄せる。空いた右手でソアの髪をすくい「人間の耳」にかけてやった。
「なら、もう寝室に行こうか。二人だけになったら何度だって私の名前が呼べるよ?」
マルベートからの誘いにソアは首を横に振りながら笑った。小さく零れる二人の笑い声はカスミソウのように白く、はらはらと落ちていく。
「ここは、お姉様がボクの練習のために用意してくれたパーティーでしょう? なら、もうちょっと成果を見て欲しいなぁ」
きょろりと普段見せる無邪気な黄金がマルベートの真紅を真正面から射貫く。
「ね。今夜はボクから目を離さないでいてくれる?」
「勿論、喜んで」
マルベートはソアの髪に触れていた手に力を込めた。そうでもしなければ、本能のままソアの頭を撫でまわしていただろう。
「お姉様、今日はまだワインを飲んでないの?」
珍しいと瞬いてから、ボクが持ってこようかと告げるソアをマルベートは静かに止めた。
今日のマルベートはソアの指南役として居るのだ。師である自分がパーティーに相応しくない言動や行動を取るのは慎まなければと赤いルージュのひかれた唇をキュッと結ぶ。
「ソア、そういえば今夜のファーストダンスの相手をまだ決めていないだろう? 誰にするんだい」
「最初のダンスの相手でしょう?」
「そう。沢山の人に声をかけられていたよね」
「全員お断りしたよ?」
ソアの返答を聞いて、おやとマルベートは瞬きをする。
きょとんとした表情は緊張や妖し気な色香が抜け、少し幼く感じる。
「だって最初はお姉様と踊ろうって決めてたんだもん」
「それは嬉しいなぁ」
成長したソアからの子離れ、己のなかのソア離れを感じていたマルベートにとっては嬉しい申し出だった。へにゃりと緩んだ表情筋を慌てて引き締める。
今の危ない所だった。
仮面をつけていても貫通するだけの破壊力がある、実に良いソアの笑顔に思わず抱きしめそうになった。
寸での所で行動には移さなかったが、脳内ではマルベートの細い指がわきわきと蠢いているし、心音は多少の調整が必要なレベルである。
二人の会話が届いたのか弦楽団の奏でる音楽が小即興曲から三拍子の優雅な舞曲へと変化していく。
「お姉様、ボクと一緒に踊ってくれる?」
「勿論、よろこんで」
差し出されたソアの手にマルベートは恭しく触れた。
黒と金。二輪の華がスカートの裾を翻しながら優雅にダンスホールへと進み出る。
たおやかな白い腕がシャンデリアの光の下で、彫刻のように美しく照らされる。そこに佇む二人は、可憐な淑女以外の何者にも見えない。
踵が床を移動するたびに視線が二人を追いかける。賛美と敬慕の入り混じった空気を割って清廉な布がひるがえった。
ソアはマルベートにとって愛しい妹分だ。人間になりたいとマルベートに教えを乞いにきた銀の森の精霊は、今や立派な「人間らしさ」を身に着けている。
外見も完全に人間を模せるようになった。
猛々しかった虎の耳や尻尾は消え、鉄をも切り裂く鋭い爪があった場所には薄桃に塗られた華奢な爪が収まっている。
素晴らしい進化だとマルベートはうっそりと笑った。
今やソアは立派な人間だ。
虎の精霊らしいところもは無いし、こうやってダンスもマナーもちゃんと覚えている。信じられないほど見事に「擬態」した彼女は、これから更に人間社会に紛れて洗練されていくのだろう。
普段のソアの動きからすれば、信じられないほど緩やかな足取りで舞台を巡っている。かつかつと鳴るヒールの踵も、若木のようにのびやかな姿勢も、自然的ではなく人為的に作られた美しさで溢れている。
羨望の眼差しと憧憬の吐息。それはかつてマルベートだけに向けられ、そしてソア自身もマルベートへと向けていた敬愛の証。それが今や自分にも向けられている。
人間らしさの証明ができて嬉しい、はずなのにソアの胸には靄がかかっている。
この靄に不安という名がつけられていることをソアは知っている。分からないのは「何故自分は不安に思っているのか」という理由だ。
「どうしたんだい。心ここにあらずといった様子だけど」
心配そうに揺れるマルベートの紅玉が、ソアの心を覗き込むように深くなる。
「……ううん。何でも無いよっ。あ、曲が終わっちゃったね」
惜しみない拍手と歓声が静止したホールに満ちている。マルベートとの会話が途切れてほっとしている自分に、ソアは気づいた。
「ソア」
「ねぇ、お姉様。もう一曲おどろうよっ」
誤魔化すように言葉をかぶせればマルベートがそれ以上追及してこないことを、ソアは今までの経験から分かっていた。
(ボク、ずるくなったなぁ)
きっと森に居た頃なら素直にこの胸のもやもやをマルベートに告げていたはずなのに今は隠そうとしている。
相手の優しさにつけこんで言わずにいる。
不思議そうに首を傾げたマルベートだったが、肯定するかわりに差し出されたソアの手を取った。
手袋のレース布越しに触れあう互いの体温はどこか遠い。
それでもソアは笑った。幸福の絶頂にいるかのように華やかに、未だ夢見る少女のように真っ白に。
黒と白。甘やかな空気を帯びた二匹の獣が再び豪奢な舞台に舞い戻る。
この場には彼女たちが人ならざる存在であることを知る者もいれば、知らぬ者もいる。
だが刹那の瞬間、会場にいる人間たちは全てを忘れ、交尾する蝶のように艶やかな二人の姿に見惚れていた。
●diminuendo
石造りの洋館に今宵も一輪、灯がともる。
黒睡蓮の咲き乱れる水面は静かに揺れ、手の届かぬ頭上の主に柔らかな香りを届けた。
宴の終わりはいつだって心寂しくなるものだ。
だからこそ他人の温もりを求めて、肌を寄せ合い寂しさを紛らわせる。
ソアの場合はマルベートとの毛繕いの時間が、そうだった。
今日は疲れただろうとソアのドレスを丁寧に脱がせたマルベートはことさら丁寧にグルーミングを施した。
そのお陰でソアの心と体はぽかぽかと温かい。
――人間も、夜は寂しくなっちゃうんだ。
とろんと眠気を帯びた眼差しのまま、ソアは純白のドレスと仮面に目をやった。ワードローブに静かに佇む宴の名残からは、未だ賑やかな笑い声が聞こえる気がした。
人間には毛繕いの習慣が無いため生殖活動で寂しさを紛らわせるのだと云う。あの場で別れた彼や彼女たちは、自分たちと入れ違いに館に訪れた着飾った人々と夜を過ごすのだろう。
人間と同じ思考をしていると考えるだけでソアの心は明るくなった。
「何を考えているんだい?」
「毛繕いの習慣がないのは不便だなぁって考えてたの」
「まったくもって同感だ」
マルベートは深い同意をソアに示すと再び毛繕いへと戻った。あ、と溢れたソアは声は快感に濡れている。そのたびにマルベートの微かな笑い声が花のように零れた。
「お姉さまぁ」
もっとと甘えるソアの声は飴のように甘く、熱に揺れている。先ほどまでダンスホールで踊っていた清楚さは影を潜め、今は寝台の上で眩暈がするほど妖しい光を帯びた金色の瞳を細めていた。
仰せのままにとマルベートは再びソアの背中に親愛の口づけを落とす。
マルベートの舌が肌の上を滑るたびにソアは甘い吐息をこぼした。
普段であれば整った毛並みを震わせて逃がす気持ちよさが薄い皮膚を通り抜けて神経や筋肉を震わせる。
完全な人間の姿でのグルーミングをねだったのはソアの方なので、止めようと言い出す事もできない。
どこもかしこも薄く、柔らかく、少しでも歯や牙を立てればぷつりと破れてしまう脆弱な人間の皮膚は唾液で湿らせる必要もなければ、風の抵抗を薄くするために毛の流れを一定に保つ必要もない。
けれども大好きな相手と毛を挟まず、直接的に肉の熱と愛着を分かち合うグルーミングは獣姿で行う時とはまた別の心地良さをソアに与えてくれた。
湿った音が間近から聞こえる。マルベートが髪の毛を整えにかかったのか、ソアのうなじとこめかみに温かい吐息がかかった。
「今日のパーティー、楽しかったぁ」
ソアはマルベートを信頼している。だから無防備に首元を晒けだせるし、うつらうつらと幸福な微睡みに身を任せる事もできた。
風船のようなふわふわした気分でソアが笑うと、背後でマルベートが身体を起こしたのかベッドのシーツがかすかに音を立てた。
軽い音と共に剝き出しとなったソアの白い腿に紅い痕がつけられる。毛繕いの終わりの合図が、一輪だけ咲いた紅い華のようにソアの肌へと刻まれた。
「ソアが社交を楽しんでくれたようで、私も嬉しいよ。それじゃあパーティーの感想を聞かせてもらおうかな」
頭蓋を包み込むように頭を撫でられる。添えられたマルベートの掌に甘えるように頭を押し付けながら、ソアは続けた。
「えっとね、お肉が美味しかったかなっ」
「確かに良い肉が使われていたね。ソアはどの料理が好みだった?」
「メフ・メフィート北部風の……あの、ベリーのソースがかかった赤身のお肉が美味しかったかな」
でもね、と打ち明けるようにソアは唇を震わせた。
「ボクはマルベートさんが作ってくれた、ウサギの眼みたいな真っ赤なソースのほうが好きだったなぁ」
「そう?」
長い睫毛を伏せて答えたマルベートの声には喜びと自信が滲んでいる。
「じゃあ今度一緒に作ろう」
「やったぁ」
穏やかな笑い声がどちらともなく零れ、ソアは楽しい未来の約束に想いを馳せた。
食べる事も好きだが、マルベートに料理の仕方を教えてもらう穏やかな時間もソアは愛しているからだ。
「マルベートさん。ボクね、今日はいろんな人とおしゃべりしたよ。みんな、ボクのことを人間だと思ってた。誰もボクのこと、怖いって言わなかったんだ」
ソアを包みこんでいる穏やかな高揚はアルコールの酩酊感にも似ている。頬を紅潮させて打ち明けるように告げれば、マルベートの満ち足りた気配が体温と共に伝わってきた。
「それは良かったね。今日のソアはダンスもマナーも完璧だったし、社交の場でも堂々としていた。うん、出逢った頃からは想像もできないくらい成長していたよ。満点をあげてもいいくらいさ」
「ほんとっ!?」
「可愛い妹分に嘘なんか吐かないさ」
優しく寄り添うマルベートの手つきは変わらない。どこまでも甘い、愛しみをこめた手だ。細められた緋色の眼差しが蝋燭の灯りを映してゆらゆらと揺れている。
マルベートは過去を見ているのか。どこかぼんやりとした、蓮の芳香のような声で続けた。
「ソアも、随分『人間らしく』なったね」
その言葉を聞いた瞬間、ソアの身体が僅かに強張った。
今日のソアは学んだ礼儀を忘れなかったし、人間らしい枠組みのなかから外れなかった。滑らかな光沢を放つ虎の毛皮も人間離れした剛力もなく、食欲も、雷も奮うことはなかった。
マルベートの言葉を借りるなら、今夜のソアはとても人間らしかったのだ。
なのに神経が痙攣したように引きつっている。
以前のソアならマルベートに褒められて喜んでいた。
マルベートはソアを肯定する唯一であり、師匠であり、憧れの存在だからだ。
そんな存在から人間に近づいていると言われれば天にも昇る心地にもなる。
もう少しで人間になれると奮起することもできた。
けれども今はどうだろう。ソアは己の心に問いかける。
以前は嬉しかったマルベートからの評価に違和感を感じる。「人間らしい」と告げられるたびにほんの僅かな不安を抱くようになったのは、果たしていつの頃からであったか。
ソアがどんなに努力したところで所詮は人間を騙っているだけなのだと、お前は獣から変わる事など出来ないと言われているようで、心に影が射す。
皮肉だった。ソアが人間を知っていくほど、彼女の内面世界は拡がり複雑化されていったのだ。
人間らしいという言葉に含まれた意味を噛み砕き、それは自分の求める意味ではないのではと疑問を抱く感性を得た。
そこでソアに生まれた新しい疑問。
自分とマルベートは、果たして本当に同じ方向をむいているのだろうか?
「お姉さま、ボクはちゃんと人間になれるかな」
ソアが今まで会って来た存在のなかで、マルベートは誰よりも『人間らしい』存在だ。
森の梟より教養が有り、冬の湖のような知性が有り、花の蜜よりも優しく、静かな夜よりも美しい。
だからソアは憧れた。いつか、こんな人間になりたいと教えを請うた。
マルベートがソアを気に入ってくれたのは、運命というよりも奇跡だったと、いまでもソアは信じている。
長年自然界に生きてきた精霊の端くれとして起こりえない事象くらいは理解しているつもりだ。
だがマルベートはソアに自分の持てる全てを惜しみなく与えた。人間としての振る舞いを、智識を、慈愛を、獣性の隠し方を教えた。
――よくできたね。
――凄いじゃないか。
――立派になったね。
マルベートはソアを何度も褒めた。
より人間らしくなったね、人間に近づいたねと、喜んでくれる。
マルベートに優しく頭を撫でられるたび、憧れの存在から言葉で認められるたび、ソアは嬉しかった。
――嬉しかった、のだ。
自分の何が変わったのかと問われれば、今のソアなら「隠し方が上手くなった」と答えるだろう。
隠しているだけで本性は変わらない。
どんなに人間の振る舞い方を学んでも、本質は同じまま。
ならば今のこのボクは、森にいた頃と変わらない猛獣ではないだろうか?
「大丈夫、しっかりと人間らしい生き方が出来ているよ。誰よりも美しく愛らしい『獣』としてね」
安心させるためにマルベートが告げた答えは、ソアの望む答えではなかった。
ソアは、獣のままでは、いたくないのだ。
ソアは、ずっとずっと、人間になりたかったのだ。
弱っている人に手を差し伸べれば感謝された。
困っている人を助ければ優しい笑顔をもらった。
自分がもたらした平和で喜ぶ人たちがいた。
運命を変える力を手に入れて、色んな出逢いを重ねてきた。
守りたいという気持ちを知った。
今までの冒険で、戦争で、お祭りで、たくさんの人々と出会って来た彼らのようになりたいと願って、ソアは自分のなかの獣性に抗った。
彼らの一員になりたいと今まで学んできた。いつか人間になれると盲目に信じていた。
冷たくひえた頭が真実を導きつつあったが、マルベートを敬愛する心が目と耳を閉ざすように叫ぶ。完全だった宝石に罅が入る。
ソアは今までずっと見上げていた月が、今は自分の横にあるのだと気がついてしまった。
何も変わらない、優しい姉の手で撫でられながらソアは幽かに肩を震わせる。
旅先で、ギルドで出会った一つ一つの思い出が星のようにソアの中で輝いていた。
平和という概念を知った。無償の愛を知った。心を寄せ合う優しさを知った。
たとえ獣としての強さを全て棄てることになっても、たとえ精霊としての悠久の時間を捨てるとしても、ソアは悩み苦しみもがき続ける人間としての時間を選ぶだろう。
けれども、マルベートはそれを許さない。
本当にソアの幸福を願っているからこそ、ソアの願いを叶えようとはしない。
ソアが本当に人間になりたいと動いた瞬間に、彼女は愛する妹が不幸にならないように立ち塞がるのだろう。
(だけど)
全力で止められたからと言って、ソアが止まることはない。
今のソアにはマルベートと同じくらいの力がある。
無知は罪だと教えてくれたのは果たして誰だったか。あの時は意味が分からなかったが、いまのソアなら分かる。
だからこそ、今は、まだ。
ソアは甘えるようにマルベートの腰へと腕を回して抱き着いた。
今にも泣きそうな顔が見えないように、マルベートの白い腹へと額を押しつける。
「どうしたんだい? そんな顔をして」
包み込むようにマルベートがソアを抱きしめ返すと、腰にまきついたソアの腕にいっそう力がこめられた。
「ねえ、お姉さま」
「ん?」
「お姉さまは、ボクが弱かったら……好きじゃない?」
霞のような声だった。蛍の光よりも弱々しい問いかけだった。
不安で震える妹の声にただならぬものを感じながらも、マルベートはソアの頭を撫でる手を止めることは無い。否、止めるという変化を起こす事さえ躊躇われた。
マルベートは「人間らしさを纏う獣」としてソアを愛でてきた。
人間の真似をしているのは、より効果的に狩りをするための手段に過ぎない。人間としての武器を利用する獣。それがマルベートだ。
だけどソアは、もしかして――……。
「……まさか。そんな事はないよ」
だから、返事が遅れた。
嘘でもすぐに「そんな事はない」と返せば良かったと僅かな後悔が過るがもう遅い。
マルベートがどんな返事をかえしたとしても、いずれソアは気がついて傷つくと分かっていたからだ。
ソアは聡い。
森から出てきて数多の人間と関わって進化した。
その進化した先で彼女は何かを決めつつある。一度でもソアが決めてしまえば、この甘やかな時間は終わりを告げるだろう。
だからマルベートは答えた。
否定はしたが言葉を続けることは無い。
それが答えだった。
夜は柔らかく更けてゆく。
硝子窓から僅かに吹きこむ空気の冷たさが、秋の終わりを告げていた。
おまけSS『烙印』
もうすぐ十の月が来る。
そんな或る日に、お誕生日おめでとうと誰かが言った。
あの子の言の葉じゃないなら、欲しくない。
金木犀の咲いたあの夜に、取り繕うこともできないほど狼狽した。
終わりが近づく。
甘い夢が醒めていく。
嘘が吐けない自分には、人間になりたいと願うあの子の気持ちは変えられない。
ならば如何すれば良い?
如何すれば、ずっと夢の中にいられる?
だから今はただ漠然と。そう漠然と期待する。
あの彼岸花のように赤い痣が、あの子に諦めを教えてくれるのではないかと――……。