PandoraPartyProject

SS詳細

孤独な蛮族。或いは、世界の音が消えるまで…。

登場人物一覧

イズマ・トーティス(p3p009471)
青き鋼の音色

●果ての無い孤独な戦場
 世界中の全ての音を。
 じわじわと侵食して、ひと飲みにして、粘ついた冷たい泥濘の中に沈めてしまって、何もかもを覆い隠すかのような、まるで夜の闇そのものにも似た楽曲がこの世にはある。
 白い指が鍵盤の上を掻き毟るように走る。
 跳ねて、踊って、泡立つ音の1つひとつを闇の中から拾い上げるみたいにして、けれどしかし、拾った音の泡はやはり所詮“泡”に過ぎないわけで、となれば文字通り泡沫は弾け、空気に染み込み、後には何も残らない。
 静かな音が脳髄を抉る、心臓を穿つ。
 身体中を巡る熱い血潮が少しずつ冷たくなって、いつしか血管の中を泥が巡るような気分になって、それでも辞められぬ演奏があると言うことを、イズマは遥かな昔から、それこそこの世に生れ落ちて、“音”と言うものを始めて知ったあの日から正しく理解していたはずだ。

●ベロニカ・ブルー
 ノックが数回。
 太陽の光が差し込む部屋に入って来たのは、青い髪の青年だった。
「ヴァインカルさん、ご機嫌如何?」
 見舞いの品か。紙袋を抱えるイズマ・トーティス (p3p009471)が部屋の入口に立っている。質素な部屋だ。木張りの床に白い壁、部屋の真ん中にはベッドが1つ。
 サイドテーブルには水差しとコップ、それから数冊の本が平に積み上げられている。
「悪くはないわ。良くもないけれど」
 上体を起こしてベッドに座っているのは、白い髪に白い肌、骨に皮が張り付いているような細い体と、枯れ木のような女性であった。
 名をヴァインカルというピアニスト。つまりは、1人の蛮族である。
 来客の姿を認めるなり、ヴァインカルは視線を逸らして窓の外の青空を見た。青く、広い空の遠くに、白い雲が浮かんでいる。
 太陽の光を反射して、きらきらと光る海も見える。
 海洋の港町なら、どこでも見られる当たり前の光景だ。日がな一日、こうして海を眺めているヴァインカルにとっては、すっかり見慣れた景色だろう。
 強いて言うなら、ここ数日で海辺の樹々がすっかり赤や黄色に色付き始めたことぐらいだろうか。夏が終わって、そろそろ秋がやって来る。
 溜め息を零したイズマは、ベッドに近づくと紙袋の中身をサイドテーブルに置いた。林檎にバナナ、オレンジとつい今朝がたに採って来たばかりに思える新鮮な果実だ。
 ふわり、とトパァズ色をした香気が部屋に漂った。すん、と形の良い鼻を鳴らしたヴァインカルは、視線を窓の外へと向けたままに問う。
「ベロニカ・ブルーは?」
 ベロニカ・ブルー。
 長らくヴァインカルが所有していた未完成の楽譜である。その魅力……或いは、魔力と呼ぶべきか……に取り憑かれたヴァインカルは、ベロニカ・ブルーの完成を目指し、寝食も惜しんで作曲に取り組み、そして狂った。
 狂ったヴァインカルを抑え込み、ベロニカ・ブルーの楽譜を回収していったのがイズマたちイレギュラーズというわけだ。
「調査中。今のところ、あの楽譜に呪いなんかの類がかけられていた痕跡は窺えないそうだけど……」
「当然でしょうね」
 窓の方に向けていた視線を、イズマの方へと移し替え、ヴァインカルは告げた。
「だって、ただの未完成の楽譜だもの。あの楽譜に魅入られる者がいるとしたら、それは私やあなたのような、楽器を武器とし、スポットライトの照り付けるステージを戦場とする音楽家だけ」
 氷のように冷たく、鋭く研がれた刃のように剣呑な眼差し。
 ステージに立つ音楽家とは“こう”なのだ。
 刺し貫くような眼差しを真正面から受け止めて、イズマは首肯する。
「そうだろうね。だからこそ、ヴァインカルさんは死にかけてまでベロニカ・ブルーを完成させようとした」
 結局、完成には至らなかったけれど。
 その過程で生まれたものと言えば、最初から死んでいるような未完成の名曲の山。名前も付けられないまま、クルクルに丸めて、ガラスの瓶に詰め込まれ、大海原に流された、きっと幾つもの楽譜ばかり。
「ピアニストという蛮族は、皆、そんな風なのか?」
「どうでしょうね。どうだっていいわ」
 骨と皮ばかりになった白く長い指を見下ろし、ヴァインカルはため息を零す。
 それから彼女は、まるで挑むかのような視線をイズマへ向けた。
「蛮族が、自分自身の戦場で、戦いの果てに命を落としかけただけ。それに何の問題が?」
 問題はない。
 問題はないのだ。
 ヴァインカルは、あの時、作曲の果てに死んでも良かった。
 ピアニストという1人の蛮族が、ピアノと言う自分自身の武器を頼りに、ベロニカ・ブルーという楽曲と相対したのだ。
 その末に命が尽きたとて、それはきっと、そういう運命だったのだろうと納得できる。自分自身の未熟を恥じることこそあれど、誰かを恨むことは無い。
 ベロニカ・ブルーの楽譜を失った今も、ヴァインカルにはそう思えた。
「死ぬならいつかステージで。最後までピアノを弾きながら」
 数多の音楽家たちがそう願い、そして叶えられないままに果てた願いを、ヴァインカルはその小さな赤い舌へと乗せた。

「林檎」
「……なに?」
 突然、ヴァインカルは果物の名前を口にした。何のことか分からずに困惑しているイズマを見て、呆れたようにヴァインカルはテーブルの端を指で叩いた。
 指元には1本の果物ナイフ。
 林檎を剥いてカットしろと言っているのだとイズマは理解した。
「子供でも、もう少し自分の要求を正確に主張できると思う」
「でも伝わったじゃない。つまり、私の主張はこれで正確だったと言うこと」
 口数は少ないくせに、口が減らない。
「ピアニストなのよ。指を怪我したら大変」
「俺だって音楽家なんだが……」
「鋼の右手がナイフ程度で怪我をするの?」
 そう言われればその通りだし、何よりこれ以上議論、口論を続けていても意味が無いので、イズマは素直に林檎の皮を剥くことにした。
 決して、言い負かされたわけではないことだけは重ねて主張しておく。
 しゃりしゃりと、林檎の皮を剥く音だけが明るい部屋に聞こえていた。林檎の皮と一緒に零れた幽かな音は、ベッドの周辺で空気の溶けて消えていく。
 空気の溶けた音は、その後、どこに行くのだろうか。
「皆には会った」
「質問なら“?”を付けてくれよ。皆ってシラホシ・フィルハーモニー管弦楽団の人たちか?」
 シラホシ・フィルハーモニー管弦楽団。
 海洋の各地を旅するオーケストラ楽団の名である。ヴァインカルは、そのメンバーの1人だ。もっとも、彼女はピアニストであり、ヴァインカルのステージを見たイフタフの感想としては「群れの中に居てなお孤軍」、「孤独な蛮族」と言った風だった、と聞いている。
 そんな彼女が、シラホシ・フィルハーモニー管弦楽団のことを気にしている。その事実が、イズマには少しおかしく思えた。
「シラホシ・フィルハーモニー管弦楽団の皆さんが心配してるよ」
「そう」
 だったら早く合流しないと。
 そんな風な言葉を零したヴァインカルの横顔は、死地を求める戦士のそれであるかのようにイズマには思えた。

 林檎を1つ食べ終えて、ヴァインカルへベッドから起き上がった。
 すっかり痩せた細い脚で床を踏み締め、まっすぐそこに立っている。数度、ほぐすように腕や肩を回したヴァインカルはイズマの方へ手を差し出した。
「? どういう……」
「楽譜。それとも、レコードかしら。持っているんでしょう。そうじゃなきゃ、わざわざ私のところに来るなんてしないだろうし」
「そんなことはないけどね。同じ音楽家同士、ヴァインカルさんの体調が心配だったというのはあるから」
 そう言いつつも、イズマは鞄の中から数枚の紙束を取り出した。
 かなり古い楽譜のようだ。
 ほんのりと、黴とインクの匂いがする。
「行きましょうか」
 数十秒ほど、楽譜に視線を落としていたヴァインカルが歩き始めた。イズマは黙ってその後を追いかける。
 どこへ向かうつもりなのか。
 そんなことを問う必要はない。
 イズマも、ヴァインカルも、音楽家なのだから。
 音楽家の向かうべき場所なんて1つしかない。
 戦場だ。

 『イライザ』
 ヴァインカルの元に、イズマが持ち込んだ楽譜。それに綴られた楽曲の名だ。
 作曲者の名はベルリオ・トーティス。
 その姓の示す通り、イズマの生家トーティスの縁者である。
 イズマがこの混沌とした世界に召喚される際、弾こうとしていた楽曲こそがイライザだ。イズマの実家に眠っていたボロボロの楽譜だが、不思議と気を惹かれるものがある。
 なぜ、イライザを演奏したいと思ったのか。
 イズマ自身にも、その理由は分からない。
「ベロニカ・ブルーに近しい」
 五線譜に踊る音符を読んで、ヴァインカルはそう言った。
 ベロニカ・ブルーとイライザ。作曲者も違う、作られた世界さえも異なる2つの楽曲。けれど、不可思議なことにその両者には“果てしなく音楽家の気を惹く”という性質があった。
「ピアノは。以前は、ヴァイオリンを弾いていたけれど」
「弾けるよ。人並程度には」
 実際のところ、イズマのピアノの腕と言うと“人並”以上にはあるわけだがそこはそれ。音楽家に限った話ではないのだが、何事も“ある一定”の水準を超えた知識や技術に至った瞬間、自身の実力にどうしようもない不足を感じるようになる。
 これまでの自分は、まったくのへたくそ、未熟者であり、それがどうしていっぱしの識者気取りで偉そうに講釈を垂れていたのか、人の目にそれを披露してやろうなんて思えたのか、とそんな風に思えて来るのだ。
 あるのだ。何事にも、目には見えない、余人には知ることの出来ない、絶望的なほどの高みというものが。
 その高みは、常にそこに見えている。見えているから、手が届くと錯覚する。だが、実際は違う。高みは、容易には手が届かないから“高み”と言うのだ。
 手の届かない高みを目指し、足掻き狂って、血を吐いた末に絶望して膝を屈した者が世の中にいったい、どれだけいるのだろうか。
 我々が日々、なんの気も無く享受しているあらゆることは、屍山血河と数えきれないほどの墓標の上にある。
 そんな事実を誰も知らないし、誰も知る必要はないが。
 閑話休題。
「基礎的な演奏が出来れば上々。これは……技術でどうにかできる曲なのかしら」
 楽譜を凝視し、ヴァインカルは首を傾げる。
 暫くして、ヴァインカルはピアノの前に座った。ピアノの傍の窓の向こうには、綺麗に赤く染まった紅葉の樹があった。
 風が吹いて、この葉が舞い散る。
 それが合図であったかのように、ヴァインカルは白と黒の鍵盤に細い指を叩きつけた。音が鳴る。長く伸びる、陰鬱な旋律。
 不協和音の目立つ、陰鬱な曲だ。音の粒がばらついている。ピアノの音が、大きく、小さく、嵐の初めの雨のように降りしきる。
 脳髄の奥を掻き回され、胸の奥に手を突っ込まれて搔き乱されるような気になる。
 イズマの視界から色が消えていく。黒と白に世界が染まる。紅葉の赤は、既に黒に飲まれて消えた。まるで世界から色が消えてしまったみたいに、せっかくの紅葉が台無しになった。
 世界中に溢れかえっている音を、まったくのすべて飲み込んでしまう音というのがこの世には存在しているのだ。
 時間の流れさえも少しずつ遅くなる。
 時よ止まれ、お前は美しい。
 誰かの声が脳髄に刻み込まれたような錯覚。
 瞬間、ブツンと曲が途切れた。
 世界に色と音が戻って来る。ヴァインカルは青白い顔をして、鍵盤の上に突っ伏していた。

●この世が闇だと知ってくれ
 世界がはじまるはるか前から音はあって、世界が終わった遥か後まで音は鳴り続けるのだろう。
 暗い闇の中で、イズマは1人、そう思う。
 孤独な場所だ。
 ヴァインカルの戦場は、きっといつも、このようなものだったのだろう。
 額から流れた汗が顎へと伝う。
 指に鈍い痛みが走る。
 視界の端に赤色が浮かんだ。窓から見える紅葉だ。
「集中して。孤独の中で、1人、どこまでも歩いて行って」
 声が聴こえる。
 ヴァインカルの声だ。イズマが集中を途切れさせるたび、ヴァインカルから叱責が飛ぶ。もう何時間も、こんなことを続けている。
 窓の外は、すっかり暗くなっている。
 時間なんて、どうだっていいのだ。
 イズマも、ヴァインカルも。
 暗闇の中、1人で歩む蛮族なのだから。



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