PandoraPartyProject

SS詳細

夕暮イニティウム

登場人物一覧

澄原 晴陽(p3n000216)
國定 天川(p3p010201)
決意の復讐者

 猫鬼の一件が済んでから、日常に戻っていく。あれだけの事があったというのに静羅川立神教は何らアクションを起こさず、静かに『一つの派閥が消え失せた』だけになっていた。
 それでも、縋るべきものが変わっただけの者は多く居る。簡単に全てを『変える』事は出来ないのだろうが、少なくともなじみやルシアは日常の変化を受け入れているようだった。
 ――と、なれば天川自身もある『一つの変化』に対して向き合う必要がある。それを長らく放置していた訳ではないが、踏ん切りを付ける必要はあったのだ。
 天川はaPhoneと睨めっこしていた。アドレス帳を見てはタイミングを測る。思えば、自身がそのように思い悩んだりタイミングを伺うのも何時だって彼女相手の時ばかりだ。
 彼女――澄原晴陽という女は常に忙しなく動き回っている。病院経営を若い身の上で任されていることもあるのだろう。それ以上に本人も難解な『夜妖憑き』達の診察や治療に赴いている事もあり、隙間時間を余り有していない。そもそも、真面目すぎるきらいのある彼女だ。暇を作るならば仕事をしたいとでも言った様子なのだろう。――だから、悩んでいた。
 自惚れではなく、自分が絡むと彼女は手を止めてくれる。しっかりと予定を空け、その周辺に多忙を極める。それでも、自らのためにと時間をとってくれるのだ。
 そう、彼女は真面目すぎるのだ。天川が何らかのアクションを起こせば晴陽もそれと同等程度に返してくれる。タイミングが重要だと頭を抱えてから、漸く決心した。頭の中に晴陽の従妹である天真爛漫で、此方は不真面目な彼女が『どーんと行って後は流れですよ!』とにこにこ笑っている様子が頭に過ったからだ。
 数コールの後、「澄原です」と何時もの如く淡々とした声音が響いた。「ああ、晴陽」と声を掛ければ「こんにちは」と幾許か相手側の声音が和らいだ。
「今は忙しいか? 少し話しても?」
「いえ、大丈夫です。どうかなさいましたか?」
「急ぎじゃないんだが……晴陽。次の休日に時間をくれないか? 大事な話がある。君は忙しいだろうし、日程はこちらが合わせる。一緒に昼食を取った後に海にでも行こう」
 出来る限りは彼女に予定を合わせての予定を立てるつもりだと付け加えれば晴陽が「少々お待ちください」と短く言い切った。
 スケジュールと睨めっこしているのだろう。彼女側も合せてくれる事が良く分かる。自身の予定を捻じ込んでくれるようになったのは喜ぶべきなのか、それとも彼女に大いに気を遣わせているのか――などと考えてしまう辺りが天川の悪い癖だった。
「合せて頂けるとの事ですので……それでは、この日に」
 近い予定を切り替えされてから天川は「オーケー」と返した。その後、他愛もない会話を終えてから電話を切り、天川は天気予報を確認してから買い出しに出た。
 その日もまだまだ暑くなる。日傘を購入しておこうと考えたのだ。夏の海は陽射しが鋭い。夕暮時であったとて、あの色素の薄い女医は太陽で溶けてしまいそうだと考えたからだ。

「こんにちは、お待たせしましたか?」
「いや、大丈夫だ。時間ぴったりだからな」
 ノースリーブのブラウスに白のパンツ姿の晴陽は動きやすさを重視しているようだった。曰く、海に行こうとのことでしたのでと足元からも砂浜に適した物を選んだらしい。
 長い髪は後ろで緩く纏められているのだろう。フォーマルな姿などはよく見たが、カジュアルに装うのは珍しい。「中々見慣れない格好だな」と天川はつい、まじまじと見てしまった。
「お好みではありませんか?」
「そんな事は言ってないだろう」
 晴陽が小さく笑う声がして天川は肩を竦めた。どうやら揶揄われていたらしい。気易くそんなことを言い出す彼女は『水夜子にでも仕込まれた台詞』をさらりと言ってのけたダケの様子である。
 昼食を取る店は決めて居た。それなりに雰囲気の良いカフェだ。目的地の海にも程近い場所をセレクトした為か、潮の香りが鼻腔を擽っている。
 ベイサイドのショッピングモールに足を踏み入れてから晴陽は「少しだけ宜しいですか」と近くの雑貨屋を覗き込んだ。何時もの如くゆるキャラや妙な動物アイテムでも見付けたのかと手許を覗き込めば晴陽は店内に陳列されている雑貨をまじまじと眺めて居るようだった。
「何か必要なものがあるのか?」
「私ではなく、ルシアさんと深美さんへ。生活基盤はある程度整えてあげたのですが……何方も、心のゆとりとなりそうな品を持っていなかったので。
 深美さんへは彩りを差し上げておこうかと。引越祝いでもありますから。ルシアさんは……そうですね、ぬいぐるみなどでもいいのかもしれません」
 それぞれが新生活に向かう際に、余りに無機質な部屋は望ましくないと晴陽は考えて居たのだろう。特に、ルシアは年頃の少女でもある。水夜子がその居室にアロマデュフェーザーやらシンプルな家具を持ち込んで「必要なものを教えてください!」と声を掛けているそうだが、反応は乏しいのだという。
 いっそのことぬいぐるみでも押し付ければ彼女の中で何か変わるのではないかと考えたらしい。思わぬ買い物に天川は「九天か」と呟いた。深美――なじみの母の方は新生活を始めた祝いとして食器と雑貨を渡しておきたいという程度なのだろうが、ルシアの話を聞くに天川も何か用意しておくべきだろうと納得し雑貨をまじまじと眺める。
「いっそ晴陽の好みのぬいぐるみでも渡してみたらどうだ?」
「ああ、良いかもしれませんね。天川さんがくださった犬さんとか、……あと不思議な宇宙人とかでも渡しましょうか」
「それを主治医から渡されたら、どう言う反応をするべきか迷いそうだな」
 天川が揶揄うように笑えば晴陽は衝撃を受けた様子ではっと息を呑んで「確かに……」と神妙に呟いたのであった。
 彼女の趣味が『やや難解』であるのは確かだ。その辺りも言い含めた上でルシアには何らかのアクションを起こしてやった方が良いだろうか。
 店舗を覗きながらカフェへと到着する。予定よりも時間が経っていたが、まだまだランチタイムだ。
 パスタを食べる晴陽は「洋服なども良いのかも知れませんね」と何気なしに言った。ルシアが纏っていたのは教団の白衣だった。年頃の少女らしい服を買い与えてやるのも良いかも知れない。
「服ならなじみ嬢達にでも買い出しを頼めばいいのかもしれないな。いっそ、九天も買い物に連れて行って貰えばいいだろう」
「そうですね。同年代の友人との交流も良い経験になりましょう」
 九天ルシアの社会復帰の話ばかりをしているな、と天川は気付いてから「最近はどうだ」と別の話を切り出すべく声を掛けた。相変わらず真面目な彼女の日常は、仕事に塗れていたがそれも晴陽らしいのだと納得し、淡々と話すその声に耳を傾けていた。
 ショッピングモールを回り終えてから、まだ陽射しが厳しく感じられる夕焼けの空を眺めながら海辺へとやってきた。
 大きめの日傘の下で歩く晴陽は「海も斯うしてみると美しいですね、東浦ではあまり……」とぽつりと零した。
「そうだな、あの時は海を眺めるという余裕もなかった。しかし、日が落ちそうになっても暑いな……。だが良い風が吹いてる。気持ちがいい」
「ええ。無風だとげんなりしたかもしれません」
 肩を竦める晴陽に天川は頷いた。唇を引き結んだ彼女は天川がこの日の約束を取り付ける際に口にした『大切な話』を待っているのだろう。
 ならば、迷っている暇はない。しっかりと伝えるべきを伝え、彼女と向き合いたいのだ。
「晴陽」
「はい」
「大切な話、と言ったが話しても構わないか?」
「ええ。聞く準備はして居ます」
 こくりと頷いた晴陽に天川は少しだけ間を開けてから、もう一度彼女の名前を呼んだ。見上げてくる紫色の瞳は逸らされることはない。
「……時間が空いちまったが、改めて俺の気持ちを伝えておく。俺は君が好きだ。
 あの時、貴方がどうなさりたいかを答えて下さいって言ったよな? 何のことはない。明確に望むのが怖かったんだ」
「明確に、ですか」
「そうだ。俺も大人だ。恋を否定されることはいい。だが晴陽を困らせたり傷付けるのが怖かった……。
 俺が何かを望んだとき、それが晴陽にとっての負担になる可能性がある。それだけは避けたかった。晴陽にとっての重荷になりたいわけじゃないからな」
 天川は何気なしに自身のポケットを探った。癖のようなものなのだろう。タバコを探してしまった自分の手に気付いてからはっと指先を固める。
 それに頼ってばかりでは行けない。何せ相手は医者だ。煙草を吸うなとは言われないだろうが、渋い表情をされる可能性はある。
 彼女は主にという言葉に僅かに眉を顰めたようだった。それは晴陽を理由に自身が向き合う事を避けたと言って居るかのようでもあるからだ。
「だがそれじゃ卑怯だし失礼だったよな……。俺は……晴陽と共に歩む人生が欲しい」
「……私は、澄原です。希望ヶ浜の『澄原』としては私と龍成が引き継ぐべき存在となり、私には病院と希望ヶ浜の安寧を守っていく必要があるのです」
 晴陽は言葉を選ぶ様にそう言った。澄原病院は地域の基幹となる医療を司っているだけではない。夜妖と呼ばれた存在に対して理解の乏しい一般人を『病気』であると定義し、それを彼等の心の負担にならぬうちに治療する手筈を整えるのだ。希望ヶ浜という地が続くためには必要な仕事ではある。
 つまり――澄原晴陽は練達から離れられず、澄原の名を繋いで行く必要があるのだ。共に生きるというならばそれを許容し、寧ろ、その役目を引き受けなくてはならない。
「ああ、それか。晴陽は知っているだろうが晶は超大企業『神代重工』の令嬢だ。
 超大企業『神代重工』の令嬢を娶った男として晴陽とそういう関係になることにどんな意味があるか位分かる。
 ……勿論、彼女は跡継ぎではなかったけれど、大丈夫だ。それを理解出来ずに無理を言っているわけじゃない」
「ですが――私は龍成に我が家の後を継がせるつもりはありません。彼には自由に生きて欲しい。
 だからこそ、私が澄原として生きていく以外の選択肢を持ち合わせては居ません」
「その気持ちも良く分かっている。だから、家のことを気にしているなら、それは全く気にしなくて良い。任せておけ。晴陽の望んでいる形で構わない」
 晴陽という娘は非常に難解な出来だ。女性である為に、後を引き継ぐならば『弟』にその位置を譲るべきだ。だが、そうはならなかったのだ。
 どちらかと言えば晴陽は天才ではない。秀才と言うべきだ。努力の人でもある。幼少期から娯楽を排除し、出来うる限りの知識を頭に詰め込んだ澄原家の才媛。
 彼女が天才的に発揮したのは集中力と、継続力だったのだろう。その鬼気迫る姿に弟・龍成は叶わないと晴陽から距離を置いてしまった。今更になって和解した弟は「姉ちゃんと一緒に家を支える」とは言うだろうが晴陽は彼には家になど縛られず自由に生きて欲しいと願っているのだ。
(まあ、婚姻を結ぶとなれば基本、家督と弟にでも譲るという考えがあるのは理解出来る。晴陽に宛がわれていた元婚約者だって婿養子となる予定であっただろうからな……)
 天川はその辺りまでも全て理解しているともう一度口にしてから、何処か悩ましげな晴陽をまじまじと見詰めた。
「だが、さっき言った事も含めてだが焦っちゃいない。そういう関係になるのは君の心の準備が出来てからで構わない。
 ああ……。言っておくが俺の気持ちは、今ここでそうなったって構わないぜ?」
 揶揄うように笑った天川に晴陽は「プロポーズされるとは思って居ませんでした。この場で」とさらりと言ってのけた。
 表情が変わっていないのは頭が『澄原家』についてで一杯だからなのだろう。天川も晴陽が照れたり慌てたりと、そうした表情を見せる可能性があるだろうとも考えて居たが、これはこれで彼女らしいとも考える。
「そうですね……。気がかりが一つ。これから、混沌世界は滅びとの真っ向対決になるでしょう。
 もしも、です。練達の悲願である元世界の帰還が浮上したときに、人々がどの様に向き合うべきなのかは分かりません。それが私の気がかりです」
「俺が帰りたくなると?」
「いえ、天川さんは帰らないと思っています。私に斯うして伝えてくださった以上、それは不義理になりますし。
 それに、何よりも天川さんは死刑囚ですから」
 さらりと言ってのけた晴陽に天川は「まあ」と肩を竦めた。確かに彼女の言う通り元世界に対して大きな未練は無い。あるとすれば義弟がどうなったかという事や晶達の墓参りに行きたいという位ではあるのだが。
「それから、滅びの時が来て、イレギュラーズが戦いに行かねばならならなくなったならば。
 その危機が来た際に、貴方は戦いに行くでしょう。ええ、勿論。この世界を護る為ですから」
「そうだな」
「その時に、婚姻を結んでしまえば『二度とは繰返さない』為に、貴方はきっと私の事を考える」
「ああ」
「貴方の重荷になどなりたくはありません。澄原晴陽は、貴方の人生位、希望ヶ浜と一緒に背負って見せる女です。
 ですので、その負担となるならば婚姻のタイミングは遅らせましょう。ええ、私も特段準備が出来ていないわけではありませんから」
 何時でも宜しいです、と今度は彼女の側がさらりと言ってのけた。相変わらずだが、彼女の方が肝が据わっているのだ。天川は「いつでもか」と呟く。
「はい。まあ、準備は必要ですね。色々と人生の設計と見直しがありますから」
「晴陽らしいと言えばそうだが、あっけらかんと言うもんだな」
「……正直なことを申しますと、絶対そうした話しになるかと思って居ました。約束をした日から、どうしようかと考えたというのが本音です」
 何と云うべきなのか、どの様な言葉を継げるべきか。思い悩んだのだという晴陽がその視線を右往左往とさせている。
 頭の中にあったのが『澄原』の名を護る事と、世界の在り方であったからこそ気丈に振る舞えていたのだろうが――さて、此処からはそうは行かないのだろう。
「あと、私の結婚というのは夜善の事もありますが家が決めるものであり、恋愛感情というのは必要ないかと思っていたのです」
「すまんが、夜善は晴陽の事が好きだったとは思うんだが……」
「私は興味が無かったので」
 此処に草薙 夜善が居たならば泣いていただろうか。いや、屹度彼の恋というのも早々に終ってしまっていたのだろう。
 ……出来れば、彼が幸せになってくれる未来があるようにと天川は思わずには居られない。
「ですから、恋人というものに対して、どの様に振る舞えば良いのかは分からないのです。ええ、恋人、でしょう」
「ああ、そうだな。恋人だ。今し方、婚約者と呼んでも構わない状態にはなったが」
「では、それで構いません。恋人を含んだ婚約者とはどの様に振る舞うべきなのでしょう。一先ず、抱き締めて頂いたり等するべきなのでしょうか。申し訳ありません、よく分からず」
 夕焼け空の下で徐々に小さくなって行く声音を吐出していく晴陽に天川はふっと笑みを零した。不器用な大人同士、どの様に接するべきなのかは自分たちだって分からない。
 何時でも良い――とそう言った彼女の気がかりなんて「問題は無い」と言ってのければ良いのだろうか。
 國定の名を捨てて澄原と名乗れと晴陽に言われればそうする事だって許容できる。いや、それを許容できないならばそもそも彼女は自身と関係を進めることを是ともしないだろう。
 そもそも、婚姻関係というものにそれ程重きを置いていない彼女の現状は良く分かって仕舞ったのだ。
 恋人の期間というのも積み重ねてもよいのかもしれないと天川は笑った。それまでそうした繋がりは一先ずお預けにして置くのもありか。
「恋人初心者の晴陽とも向き合わなけりゃ行けないようだな」
「それは非常に難しいオーダーになるのではないでしょうか? 私はその辺りはからっきしですから。
 何らかの参考文献を頂けるのであれば、拝読致します。どの様なものがあるのかは分かりませんが……」
 困った顔をした晴陽の頭をぽんと撫でてから「大丈夫だ。晴陽に合せて行くつもりだからな」と天川は頷いた。
「それにしたってその状態で誰かと結婚した場合は仮面夫婦を演じていたのか?」
「必要な接触以外は避けるつもりでした。特に、婚約者が夜善でしたので理解はしているでしょうから」
 またも夜善が不憫になった天川なのであった。しかし、『それに悩む』様になった事で晴陽が天川に対してどの様に考えて居るのかが翌々理解出来たと言うのは彼女には言うべきではないだろう。それを言ってしまえば暫くは顔を見てくれないかも知れない。
 この状態に付き合うのはそれなりに難しいものだと天川はくつくつと喉を鳴らしてから、相変わらず戸惑っている晴陽に「もう一つ、あるんだ」とゆっくりと向き直った。
「何か……」
「その……実はな。探偵業は続けるつもりだが、同時に理学療法士を目指そうと思ってる」
「理学療法士、ですか」
 どちらかと言えば『こちら』の方に驚いた表情を見せるのかと天川は思わず晴陽をまじまじと眺めてしまった。ぱちくりと瞬いた彼女は天川はてっきりイレギュラーズと探偵の二足の草鞋で過ごすと考えて居たのだ。
「なんだ……古流武術ってのは人体を効率よく壊す為の技術体系なんだが、その性質上人体の構造については詳しくなりがちだ。それを生かしてみたい。少しでも病院で晴陽の力になりたくてな……」
「私が医者だからと気を遣わせていませんか?」
 確かに、彼女が医者でなければその選択肢は出なかったかも知れない。だが、それも自身が新しい道を切り開くためのものでありそれ以上に細かな制約が存在して居るわけではない。
「いや、俺が決めた事だ。だが、その……今更大学受験なんてバカだと思われるかもしれないが……。
 あー……人体について詳しいといっても勉学はブランクもあって嫌いじゃないが人並み以下だ……。少しばかり受験勉強に付き合ってくれると嬉しい」
 照れ臭くて歯切れの悪い天川に晴陽は「構いません。私が出来る範囲でしたらお手伝い致します」と頷いた。
 頷いたが――そもそも、澄原晴陽という女は積み重ねてきた知識を生かしてさらりと大学に受かりさらりと医師免許を取ってくるような女だ。
 教えることが得意かと言われればそうでは無い。晴陽はそうした他者と関わる部分には驚くばかりに苦手が詰っているのだ。
「ただ、私自身も大学を出て長くなっておりますので必要科目などが分からないやもしれません。水夜子やなじみさんを頼ってみるのもいいかもしれませんね」
「ああ、そういや、みゃーこもなじみ嬢もそんな年齢だったか。確かに、傾向なんかは聞いてみても良いかもしれんな」
「では、今度そのように準備をしましょう。また病院の一室を貸し出してなじみさんの時のように勉強会をしてもいいですしね。
 ついでに、あの方達の単位も心配ですし、その辺りもしっかりと学ぶのも宜しいかと思いますが。
 しかし……ふふ、面白くなってしまいました。天川さんが、あの二人の後輩のように振る舞うことになるのですね」
 その様子を思い浮かべたのだろう晴陽は柔らかに笑う。出会った頃には見せることの無かった笑みに天川は「そんな笑うな」と敢て困ったように言って見せた。
 彼女が笑うようになったのは、親友の一件を経てから。何時までだって、遁れ得ぬ黒い影を背負っている。同じような傷を負っているからこそ、その表情の固さも自らが進むべき道が血塗れようとも構わないという覚悟だって良く分かった。今は笑顔を見せてくれるようになっただけでも、その肩の荷が下りたのだと喜ばしくなるのだ。
「まあ、勉学は勉学だ」
 天川はそれ以上笑われて仕舞えば何となく気恥ずかしさが勝ると一度話を切り上げる。今度、その場が来て仕舞えば晴陽はそれはそれは楽しそうに笑い始めるのかも知れないが――
「それだけじゃない。勉学では晴陽に苦労を掛ける可能性はあるが晴陽が困ったならば何時だって助ける準備は出来ている。
 こっちの方は一番得意だ。夜妖対応も任せておけ」
 にやりと笑い、力こぶを作った天川がぽんぽんと腕を叩けば晴陽は「暴れる患者対応もお任せしないといけませんね」と頷いた。
「夜妖憑きの患者か」と呟いた天川に晴陽は「まあ、色々とややこしい相手が多いのも実情です」と頷いた。確かに、彼女が初めてローレットに依頼を持ってきた時にはローレットが信頼できる相手であるかを確かめるように意地の悪い難題を仕掛けてきたとも聞いている。
 敵か味方か、どちらかと言えば彼女は何方にでも成り得る存在であったのだろう。そうした無理難題をふっかけヒールに徹する必要もこれからは無くなると天川は力強く言った。
「さて、夕食にして帰るか。今日は鮨の店を取ってる」
「あら、それは楽しみですね。夕焼けも綺麗でした」
 夏の海を眺めて居た晴陽に手を貸してから天川は歩き出す。夕焼けに伸びた影を見下ろしてから晴陽は吹いた風に煽られた髪を抑えて目を伏せる。
 自然な仕草で手を取り合って、砂浜を抜けて歩き出した。閉じた日傘を手に、なだらかな道をゆっくりと歩いて行く。
「天川さん」
「どうした?」
「此処の夕日は作り物です。再現性東京は全てが張りぼてで出来ていますから。
 平和になったならば、他の景色も見に行きましょう。あまりに滅びの不安だとか色々と、困り事がある状況では難しいですが……」
「ああ、そうだな。平和にするのも俺の役割だ」
 様々な場所を見て回ること。それが危うい場所には近付かないことを徹底する彼女にとっては難しいと天川も知っている。
 世界が平和に満ちて、自衛する程度で済むならば何処か、遠くを見て回るのだって良い。旅行だと、新しい世界を彼女に見せてやることも出来る。
 その為には――成すべき事は決まっているのだと。傍らの彼女の顔をじっと見詰めてから決意した。

 食事を経てから、何時ものように彼女を自宅に送る道を辿っていた。食事で何が美味しいだとか、何が好みであるかを話し合いながら歩いていれば直ぐにでも別れの時間はやってくるのだ。
 それを惜しむような事は無いが、天川は「晴陽」と呼び掛けた。何時もならば「それでは」と手を振り去って行く彼女は普段と違った様子に不思議そうに首を捻る。
「……晴陽、嫌ならぶん殴ってくれ」
 そっとその腕を引いて抱き締めた。腕の中で僅かに晴陽が硬直したことが分かる。
 夕焼けの中で彼女は言って居た。――一先ず、抱き締めて頂いたり等するべきなのでしょうか。申し訳ありません、よく分からず、と。
 その良く分からない状況に直面した彼女は大人しかった。腕の中で固まっては居るが殴られることもなければ拒絶することもない。
「……俺はトラウマ持ちで、臆病で……面倒な男だ。だがこの気持ちは本物だ。いつだって晴陽の味方であろう」
「その……大丈夫です。よく、理解しています」
 辿々しいが、彼女はそれだけをぽつりと零した。ゆっくりと身体を離せば晴陽が俯いていることに気付いた。
 困らせてしまったのだろうかと天川は「晴陽」と呼び掛ける。未だ俯いたままの彼女の肩が僅かに揺らいでいた。
「いきなり悪かったな。ぶん殴られる覚悟はしていたが、ホッとしたぜ。言葉も大事だが行動でも示さなきゃと思ったらこうなった……。
 驚かせたかもしれないが、不安にはさせたくない」
「驚かなかったと云えば嘘になるのですが。いえ、大丈夫です、その、嫌ではありませんでしたから」
 晴陽がそっと天川の手を握り締めてから「緊張するものですね、こう言うのは」と呟いた。天川は「そうだな」と笑う。斯うした経験ならば自身の方が上なのだ。
 何時も淡々としている様子の晴陽が戸惑っているだけで、どうにも面白くなってしまったというのは秘密にしておこう。それ以上言えば、彼女は本当に起こり始めるかも知れないのだから。
「それじゃおやすみ。また一緒に過ごそう。いい夢を」
「はい。おやすみなさい」
 それではと頭を下げて走って行くその背中を見送ってから、天川ははあと息を吐いた。手探りで煙草を手にしてから目を伏せる。
 何時でも準備は出来ている、と言われてしまったからにはあとはタイミング次第なのだろう。彼女は強く押せば「構いません、それでは結婚しましょう」等と言い出しかねない相手だ。
「しかし、中々、手強いな……」
 婚姻関係と恋人関係が密接に結び合っていない状態の彼女だ。さて、恋人と、婚約者と大手を振って名乗っても良くなったのだが――次からはどの様に接するべきか。
 そんなことを考えてから吐出した紫煙は夏の空へとゆっくりと昇っていった。


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