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過ぎゆく君にララバイ
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――新着メッセージが届きました。
騒動を終えてから、一度は全員帰宅なさいと澄原 晴陽に声を掛けられて気怠さに背中を押されて辿り着いた自宅のベッド。
埋もれるように倒れ込んでから、暫くの記憶が無い。どうやらベッドにダイブしたと共に意識も深い所へいってしまっていたようだ。
ぐっすりと眠っていたのだ。身体を起こす事も怠くて、投げ捨てるように放っていたaPhoneを充電ケーブルに繋いでから着信音がしたと頭を上げた。
どうやらメッセージアプリの通知音だった。その音で起こされたのだと文句を言いたくなった定は『なじみさん』の名前に勢い良く身体を上げる。
「えっ、あ」
慌ててしまったがメッセージが送られてきただけだ。電話でないのだから、それ程大慌てで身体を起こす意味は無い。
定は「はあああ」と重苦しい気を吐出してからメッセージを開く。
『大丈夫?』という言葉が踊っている。疲弊して眠っていた事を返答すれば『私もよく寝てた』と楽しそうな文面が返ってきた。
『あのね、お礼とか、色々』『よければしたいなって』
ぽこん、ぽこんと音が鳴って途切れ途切れに送られてきたメッセージに定は「OK」と返した。行く先はなじみが現在間借している澄原病院の一室だ。
猫鬼の一件が終ったのだから彼女は、そろそろきちんと退院するという。晴陽を含めた上で話し合ったが、定の提案の通りに学生寮に入るのだそうだ。
母親である深美と一緒に棲まうにはまだ隔たりがあることや、彼女の方が治療を必要にするだろうとの事で暫くの間は時間を空けるらしい。
なじみへの面会を告げて慣れた様子で病棟を進む。扉を開けば荷物を整理しているなじみが「あ、定くん!」と手を振った。
「やあやあ、定くん」
「なじみさん。元気そうでよかったよ」
「ふふ。それはお互い様だぜ」
にんまりと笑ったなじみに定は「まあね」と肩を竦めた。どちらも疲弊して居たのは確かだ。漸く外を歩き回るだけの元気を取り戻したのだと互いが思うのは当たり前のことでもある。
何気なく、何時も通りの様子で話すなじみに定は安心していた。記憶の欠落がある。定にとってはなじみと過ごした日々の『なじみが居た筈の部分』だけがぽっかりと抜け落ちているのだ。
(……でも、君が居て、君のことが好きだったことは良く分かってるんだよな)
座りなよと声を掛けたなじみの隣に腰掛けてからまじまじと彼女を見た。猫の耳は存在せず、人の耳がある。見慣れない彼女の姿だ。代わりに、なじみの膝の上には丸くなっている紫色の猫が居る。
「猫鬼はなじみさんから分離できるようになったんだね」
「うん。それから、たまきちに名前を付けて貰ったんだ。この子は『あざみ』だよ」
あざみと呼ばれた猫鬼がにゃあと、本物の猫のように欠伸をした。定は不思議そうにあざみを見詰めてから「何だか不思議な気分だね」と肩を竦める。
「それで、言いたいことがあるような気がしたけど、どうなんだろう」
「見透かしてるだろう? きっと、なじみさんも僕に同じ事が聞きたいんだと思ってたんだけど」
「まあね」
二人揃って顔を見合わせた。共通の『代償』を支払った。だからこそ、現状を把握していたかったのだ。
定は猫鬼の元に向かう前に、代償を必要とするだろう事を予測してaPhoneの中の画像フォルダのパスワードを変更しておいたのだ。なじみに関連する全てを触れないようにと『前の僕』が行なったのだと定自身は理解している。まるで、過去のなじみへの想いには触れるなと自分自身に牽制されているかのようだ。
実際のパスワードは分からず、もしかすればなじみならば分かるかも知れないと考えた。それを聞くのは格好悪い為、敢て問う気は無いのだが――
「どれ位、記憶を失った?」
「私はそうだなあ。元から、失い慣れてるのもあるけれど、予想より少なかったって言うべきかも。全部忘れちゃうと思った」
「全部って? 君達と出会ってから、全部。けど、残ってるよ。私が定くんの事を好きなのも、定くんが私のことを大好きなのも、あ、キスしたのも」
「キッ――」
ひゅ、と息を呑んだ定になじみがからからと楽しげに笑った。そう言われてしまうとどうにも弱いのだ。
もしも、なじみが「私のことを好き?」と問うたならば、定は恥ずかしげも無くそれを肯定できる。ある意味吹っ切れているのもある。今更隠す事ではないとも想っているから。
慌てた定に「まあ、済んだことは変わらないんだぜ」とさらっと言ってのけたなじみは肩を竦めた。
「でもさ、君だって、忘れただろうに」
「そうだね、僕も色々と忘れてしまってるとは思う。なじみさんと此れまで過ごしてきた日々の中で、君のことだけが抜け落ちているんだ。
花丸ちゃんやひよのさんと遊んだ事も覚えてるんだぜ。なのにさ、どうしようもない程に埋まらない穴がぽっかりと明いていて……でも、そこに君がいたことだけは覚えてる」
温かな気持ちになる。彼女がそこにいなければ、到底感じる事の無いよう温かさを感じるのだ。だからこそ、自身が彼女の事を好きだと理解出来る。
ただ、それでもその感情は『半分』なのだ。抱いている想いがこれで半分だというならば、喪う前はどれ程だったのか。言葉にするのも恐ろしい程に、彼女の事を大切に思っていたのだろうか。
(だから、半分だけの僕じゃ君への想いを伝えるなんて烏滸がましい。過去の僕に恥じないくらいに、同じだけ君を好きになってから初めて伝えられる筈だから)
だからこそ、敢て『好きだ』とは言わなかった。彼女は惜しげも無く、この感情に何ら変化はないと「大好きだよ」と笑ってくれるけれど――一種の自分の中のけじめでもあったからだ。
「無くしてしまっても、またこれからがあると思うだけで私は嬉しいよ。それで、少しお願いがあるんだ」
なじみがまじまじと定を見ていた。その視線の意味に何となく気付けた気がしてから定は「なじみさん」と手を伸ばす。
「ピアスホール、……流石にあざみに開けたから、なじみさんと分離しちゃうと人間の耳には残らないんだね」
そっと頬に触れてから耳朶に優しく触れた。少し力を込めて握ればふにゃりとした柔らかさがある。自分の耳朶と何ら変わらない。『彼女の本物の耳』だ。
擽ったそうに笑ってから「そう、私の耳にはね、ピアスホールがないんだよね」と困った様子で言った。
「折角君がくれた約束も、それから、あざみと一緒に居るためのピアスも、此処には残ってないんだ」
「うん」
「勿論、あざみが私の中に居れば猫の耳が生えてきて其処にはピアスホールがあるかもしれないけれど、それは私じゃないでしょう?」
「そうだね」
「だから――」
もう一度、お願いしたいとなじみは言った。ピアスホールを病院の一室で開けるだなんて、何処か悪い事をしている気分だと定は思わずぼやいた。
なじみはそもそも病人ではないが事情があってこの部屋を間借しているだけに過ぎない。そんな中で、こうしてこっそりとピアスホールを開けて傷を増やす。
もしも晴陽に知られたならば叱られて仕舞うだろうかと二人は顔を見合わせて笑った。
「晴陽せんせに怒られたらどうする?」
「その時は一緒に叱られようよ。病院だから開けてあげたのにって言われたら、これは私達の約束だからそれじゃダメなんだって伝えてね」
「……それで許されるかな?」
「どうだろうね」
二人はもう一度顔を見合わせてから面白くなって笑いを噛み殺した。そんなことを言って居るのではありませんと晴陽が叱る可能性は十分にある。何だかんだで彼女は院長先生で、長女で、大人なのだ。
「じゃあ、悪いことしようか」
「うん、悪い事しよう」
ゆっくりと身を乗り出した。なじみに人の耳があるのはどうにも慣れなくて緊張してしまう。その行動だけで、自身が特別な存在だと教えてくれているのだ。
彼女にとって長らく存在して居なかった人の耳は特別なものだろう。猫鬼から解き放たれた訳ではなく、共存を選んでいたとしても――だ。
「それじゃ、良いの?」
「うん。約束だから」
――過去の僕もこうして彼女の耳にピアスの穴を開けたのだろう。
その時は猫の耳だった。それが本物の自分の耳ではないけれど、許してくれるのかと彼女は問うた(らしい)(僕は覚えて居ない)。
過去の自分にもしも会うことが出来るなら、斯う言ってやるのだ。「お前が出来なかったことを、僕はやったんだぞ」と。
勿体ぶって、触れないで欲しいとパスワードを掛けてまで大切に大切にされた過去の思い出とは別だ。彼女との思い出を増やしていける自分の方が分があるのだと思い直してから定はゆっくりと『約束』の証を開けた。
案の定、晴陽には直ぐばれたらしい。叱られるかと思いきや「ケアだけしましょうね」と彼女は呆れた様子で言ったらしい。
青少年の秘密というのは大人には直ぐにバレてしまうが、それでも大切なものであるのだと彼女も理解してくれたのだろうか。
学生寮に移る準備が出来たという連絡が来てから、定はバイクでなじみを迎えに行った。荷物は後で運び出されて寮の一室に移動されるそうだ。
「身一つで移動できるって結構VIPじゃないかな?」
「なじみさんの荷物が少なかったって言うべきかもね」
迎えに来た定になじみは「かもね」と笑う。初めて彼女と海に行ったときには自転車だった。バイクの2人乗りをしようと言う話をしたが、それにはある程度の時間が必要だと耳に為てサイドカーを提案した(らしい)。ただ、それでは彼女のぬくもりが遠くなってしまうからと結局何時も自転車を2人乗りしてしまうのだ。
そんな日々ともおさらばするように「後ろに乗りなよ」と声を掛ける定へとなじみは「やったー」と嬉しそうに笑った。ジーパンで、と指定したのはバイクに跨がるためだった。ひょいと軽くバイクに跨がったなじみは運転手である定の動きを阻害しないようにとある程度気を配った様子ではある。
「寮に荷物運ばれるまで時間あるなら、何処か行こうぜ?」
「海がいいな。東浦の海。どうなったかなって思ってさ」
「海かあ。……あ、じゃあ、一度帰っても良い?」
「ん?」
東浦の海に行くなら自転車が良い。定がそう言えばなじみは可笑しそうな顔をして「いいけど、海には自転車って決まりができたのかい?」と揶揄うように笑った。
aPhoneの地図アプリを開く必要さえ無くなってしまった。もう随分と勝手知ったる地ではある。横乗り状態で座ったなじみが「コンビニでジュース買おうぜ」と笑う。
「ミルクティ?」
「んー、大人になったのでペットボトル」
「まあ、自転車だしね」
ペットボトルの緑茶を購入してきたなじみに定は頷いた。500mlの紙パックにストローを差して飲んでいる場面をよく見たが、利便性的にペットボトルを選ぶのは大人になったと言うことなのだろうか。屹度、到着してからコンビニに寄ればそうやって飲み始めるだろうにと想像してから定は可笑しくなって笑う。
「あ、そのお茶ちょっと貰っても良い?」
「うん」
少し喉を潤そうとペットボトルを受け取ってお茶を呷る。すると――「間接キスだね」と可笑しそうに彼女は言った。思わず飲んだお茶を吹き出しそうになった。
揶揄って笑うのは彼女らしい。途惑いを感じてしてやられてばかりだと拗ねた定は自転車に座っているなじみから鞄を受け取ってから「出発!」と宣言し、勢い良く自転車のペダルを踏込んだ。
「わ、ふふ」
ぐらりと揺れた後、片腕を定の胴へと回す。其の儘、すいすいと進むようになったのも体力が付いたからだろうか。特異運命座標としてそれなりに鍛えている事が役に立つとは思わなかったと笑いながら坂を登っていく。坂の多い東浦区。その街を2人で自転車で移動するのだって随分と慣れてしまった。
夏の坂道はうだるような暑さを感じる。夕焼け空を見詰めながら坂を自転車で2人で移動するのだ。定の足は悲鳴を上げかけたが、ここでダウンしてなるものかとペダルをず踏込んだ。座っていたなじみは上り坂になればぴょんと飛び降りてから自転車を押す。下りになれば座って「レッツゴー!」と声を掛けるのだ。
当たり前の様に自転車を漕いで坂を行く日常が『僕達の毎日』になるとは定だって思っては居なかった。作り物の空も、作り物の海も、その全てを大切だと感じたのはいつからだっただろう。ヤマなしオチなし、平凡な毎日が一転したのも彼女と出会ってからだった。そう思えば彼女がいることで毎日が変わっていく事を実感できるのだ。
「なじみさんとこうやって海に行くのにもすっかり慣れてしまった気がするぜ」
「まあ、あざみも此処でバトっちまいました!」
「バトっちまったぜ」
「ふふふ。バトっちまった場所ではあるけどさ、私にとっては約束したなあって感じがする」
夕焼け空が眩すぎるほどで、目に染みる。夏の気配はそれでもひしひしと肌を焦がす。日焼止めをしていたって、陽射しが居たいと笑い合ってから、空っぽになったペットボトルを交換するように自販機で麦茶を購入した。
「夏って麦茶が美味しく感じるよね」
そんな何気ないことを言いながらペットボトルをゴミ箱に放り込んだなじみに「汗を良く掻くからかもしれないね」と言ってから「あ、僕臭くない?」と慌てた様に定がタオルで汗を拭った。
「全然気にならないから安心して良いよ」
「それなら良いけどさ。……それにしたって、やっぱり此処まで自転車で来ると足はパンパンになるし、体中悲鳴を上げるけど爽やかな気持ちにはなるよね」
「私もお尻が爆発してるけど、やりきったーって感じする」
「爆発したの?」
「うん。もう6つ位に割れたと思う」
馬鹿みたいだと笑ってから、自転車を自販機の隣に止めたまま、砂浜へと駆けて行く。なじみの背中を追掛けてから定は「綺麗な海だ」とそう言った。
初めて着た頃には日がとっぷり沈んでいたのに、徐々に速度は上がっていって夕日と海を眺められるだけの余裕が出来た。なじみの耳には約束が揺らいでいる。
約束が揺らいでいる様子を眺めながら、定は「あのさあ」と遠離ったなじみの背中へと声を張って叫んだ。
「なーあーにー?」
「お母さんって、どうなったの?」
「ああ。お母さん」
なじみは頷いてから、駆け寄ってくる。声を張り上げて話すような内容ではないと思ったからだろうか。走り寄ってきた彼女は「お母さんは、暫く澄原で保護してくれるって」とそう言った。
「え? 深美さんは保護されるの?」
「そう。まあ、どっぷりだったし、信仰ってのが心の寄る辺だったのは確かだからさ。ケアをするんだって。
だから東浦の、ほら、あの団地も引き払って晴陽先生が用意した部屋で再出発。だから、私も学生寮なんだ」
学生寮で暮らす提案をしたから彼女は母親から離れて過ごすのかと少しばかり心配したが、どうやらそういうわけではないようで。それだけでも一つ安心する。
綾敷深美は夫を亡くしてから『壊れてしまった』のだ。その心の穴を塞ぐには少しだけ時間が必要なのだろう。親子としての隔たりを埋めるための準備期間でもある。
「それでも、お母さんとは逐一会いに行くことにしたんだよ。やっぱり、私とお母さんに足りないのは対話だと思うから。
……定君はさ、家族と遠く離れてしまったけど……もし、もしも、元の世界に帰れるなら戻りたい? 家族と会えるかも知れないし」
「うーん……」
そこで『帰りたくない』と応えれば親子の関係性を再構築しようとするなじみの現状に差し障るだろうか。それとも、『帰りたい』と願ったならば彼女との関係性だって変わってしまいそうにもなる。
曖昧に濁した定に「もし、定君と一緒に定君の世界に渡れるなら、私は定君のお父さんやお母さんにご挨拶がしたいなあ」となじみは笑う。
「家族に挨拶」と定はおっかないことでも起こったかのように言った。勿論、それが嫌なわけではない。ただ、想像していなかった事だったのだ。
「うん。ダメかなあ」
「いや、ダメじゃないよ。けど、それなら僕も深美さんに改めて挨拶しておきたいな」
「あ、じゃあ、明日そうしようぜ。私もお母さんの様子を見に行くんだ」
「あ――しった!?」
思わず変な声を出したと定は口を押さえた。揶揄うように笑ったなじみは「ナントカは急げっていうでしょ?」と可笑しそうに言うのであった。
なじみを送って行くのは学生寮だった。詰まり帰り道も同じなのだ。片付けはゆっくりとするとは言うが、荷物が元から少なかった彼女はそれほど苦労することもないのだろう。
寮の前で「またね」と手を振ったなじみを見送ってから帰り着く場所がほぼ同じなのに、今度はそうなると少し離れた時間が寂しいのだという欲張りさに感じて定は「嫌になるよね、全く」と思わずぼやいたのであった。
翌日、深美が居を移したというアパートへと向かった。澄原病院から徒歩圏内という事もあり本当にその身の上を保護し、管理する目的なのだろう。
チャイムを鳴らして顔を覗かせたなじみと定を見てから深美は「こんにちは」と穏やかに微笑む。そうして笑った顔を見ればなじみとも良く似ているように思えたのだ。仕草や、ふとした瞬間の顔が良く似ている。彼女は父親にだったとはいうが、やはり親子なのである。
「定くんだった……かしら」
「はい。越智内定です」
「あの、神様から聞いています。なじみの彼氏だとか」
「ちっ、違いますケド!?!?!」
あの『ピンクハイエナラブリーゴッド』をちょっぴり恨んだ瞬間だった。神様として慕っていたのは少しだけの間。今はそれもあだ名のように利用しているのだろう。
あら、と首を傾げる深美に「友達ですけど」と定がもごもごと言った。付き合っては居ないけれど、そうした関係性を前提にした友人関係だと理解して欲しい『男心』なのである。
不思議そうな顔の深美はなじみと定の双方を見比べてから「それでも逢いに来てくれてうれしい」と頷いた。簡素な部屋の中にはなじみの子供時代の写真や、その父親と撮った3人の写真が飾られている。
「お母さんは元気?」
「ええ。それなりに落ち着いたと思う。なじみは?」
「学生寮に移ったよ。そこから大学に通うつもり」
深美がアイスミルクティーを用意している様子を椅子に腰掛けたなじみは何気なく見ていた。母親が飲み物を用意する様子を物珍しそうに見る彼女に定は本当に親子関係が破綻していたことを改めて思い知る。
「なじみは幼稚園の先生になるのよね。頑張ってね。お母さんはあまりそういう面には疎いから力になれないかも知れないけれど」
「うん。立派な先生になったらお母さんにも見せて上げるよ。まあ、なじみ先生は完璧かも知れないけどさ!」
笑ったなじみに深美がくすくすと笑った。親子としては歪な2人だが、それでも歩み寄っている。定は何となく妙な居心地の悪さを感じて身を揺らした。
「定君もいるし、私は結構頑張れる方だと思うんだよね」
「……やっぱり付き合ってないの?」
「うん。まだ。けど、今後もお母さんに紹介するのは定君だと思う」
「ッ――お、お、うん」
ねえ、と同意を求められた定がどもりながら何度も頷けばなじみは満足そうにへらりと笑って見せた。
吹っ切れてしまった彼女は強いのだ。平気で好きだと笑って、自覚した恋を満足に生きている。自惚れてしまいそうになる自分を律してから「なじみさんの事はちゃんと見てます」と定は何となく言った。
「ええ、見ていてね。何するか分からないから……」
「あ、確かに……」
深美はそれが心配なのだと嘆息する。拗ねているなじみは「2人とも酷いぜ」と外方を向いた。
何時だって勢いで走って行く。躊躇うことだって知らない彼女は真っ直ぐに生きているのだ。だからこそ、心配になることは多い。
定が代償を支払うと言えば、それを分け合おうと迷うことなく彼女は言うのだ。忘れたって、何度でも好きになる。もしも死んでしまったら生まれ変わっても気味が良いなんて気障ったらしい言葉を定が言おう物なら「まあ、逃がさないよ」と揶揄うように言うのが彼女だ。
だからこそ母である深美は心配しているのだろう。なじみは抱えていた猫を「この子が猫鬼のあざみ」と紹介する。あざみと深美の間にある溝はまだ埋まらないのだろうが、深美もそれを少しずつ受け入れるためにあざみと話している。
なじみは「なんか、よかったなあ」と呟いた。「よかったって?」と定はこっそりと問う。深美とあざみが話している様子を遠巻きに眺めるなじみは「んー」と唸ってからこっそりと言った。
「もしも、あざみが私とずっと一緒なら、お母さんは私のことを異物のように扱ったんじゃないかなって想ってるんだ。
勿論さ、お母さんにとっては夜妖も、その在り方だって、怖い物だとおもうよ。けど……そうじゃなくなったんだと思えば、それだけで嬉しいなあって」
「そうだね。僕も最初は夜妖なんて化物、恐ろしかったよ。けど、深美さんにとってはあざみはお父さんを奪った存在だから、怖かったんだろうね」
「うん。屹度ね、はじめてがそうだったから」
父親の身体の中を食い尽してしまったあざみ。それがその在り方だとしても、何も知らない一般人からするとさぞ恐ろしいものに映っただろう。
幼い子供と手を繋いで居た幸せな時間を別ったのもあざみだった。あざみが居たからこそ、なじみは言葉を、記憶を、全てを喰らい尽くされる運命を背負っていたのだから。
「だから、こうしてあざみが何の縛りも無く、普通に生きていける未来が出来たんだと思えば嬉しいな。勿論、私と一緒にはいるけれどね」
「あざみと別個の存在になりたいって思う?」
「あざみはきっと望まないよ。多分ね、そういう在り方なんだと思う。人間に憑くように作られたから、それ以外の縛りが分からないみたいな、さ」
勿論、あざみが望むのならばなじみはひよのにでも頼んだだろう。あざみはそうは望まなかった。自らの在り方が呪詛であるならば、それはヒトが存在するからこそだとも考えて居たのだろう。
「だから、私はずっとあざみと生きていくけれど、それだけじゃ屹度疲れてしまうから。だから、君がいると良いなって思うよ」
「それは僕がなじみさんの未来と一緒にってこと?」
「うん。そうであれば良いなって思う。勿論、定君次第だけど、さ!」
にんまりと笑ったなじみに定は「まあ、そりゃあね」ともごもごと言った。歯切れが悪くなったのは視線が突き刺さったからだ。深美とあざみが此方を見ている。
ああ、どうしたって『好きな女の子のお母さんの前』でそんな事を簡単には言えやしない。勿論、なじみと生きていく未来があれば嬉しく思う。簡単に全てを吐露できるならこんなにも患っていないと文句だって言いたくなる。
それ位、彼女の事を好きで居た。彼女がいたからこそ定の『特異運命座標』としての物語が始まって、彼女と共に駆け抜けてきた。
「あ、どうぞ、お気遣い無く」
「気は遣いますけど!?」
「あら」
深美がくすくすと笑った。ああ、こういう所は母親譲りなのだろうか。深美は面白そうに笑ってなじみを見た。
「ねえ、定君。私の子供って多分私に似ると思うんだよね」
「いや、まあ、なじみさんに似て欲しいけど――って、違うよそういうことじゃないよねェッ!?」
何を云うのだと思わず騒がしく声を荒げた定になじみはもう一度楽しくなってから笑った。母親との関係も、これからの生活も、まだまだ始まったばかりだ。
過去の自分たちがどうやって歩いてきたのかは少しだけ忘れてしまった。それでも、その少しを埋める為の相手は目の前に居るのだ。
喪ったものを取り戻すように、共に過ごしていけば良い。深美と顔を見合わせて笑うなじみならば、近い未来には母親と『当たり前の毎日』を送る事だろう。
――過ぎゆく君に、伝えたい言葉がある。ありがとう、それから、『待っていてください』。
屹度何時か、思い出した時にはそれら全てが良い思い出になるのだ。その時には、君がくれた言葉にきちんと返事をしよう。
どんなことがあったって、何があったって、変わらない。君が大好きだよ、定君。誰よりもね。
揶揄い笑った彼女の言葉に『半分になってしまった』想いが満たされたときに、返すのだと決めたから。
「定君、ケーキ食べる?」
「あ、有り難う。そう言えばお土産で持ってきてたね。深美さん、お皿借ります」
「ありがとう。あっちにあるからね」
立ち上がってから定はちらりと振り返った。今は彼女が笑ってくれているだけで、それだけで胸が一杯になるのだ。
ああ、本当に、いつまで経っても患っているのだ。これで半分だなんて笑わせる。
この自分で更に進行させてしまった難治の病ってやつは、当分の間、苦しませてくれるだろう。
- 過ぎゆく君にララバイ完了
- GM名夏あかね
- 種別SS
- 納品日2023年09月15日
- テーマ『『Orange Summer』』
・越智内 定(p3p009033)
・綾敷・なじみ(p3n000168)