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Buona e dolce notte
登場人物一覧
人が夕暮れ時を感じるのはやはり空を視た時。
日が沈もうとして茜の光が薄っすらと帯びを引き地平を染めて、夜が待ちかねたように青を昏くして控えめに月が覗く――そんな景色だろうか。
1日の締めくくりに酒場には人が集い、陽気な笑い声をあげて樽杯を交わしている。世界が夜を迎える中で酒場は「まだ1日は終わらぬ」とばかりに灯りを燈して木壁の室内をあたたかなオレンジ色で照らしていた。そこには、人の熱が溢れている。
「わーい、お疲れ様! グレンがかばってくれたお陰で、攻撃と回復に専念できましたわー!」
幾つもの木製卓と椅子が並び、給仕が忙しなく行き来する中グレンの正面に座るヴァレーリヤが溌溂と笑って樽杯を持ちあげた。
「ありがとうね」
仕事仲間へとパチッとチャーミングにウインクする彼女にグレンが口角をあげる。
ヴァレーリヤは酒好きと前々から聞いていた。酒を手に笑う彼女は一団と愛らしく魅力的に見える。
ヒーローに憧れる男にとって、守った仲間に感謝されるというのは実に「悪くない気分」だった。
「ああ、お疲れ様だぜ」
樽杯を持ち上げる仕草は洗練されていて女性の目を惹きつける。
――仕事が無事に終わってなによりだ。お疲れ様だぜ、ヴァレーリヤ。
――お疲れ様、グレン! 成功したのはグレンのおかげですわね。
――お互い様だぜ! 全員の力あってこその成功だ。俺たちはパーティで作戦を遂行してるんだからな。
先刻まで仕事をしていた二人。
仕事が終わって互いの健闘を称え合い、どちらからともなく誘い合って打ち上げをすることになったのだ。
「レディに傷付けさせるわけにはいかないからな。こっちこそサンキューだ、お陰で守りに徹して耐え抜けたぜ」
荒くれ者が聞けば「キザな奴め」と眉を顰め、純情な乙女が聞けば姫君になった心地で頬を染めるであろうその声にヴァレーリヤはニコニコとして樽杯を傾ける。
クリアな味わい。
(ジーズナヤ・ヴァダー! 生命の水が身体に火を点けてくれるようですわ!)
ヴァレーリヤはザクースカに似た肴をつまみながら酒をどんどん飲んでいく。明るい緑色の豆とオーク製の樽で漬けられた瑞々しい葉野菜に熟れたトマト。熱いブリヌィに蕩けるバターを乗せ、謝肉祭のように青ネギを振って頬張って。幸せに体温を上げていく。
「おっ、美味い」
グレンは厚切りステーキをざくりと切ってアツアツの肉汁とオリジナルソースの刺激を味わっていた。聖職者とこんな風にステーキと酒を味わう夜なんて子供の頃には想像もしなかったものだ、なんて心の隅で考えながら。
――生きている。
誰もが自分勝手に、子よりも、親よりも、何よりも我が身大事と生きる世の中。誰かのために誰かと戦い、それで得た金で食って、生きている。
グレンが思い出すのは、小さな自分が視ていた世界。低い視点から長身の大人たちを油断なく見上げて、背中に隙を探していた。
「きゃっ、お客様、だめですよぉ!」
そばかすの浮いた素朴な容姿の看板娘が尻を抑えて客を窘めている。
「なんだよ! サービスしろ!」
丸太のような腕をした荒くれ者がガラガラ声でがなりたて、グレンはヤレヤレと席を立つ。ヴァレーリヤはそれを観ながらぐいぐい酒を煽っていた。
ただの荒くれ者相手だ。軽く腕を捻って気障に窘め、凄んでダンスを披露するようにポイッと店の外に追い出して。一連の流れが10分にも満たない手際の良さでヴァレーリヤはパチパチと拍手をして席に戻ったグレンを称えた。
「さすがれすわね!」
視れば看板娘がすっかり「勇者様」に魅了された乙女の目になっているではないか。
「ヒーローれすわ!」
称える言葉は、若干呂律があやしくなっていた。
「なあ、ヴァレーリヤ……」
席に落ち着き、ふと会話を振ろうとしてヴァレーリヤのペースに気付いたグレンはぎょっとした。
「おいおい、ラッパ飲みかよ、しかもウォッカだと?!」
言っている間にもヴァレーリヤはぐいぐいと酒が進んでいる。砂漠を長時間旅した後ようやくオアシスに辿り着いた旅人のように美味しそうに――、
「それは水じゃないぜヴァレーリヤ!? ペース早すぎじゃ!?」
「なんれすの、私のお酒が飲めらいとれも?」
「!?」
グレンが息を呑む。
(もう酔ってるじゃねえかー!!)
相手は既に酔っ払いだ! 酔っ払いヴァレーリヤは真っ赤な顔でグレンに酒を勧めてくる。
「真に成功を祝う気持ちがあるのならー! このウォッカを一気飲みできるはずでごらいまふわ!!」
「絡み酒かよ一番厄介なヤツだな!? ああわかった! わかったから絡むなよな!?」
グレンがヴァレーリヤを宥めすかしながら酒を飲む。
(い、依頼では建設的な献策も多くて有能で真面目なシスターなのに)
「ぐー、れん、ちゃんと飲んでますの!? ひっく」
「飲んでるって!」
(酒癖悪ッ……!)
「零さないようにぃ、グラスを、ひっく。支えてあげますわ、全部飲むまで息をしては、だめですのよ」
「死ぬ!」
「水みたいなものですわね、うぃ……、ん。水も滴るいい男……上からかけてみますわね?」
「ま、待て待て。せっかくの酒をもったいねえ。遠慮するぜ」
「そうですわね、お酒は飲まないと」
ほう、とため息をつくヴァレーリヤ。
「神に感謝を……」
「それは何の感謝だ……ヴァレーリヤ……?」
いかにも敬虔なシスターらしく慣れた様子で祈りをささげ始めたヴァレーリヤにグレンは軽いツッコミ疲れを感じた。
「この貝が、ひっく。大きくて~、ぷりぷりの~、やわやわですのよ、うぃ。噛むとじゅわわ~って」
あーん、とフォークに刺した大きな煮貝を差し出すヴァレーリヤにグレンは酔いが廻りそうにクラクラする頭を押さえて口を開けた。
「あーん」
ぱくり。フォークが口の中に貝を突っ込んでくる。ぐいっと元気よく、勢いよく。
「ぐっ」
喉奥まで勢いのまま進もうとするフォーク。酔っ払いヴァレーリヤの手をグレンは慌てて掴んで止め、フォークから解放された。もはや生命の危険を感じるレベルである。
「美味しい……? ですわね?」
美味しい以外の返答は許さないようだ。そう思いながら咀嚼すれば貝は確かに自然で優しい海の味がした。
「美味い」
素直に頬を緩めればヴァレーリヤが破顔する。
「たくさん、食べるのですわよ」
「あーあ、出来上がっちゃって」
自分も相当赤くなってるだろうが、と呟きながらグレンが見つめるヴァレーリヤは頬も耳も林檎のように真っ赤だ。完全に出来上がっている。
「栄養がたっぷりなのですわ」
「だろうな、肉も美味いぜ」
「食べたいものをなんでも食べさせてあげますわ、ひっく。」
「それは、ありがとう……」
「注文しますわ。メニュー上から下まで全部」
「待て!?」
「全部10人前ずつ」
「撤回! 注文は撤回だ!」
ああ、この祈りを聞く神よ、鉄帝人の酒豪っぷりをご覧じろ。天井を仰いでグレンは「俺も聖職者になれるかも」と呟いた。もちろん、聖職者になるつもりはないが。
そうしている間にもヴァレーリヤはカパカパぐびぐびとウォッカをラッパ飲みしている。
「なあ、あのテーブル見てみろよ。すげえ飲みっぷり」
「ありゃあ、シスターじゃろ?」
気付けば周囲の客からも「なんかすごいシスターがいる」と思われている始末。
「上玉じゃねえか」
「貴族の娘みたいな艶のある髪に白い肌だ」
そんな声まで聞こえてグレンは「先に酔い潰れる訳にはいかない」と酩酊感に耐え水を飲んだ。
「たいへんですわ」
グレンの気も知らず、ヴァレーリヤは子供のような声をあげた。何か一大事らしい。グレンは水の冷たさで気を引き締めながら彼女を見た。
樽杯とグラスとフォークとナイフとスプーンと料理皿で混沌とした卓に頬杖をついてヴァレーリヤがグレンを上目遣いに見つめている。
「わらくし、なんらか眠くなって参りましたわ……」
「あぁ?」
「グレンを酔い潰してお会計を押し付ける野望が……」
「待て、寝るなら家に帰ってからに……ってコイツ、さりげなく小狡いこと言いやがったな……!?」
ずるずる、ぽてり。
崩れ落ちるようにテーブルに突っ伏すヴァレーリヤの呟きにグレンが耳を疑う。
(聖職者のイメージがどんどん崩れていく……!?)
「おい、寝ちまったのか」
軽く肩を揺らせば「うぅん」と色気のあるようなないような声が零れて寝顔が見える。
上気した頬は幸せそうに緩み、体からは完全に力が抜けていた。すう、すうと寝息が規則正しく、聞いているだけで安らいで眠くなるようだった。
「やれやれ、寝顔は天使ってか? ったく、しょうがないな」
肩を竦めてグレンは口の端をあげた。
(元々奢るつもりだったんだぜ)
女性との食事だから。
最初はそのつもりだったのだ。
(しかし色気のない事だ)
喉奥から笑いがこみあげて仕方ない。
(楽しい飲み友達への礼ってことにしとくか)
そう思いながら会計を済ませようとすれば、提示された金額はグレンの財布を一気に薄くしてしまうほど。
(飲みすぎだーーーーーーっ!?)
酔いが吹っ飛ぶ衝撃であった。
「お、お客様。よろしいでしょうか?」
くたびれているものの清潔感のあるエプロンを着用した酒場の看板娘がグレンの顔色を窺い、「よろしいですよね」と営業スマイルを見せている。よろしくなくとも金は払わねばならないのだ。世の中とは無情である。グレンは首を縦にした。
「ああ、……美味かったよ。給仕に忙しなく動いて活き活きと仕事する君の笑顔も最高だったぜ」
「まあ!」
気障なリップサービスと精悍な笑顔にきゃっ、と頬を染める看板娘が初々しい。先ほどまでの酔っ払いシスターと比べると笑いがこみあげてしまうほどだ。
「ふ、あははは、いや。悪い悪い。またな」
(実際、楽しい時間だった)
(美味い飯と酒と楽しい仲間と――、いいじゃねえか)
グレンは薄くなった財布を悪くない気分で懐に仕舞い、ヴァレーリヤを店から連れ出した。小柄なシスターは神様が用意した揺り籠の中で眠る赤子のようにぐっすりと安心しきった顔で無防備に眠っている。
その容姿は酒場にいた
「……、……」
むにゃむにゃと呟くのは人の名前のようにも聞こえた。
上空には太陽の色をすっかり眠らせて世界を包み込むような満天の星空が広がっている。深い藍色の空は天鵞絨めいて、散りばめられた銀砂の星の美しさが世界の空気が澄んでいるのだと教えているようだった。
街はそんな夜に「まだ眠らぬ」とやんわり抵抗するように灯りを燈して眠った太陽の代わりみたいなオレンジの光でぼんやりと周囲を照らしている。
「あったかく、して」
何かを呟く酔っ払いを連れて歩く。
吐く息がふわりと白い。体温よりも、吐く息よりも世界が冷えているのだ。熱を持つ生の証拠ともいえる息を吐き、息を吸い、人々が夜を歩いていた。
「な、ないで」
ヴァレーリヤが何かを言っている。
(一体何を言っているやら……)
グレンは紳士的にヴァレーリヤを棲み家まで送り届けた。ローレットに貸与された、ある建物の一室。彼女はそこを「秘密基地」と呼んでいた。
「はあ」
無事に送り届けられたことに安堵して。
背を向けようとして――、
「し、なない、で」
動きを止めた。
振り返る先のシスターは、目を閉じている。規則正しい呼吸で肩が上下して、――眠っていた。
――たくさん、食べるのですわよ。
――栄養がたっぷりなのですわ。
――食べたいものをなんでも食べさせてあげますわ。
(ああ、そうか)
(そうなのか。そうなのか?)
彼女は、自分ではない誰かに美味しい貝を食べさせていたのかもしれない……と。
グレンは、このシスターの全てを知っているわけではない。だが、なんとなくその時はそう思ったのだった。
何故なら、グレンは「そんな世界」を生きてきたからだ。それは身近であったからだ。その気配を知っていたからだ。
眠る頬に手を添えれば寝言が止まった。
「どうせなら」
「良い夢、観ろよ」
(少なくとも、俺はまだまだ死なねえぜ)
見守るシスターが少しの間じっとして、やがて微かに頷いた。その気配に微笑む。
「おやすみ」
今度こそ、と手を放せば数瞬前までの熱の名残で掌がぬくぬくとしていた。あたたかな部屋の中、吐く息は透明で凍えることもなく、幼子がするように背を丸くしてシスターが眠る。
「おやすみ、ヴァレーリヤ」
そうして朝の日はまた、誰の上にも昇るだろう。