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手を伸ばせば
登場人物一覧
突抜ける青空の向こうに、真っ白な入道雲が見える。
茹だるような暑さの中、時折吹く涼しい風が風鈴を鳴らした。
慌ただしく過ぎて行く日々は、物思いに耽る暇さえ与えてくれないと遮那は肩を竦める。
けれど、今はそれが精神的な支えになっている。
忙しく追われれば追われるほどに、胸の内を渦巻く悲しみを考えずに済むからだ。
思わず『灯理』の名を呼ぶことも無くなって来た。
「ふぅ……」
じっとりとした暑さに溜息を吐く。こうも暑いと汗で書簡が湿気ってしまうのだ。
着物の裏地に肌が吸い付いてしまって気になる。集中力も途切れ、意識は其方へ向かうばかり。
長い息を吐いて、遮那は椅子の背もたれに身体を預けた。
「遮那くん、お疲れ様です。休憩しますか?」
頃合いを見計らって緑茶を淹れてきたルル家が執務室の戸を開ける。
盆の上には茶と一緒に美味しそうな芋羊羹が乗せられていた。
「ああ、そうしよう」
机の前にある渡来品のソファに腰掛ける遮那。その隣へルル家はちょこんと座る。
同じように緑茶を啜りながら、何気ない会話をするこの時間が遮那は好きだった。
「そういえば、ご提案があります」
「何だ? 申してみろ」
芋羊羹を頬張りながら遮那はルル家を見遣る。
「この前のお祭りでは、来年には神ヶ浜のお祭りの復興をしたいと約束をしました」
「ああ、そうだな」
遮那の義兄と姉の思い出の地である神ヶ浜。
そこで行われる祭事を再び蘇らせたいとルル家は考えているのだ。
「でもやっぱり、今年から始めてみたいと思いました。善は急げというでしょう?」
規模は小さくても構わない。むしろ小さい方が練習にもなるとルル家は提案する。
「そうだのう。なら、晴明に相談してみるかの、帝に掛け合ってみてくれるやもしれん」
忙しい身の上である中務卿だが、頼れる兄貴分でもあるのだ。何でも一人で抱え込もうとしてしまう遮那に頼られるのなら力を貸してくれるだろう。
「他に人でも必要だろう。これは町の人々にお願いするとしようか」
「そうですね。もしかしたら協力してくれない可能性もありますが……」
大戦の逆賊として責任を取った天香家の権威は地に落ちたといっても過言ではないだろう。
貴族の間では倦厭され、関わりたくないという町人もいるのは間違いない。
けれど、それでも『遮那坊』と呼ばれていたやんちゃ坊主が、当主の責を背負い頑張っている姿を見て、応援したいという人々も多くいるのだ。外出する事も多いルル家はそれを肌で感じている。
「大丈夫です! 一緒にお祭りを手伝ってくれる人を探しましょう!」
「ああ、そうだな……姉上たちもきっと喜んでくれるに違いない」
遮那はルル家の楽しげな表情に目を細めた。
――――
――
木の杭が打ち込まれる音が神ヶ浜の潮騒に混ざる。
普段は静かな波打ち際が、今日は心なしかはしゃいでいる様に見えた。
否、高揚しているのは自分の心であるのかもしれない。遮那は組み上がっていく屋台に目を輝かせる。
「準備は順調のようだな」
「あ、遮那様! いらっしゃったんですね」
屋台に掛ける布を選んでいた女官たちに手を振る遮那。
彼女達は天香家に入ってから日が浅く、神ヶ浜のお祭りが初めてで張り切っているようだった。
懸念していた中務卿への相談は、割と楽しいことが好きな帝が乗り気になったようで、思ったよりも規模も大きくなっていた。そうなれば人手も天香家の人員では足らず、町の人々の助けが必要になった。
「遮那坊が、立派になってなぁ!」
「お主は団子屋の……」
気さくに話しかけてくるのは、遮那がよく行く団子屋の主人だった。今日は店を娘に任せて手伝いに来てくれているらしい。
「ああ、呉服屋の竹さんも、傘屋の喜久次郎さんも、駄菓子屋のウメさんも……他にもいっぱい来てるぜ」
浜辺に集まった人々へ遮那は視線を上げる。
彼らは遮那が子供の頃から見守ってきてくれた町の『大人』たちだ。
「久々の……『遮那坊』のお願いならお安いご用だってんだ」
「もう、宗さんたら、この方は『天香家のご当主様』なんだから。遮那坊なんて言っちゃあだめだよ」
駄菓子屋のウメが団子屋の宗の肩をぱしんと叩く。
「良い良い。好きなように呼ぶといい。其方達には幼き頃から世話になっておるのだ、今更恰好をつけるなんてことはせぬよ」
屈託無く笑う遮那にウメたちは目頭を熱くした。
「ええ、ええ……立派に成られましたね。ウメ婆は嬉しゅうございますよ」
ほろりと涙を流したウメに遮那はハンカチを差し出す。昔から遮那は優しい子であったとウメはしみじみと思い出を語る。それを聞いて顔を赤くした遮那を見つけ、ルル家は目を細める。
「――おい、あれは何だ?」
水平線をじっと見ていた傘屋の喜久次郎が声を上げた。
見れば青い海が黒く染まっているのが分かる。それは次第に大きなうねりとなり海岸へ迫った。
「ルル家!」
駆けつけた遮那はルル家の隣へ並び立つ。
「あれは何だ?」
「おそらく海に棲まう妖の類いでしょう。嫌な気配を感じます」
楽しい祭事への妬み嫉み。そんな負の感情が海に流れここまでやってきたのだろう。
されど、この場には何人もの神使と遮那の家臣が集っている。
このような些末な戦いで負けるべくもない。
「遮那くん、刀は持って来てますか?」
「ああ、問題無い」
鞘から太刀を抜き去った遮那は陽光に刃を煌めかせた。
「戦えぬものは奥の松林まで避難せよ! 戦えるものは我に続け!」
先陣を切る遮那はルル家の手を引いて空へと羽ばたく。
「掛かれ――!」
遮那の号令のもと仲間達が一斉に海の黒き妖へと刃を向けた。
――――
――
静かな暗き海に漣の音が寄せて引いてを繰り返す。
橙色の提灯も今は消えて、祭りの熱気はもう見当たらない。
仄かに寂しい空気がしてしまうけれど、充実感もまた身体の芯を満たしていた。
天香邸の家臣たちや街の人達、沢山のひとがこの祭りに集まってくれたのだ。
自分達が唯の人だったならば、到底成し得なかっただろう。
これは遮那やルル家が頑張った成果である。
「お祭り無事に成功してよかったね」
浴衣姿のルル家は遮那の隣で笑みを向けた。
「ああ、其方が祭りを復興させると申した時はどうなることかと思ったが」
強い意思で彼女は人々を動かし祭りを見事復興させたのだ。
頼もしい限りだと遮那は目を細める。潮騒の合間に耳に残った祭り囃子が聞こえてくるようだ。
「よく頑張ったな……」
遮那はルル家の頭をそっと撫でる。整えられた金色の髪が少しだけ崩れた。
けれどもう、誰も見ていないのだから気にする必要もない。
ルル家は為すがまま遮那の手の感触に目を瞑る。出会った頃は変わらないと思っていた手も、もう随分と大きくなってしまった。ルル家は遮那の手に自分の手を乗せる。
「ん? どうした?」
「いえ、大きくなったなと思いまして」
目の前に持って来たお互いの手を重ね合わせれば、一回りも二回りも大きい。青年の手であった。
「ふふ……其方にとっても私はまだ子供のままなのかの」
目を細めた遮那に慌てて首を振るルル家。
「違うよ、そうじゃなくて……遮那くんがこんなに成長するまで一緒に居られたのが嬉しくて」
「そうか。私も其方が傍に居てくれて感謝しておるぞ」
豊穣で起きた大戦の折、複製肉腫になった遮那に手を伸ばしたのはルル家だった。
彼女がいなければ遮那は呪いに侵食され、反転していたかもしれない。
遮那が安心して背中を預けられる存在、それがルル家だった。
彼女が望むなら何でも与えてやりたいし、傍に居て欲しいと願う人だ。
実際にルル家は側仕えとしてよく働いてくれる。
安奈や忠継の次ぐらいに、共に居る時間が長いとも言えるだろう。
「義兄上や姉上も喜んでおるな」
遮那は静けさを取り戻した神ヶ浜に視線を向ける。幼い頃は夜の海は暗く怖いものでしかなかったけれど、こうしてルル家と一緒に居ると不思議と居心地の良いものに感じた。
「はい! そうだったら嬉しいです!」
誇らしげに満面の笑みを浮かべたルル家は遮那へそっと近づく。
腕を掴んで見上げてくるルル家に首を傾げる遮那。ルル家はそのまま遮那の首に抱きついた。
「ん……どうした?」
人肌恋しいのか、時々こうしてルル家は抱きついて来る。
こういうときは何か言いたいことがあるときだ。不満か要求か、寂しさか。何方にせよ遮那はルル家に抱きつかれることには慣れていた。
「遮那くん、私頑張ったよ」
見上げてくる緑柘榴の瞳は星空を写し美しい宝石のようだった。
「ああ……よく頑張った。えらいぞ」
背に腕を回し、ぽんぽんと優しく叩く。すると嬉しいのか寂しいのか分からないような表情を浮かべた。
「ねえ遮那くん……今日、私の誕生日なんだよ。忘れちゃった?」
「覚えておるよ」
懐には布の小包に入れたルル家への贈り物が忍ばせてある。
腕輪に首飾りに小指の指輪、色々なものを贈ったけれど、今年の誕生日は特別だ。
「何にしようかと、毎回考えるのだが……」
「考えてくれてるのですか!」
「それは勿論、考えるだろう。大切な人への贈り物だぞ」
懐から布の包みを取り出す遮那。ルル家はそっと布を開く。
そこには小箱に入った小さな石が入っていた。緑柘榴の綺麗な石だ。
「これは春日村からもう少し行った所にある洞穴で見つけてきたものを磨いたのだ。霊脈の上にある洞穴でな高い霊力が備わっておる。そなたの瞳の色によく似ておるからな。私の風の魔力も注いでおるから、きっと其方を守ってくれるぞ。これを何につけるかは其方次第だ。一緒に選びに行ってもよいぞ」
先に石を送り、それに合うペンダントや指輪を自分で選ぶのは二人の意志が合わさっているようで、何だか嬉しい気持ちになってしまう。
「――夏の夜 神ヶ浜の 歌想い 我も恋しき 貴方とぞ想ふ」
ルル家は遮那を見つめながら短歌を読み上げる。
貴方の大切な人達が結ばれたこの場所で、愛しい貴方との思い出を作って行きたい。
そんな想いが込められた歌が遮那の心にじんと染み渡った。
思い出すのは義兄と姉の仲睦まじい後ろ姿。記憶の奥底にある理想の形であるだろう。
天香邸に青空の帳が降りたことで、鮮明に蘇った二人の懐かしき姿もある。
遮那は夜空を見上げ間を置く。彼女に送る返歌はどのようなものがいいだろうか。
義兄や姉のように美しい響きではないのかもしれない。
けれど、きっとそれは遮那の等身大の心だ。
「――暗き海 瞬く星の 一雫 緑柘榴の 光を想う」
遮那の声は余韻を残しながら、しんと静まりかえった海には漣が押しは引いていく。
「先程見た、夜空に瞬いた流れ星は、まるで其方の緑柘榴の瞳のように輝いていたのだ」
短歌に込められた想いは繊細で柔らかく、二人の間に響いた。
ルル家は胸の奥から湧き上がる感情に鼓動を昂ぶらせる。
「ねえ、遮那くん……好きだよ。大好き。遮那くんも私のことを大切だって言ってくれたよね。
でもやっぱり、不安になる時もあるんだよ。だから、その証をちょうだい?」
月明かりに照らされたルル家の顔は、赤く染まっていた。
親友でも側仕えでもない、一人の女の子として。遮那からの愛がほしい。
今だけは、その琥珀の瞳に映るのは自分だけでありたい。
「分かった……」
遮那はルル家の背に腕を回す。確りと支え細い身体を抱きしめた。
耳元で囁かれる「大好きだぞ」という言葉にルル家は顔を朱に染める。
伏せられた瞼と頬に親愛の口付けを、唇に愛情の印を落した。
焦がれる恋を知らず、大人にならざる終えなかった歪さなのかもしれない。
けれど、曖昧な道を歩んでしまった琥珀の少年の、精一杯の愛情である。
その『優しさ』は側仕えとして同じ時間を過ごしてきたルル家が一番よく知っている。
だからせめて、その手を引いてあげるから。傍で支えてみせるから。
あの日と同じように、絶対に手を離さない。
――だから、ずっと傍にいさせてね。