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誰よりも愛している
登場人物一覧
春疾風が砂を抱き、舞い上がる。人々は春の装いに変わり始めている。
「ああ……目が壊れそうだぜ」
博物館を出てすぐにジェイク・太刀川 (p3p001103)は眩しそうに目を細める。春といえど、風はその身をすぐに冷やしてしまう。ジェイクは大きな身体を僅かに縮ませ、ぶるりと震えてみせた。
「幻、急に寒く感じないか?」
見上げた空には雲が浮かび、特に天候は崩れていないようだ。それなのに。
「ええ、博物館は適温で御座いましたので、寒く感じるのでございましょう。実際、僕もそのように感じています。眩しいのは薄暗いところから明るいところに出たからで御座いますね」
夜乃 幻 (p3p000824)は目を細め、ジェイクの横顔を見つめる。鋭利な瞳にはいつだって優しさが滲み、笑う度に尖った歯が口内で白く光っている。幻はジェイクの全てを愛している。彼といる時、幻は奇術のような驚きや感動をありありと感じている。
「ジェイク様、巡回展が見れて僕はとても幸せで御座いました。ジェイク様がチケットを買ってくれたお陰で御座います」
「喜んで貰えて良かった。俺も色んな鏡が見れて楽しかったぜ」
笑う。取り寄せた博物館のチケットが役に立った。
「何だか、不思議な空間だったよな」
ジェイクは先程の光景を思い出す。静かに鏡を巡り歩く。時折、指を指し、視線を交差する。そこには鏡しかなかった。薄暗い部屋で鏡だけが淡く冷たい光を放ち、存在を告げる。鏡に自らが映りこむ度に、吸い込まれ、消えてしまいそうになる。装飾の施された鏡、木の枠の鏡、様々な鏡が誰かを待っているかのようだった。多くの心を惹き付けたのは、確か仙人掌の苛立ちという、丸いフォルムの可愛らしい手鏡だった。鏡の中心に模様のように薄い罅が刻まれていた。禍々しい殺気と不快感に、幻とジェイクはすぐさま、手鏡から離れたのだ。
「そうですね。ジェイク様、僕は特にあの誰も映すことのない鏡に心を奪われてしまったのです。あのようなものがこの世に存在するのですね」
風が翅を揺らし、ホットドッグの芳ばしい香りが悪戯のように漂う。
「きっと、姿を映したくない誰かのための鏡なんだろうな。それとも、映らない誰かの為の鏡かもな」
ジェイクの言葉に幻は小さく頷く。
「ジェイク様、最後に見た嘘を映さない鏡も僕はとても面白いなと思いました」
幻は真っ青な鏡を思い出している。そこには、嘘を吐いた相手を映すことは決してないと書かれていた。もし、心に刺が刺さっていたのなら、鏡の前で悪魔のような言葉を吐いていたのかもしれない。
「だな。でも、俺は幻に嘘をつくことはないぜ。どんなことがあっても俺は幻を悲しませたりはしないさ」
眩しげに笑うジェイクを見つめ、幻は頬を染める。
「それはとても幸せなことで御座いますね」
本当に、勿体無いくらいに。
「だろう? 俺は幻をずっと幸せにするって決めてるんだからな」
幻は恥ずかしそうに頷く。つまらない女であると、そう、恐れているこの気持ちをいつだって、ジェイクは溶かしてくれる。
ジェイクは幻は目を細める。幻を見つめる度に、彼女のすべてに触れたいと思ってしまう。ああ、ほら。奇術のように、俺は君から目を離せない。ジェイクは笑い、口を開いた。気が付けば喉が渇いている。高揚しているのはきっと、あの理由からだ。
「幻」
「ジェイク様?」
幻は立ち止まり、小首を傾げた。黒真珠のような光彩に触れれば、忽ち、眩暈のような愛が
「何か気になることでも御座いますか?」
忘れ物でもしたのだろうか。それとも──
瞬く間に不安になる。気が付かないことで、ジェイクに幻滅されたのかもしれない。
「いや──……幻、誰よりも愛してるぜ」
ゆっくり伝えたのは、彼女に意識させたかったから。ジェイクは途端に真っ赤になる幻を見つめながら、驚かせないよう幻の指先にそっと自らの指を絡ませる。幻の手は小さくてしっとりとしている。拳銃を扱うジェイクとは異なり、その指は柔らかく美しかった。
「幻、行こうぜ?」
自らの言葉が心を大きく震わせる。
「は、はい。ジェイク様」
より頬を染める幻。導かれるまま、ジェイクの家へと向かう。
扉を開けた途端、彼の香りがした。広い玄関には見覚えのある靴が一足置かれていた。
「ジェイク様、お邪魔致しますね」
初めて見る光景。
「ああ、入ってくれ。そこにスリッパもあるぜ」
互いの
「ん? 何か変だったか?」
もしかして、選んだ柄が変だっただろうか。
「いいえ。僕は大変、嬉しゅう御座います」
星柄のスリッパを履き、両耳を真っ赤にする。
「ああ……こういうのは必要なんだろう?」
ジェイクはスリッパを見つめ、照れたように笑い、部屋の扉を開ける。
幻は目を細める。
「ジェイク様のお家に僕は今、いるのですね」
噛み締める幻。
「はは。ザ・男の部屋って感じだよな」
ローテーブルに置かれたガラスの灰皿は綺麗に洗われ、壁には銃器のコレクションが飾られている。感じる、煙草のフレーバー。この匂いに触れる度に幻はジェイクをより強く思い出す。とても、綺麗な部屋だと思った。たった一人の来客の為に、掃除をしてくれたのだろうか。書籍や雑誌は本棚にきちんと並べられている。
「幻、適当に座っててくれ。買っておいたケーキと一緒に飲み物を出すぜ」
ジェイクは台所に向かおうとする。いつもとは違う、ジェイクの様子。ケーキをわざわざ、買ってきてくれたのだ。
「ジェイク様」
「ん?」
「お招きいただき、本当にありがとうございます。ジェイク様らしくて僕はとても、このお家が好きになりました。そして、ケーキもありがとうございます」
精一杯の感謝を伝える。もしかしたら、もっと、別の言葉があったのだろうか、幻はハッとし、ジェイクを見つめてしまう。
「それは良かったな。幻、わざわざ、来てくれてありがとう」
にっとジェイクは笑い、台所へと消えていく。脈打つ心臓。ジェイクはヤカンを火にかけながら、幻を思い出す。震える思い。幻を抱きたいと思った。触れたい、そして、愛する人に触れられたかった。誰も知らない幻をジェイクは知りたいと思った。ジェイクは息を吐く。手を伸ばせば、触れられる距離に幻はいる。ただ、それ以上に。首を左右に振る。愛しているから、誰よりも大切にしたいと思った。怖がらせたくない。彼女には誰よりも幸福でいてほしい。
ケーキは今まで食べた中で一番だった。ジェイクは壁のコレクションを楽しそうに眺める幻を、胡座をかきながら見つめる。誰にも邪魔されることのない時間。孤独などとうに忘れてしまっていた。満ち足りた日々が訪れることをあの時のジェイクは知りもしなかった。
「ジェイク様」
「ん? どうしたんだ?」
首を傾げれば、幻はゆっくりと近づき、恥ずかしそうにジェイクの膝に腰を下ろし、はにかんでみせた。
「あっ……重くはないでしょうか?」
ふと、自らの行為に怯える幻。こんなことをして、失望されやしないだろうか。
「まさか。むしろ、軽すぎて心配になるくらいだぜ」
ジェイクは幻の髪を撫で、溢れ出す愛を一滴も溢さぬよう、薄い唇を塞ぎ、蝶の翅を壊さぬよう、抱き締め、笑いあった。きっと、この幸せはこれからも続くのだろう。